今夜は君の夜屑
 
 
 
 
 
結局、詩乃が奢るからと言っていたのに、橘が払ってくれた。
ランチの後は一旦商業施設に戻り、見れなかったフロアのショッピングを楽しんだ。

「展望台があっちにあるんだ」
「ね、でも行くなら夜が良くない?」
「確かに」
「…夜ならいつでも来れるし、足疲れない?そろそろ俺んち行く?」

橘が、詩乃の手を、力を込めて握った。
乾燥した長い指の腹で、さらりと詩乃の指先を撫でた。

「…行く」

タワーを出て、橘の家まで歩く途中にあったコーヒーショップに寄った。
白とグレー、緑が目立つこじんまりとしたカフェだった。
観光施設が近くにあるだけあって、そういった飲食店も多い印象だ。

「橘って、コーヒーはブラック?甘いものは好き?」
「うん、ブラック。ホットよりアイスの方が好きで、甘いものも好きだよ」
「そうなんだ、甘いものはどんなのが好きなの?」

詩乃と繋いでいない方の手には、詩乃が払った、先ほどのコーヒーショップの紙袋がぶら下がっている。

「なんでも好きだよ。けど自分ではあんまり買わないかも、もらうこと多いし」
「ふうん?」
「あっ、違うよ?打ち合わせで出されたり、差し入れとか、お土産とかね?」
「ふ、疑ってないよ」

詩乃が心の中で思い当たった事実に、橘も遅れて気づいたらしい。
社内横断で動く、営業の橘は他部署からもらいやすいだろうし、クライアントからも多いだろう、ただそれに下心が混ざっていることも多いはずだ。

詩乃の小さな日傘の中に、橘と一緒に入る。
身体を寄せてくる橘が可愛いなと思いながら、詩乃は橘の顔を見上げた。
奥の席へ促してくれたり荷物を持ってくれたり、今日一日、橘がエスコートしてくれるていたことに気づく。

エスコート慣れをしているというか、場数を踏んできたんだろうなと感じさせる橘のこめかみからは、うっすらと汗が垂れていて、それだけなのに格好よく見える。

「なに?ほんとだよ?」
「疑ってないってば」

詩乃がそう言って笑みを漏らすと、橘は少しだけ安心したかのように笑った。
そのまま少し歩いたところに、一度だけ来たことのある、見覚えのあるマンションが見えた。

「あ、ここだっけ」
「そう。暑かったねー、部屋も暑いかも」
「コーヒーとおやつ食べよ」
「うん、ありがとね」

前にここを訪れた時は、夜だったからか、身体が疼いていたからか、そういう雰囲気だったからか、シンプルな外観の黒っぽいマンションを不思議な気持ちで見つめた。

一階は駐車場と通路になっていて、橘の車はマンションの奥にあるらしく、ちらりとそちらに視線を送って、エントランスに入った。

「橘って、自炊するの?」
「あんまりー。最初は頑張ってたけど、結局食材余らせたり腐らせたりしちゃうことが多くて、買って帰ったり、食べて帰ったり」
「土日は?」
「外で済ますか、ご飯だけ炊いてスーパーでお惣菜買ったり?」

近くに肉屋があって、そこのコロッケが美味しいんだよねー、と橘は階数ボタンを見ながら何気なく言った。詩乃はそれに、ふうんと返事をしながら、前回ここで強引にキスをされた記憶に思いを馳せた。

「どうぞ」
「お邪魔します」

こんな定型文も、前回はやり取りされる余裕はなかった。
ゆっくりと足を踏み入れた橘の家は、記憶よりも壁が白くて、明るくて、新鮮な気持ちになった。

「あっつ、クーラーつけるね。くつろいでて」
「うん、ありがと」

ソファが置かれていない、橘の家では大きいビーズクッションがその代わりの場所だった。分厚いラグに腰を下ろし、ビーズクッションに触れると、蒸されていた部屋で少しだけ熱を持っていた。

「温度下げるけど、冷えたら言ってね、風邪ひくといけないし」
「ありがと」

橘はそう言って、詩乃にカフェラテを渡し、ビーズクッションの隣に座った。
じゃり、と中のビーズが動いて押しつぶされる音がして、砂のような音を立てながら形を変える。

「…今日の服、可愛いけどまた短い」
「ショートパンツだよ?」
「だから俺は、丈の話をしてる」

以前もこんなやり取りをしてたな、と思って思わず詩乃が笑った。
買ってからそう時間が経ってないのに、外気温に晒された柔らかいプラスチックの容器には、水滴がたくさん付いていた。手のひらも、ぐしょりと濡れている。

「橘は、こういう服が嫌いなの?」
「好き」
「好きなんだ」

コーヒーをこくりと飲んだ橘の喉仏が、大きく上下する。
そこに上から流れてくる一筋の水滴は、外を歩いた代償だろう。

「じゃあ良くない?」
「彼氏としては心穏やかじゃない」
「誰も見てないよ」
「詩乃は男を分かってない」

詩乃の今日の服装は、白のノースリーブニットトップス。黒いベルトに、白いショートパンツだ。髪は一つにまとめている。

「そうなの?そそられる?」

詩乃はそう言って、橘に視線を送った。
以前からそうだとは思っていたが、橘が服装を気にする様子は詩乃にとって楽しく、少し揶揄いたくなってしまう。


「…当たり前でしょ」

橘が、詩乃の手にあったカフェラテを、ゆっくり取り上げた。
カップが離れた瞬間、濡れた手のひらが空気にさらされて一瞬だけ冷えた。


とっくに氷は溶け切って、まだ半分以上カップに入っているカフェラテの液体が、ゆらりと揺れる。
橘が持っていたはずのアイスコーヒーは、いつの間にか奥の床に置かれていた。

「たち、ばな」
「男なんて単純なんだからね」
「う、ん」
「普通に今日の服はエロい」
「べ、別に…普通の、服だけど」

ビーズクッションに置いていた肘を、詩乃の顔の横に置き直した橘からは、まだ熱気を感じる。でもそれは自分も同じで、引かない汗が体温をじんわり留めている。


「詩乃みたいな可愛い子が、首も出して、ノースリーブで、短いの履いてたら、男は普通に見るんだよ」
「いや、」
「俺がいない時は、その格好しないで」


橘は、詩乃の耳元でそう囁いた。
全身がびりりと刺激を受けたかのような熱い息が、血液を通って広がっていく気がする。

「俺、普通に重いよ」
「え、」
「他の男とか、すごい気にするからね」
「わ、かった」

橘の唇が、耳から首筋に沿って動いていく。
手のひらには、まだ先ほどのカフェラテの結露が残ったままで、じっとりと水分を残していた。
クーラーが風を強く吐き出している音だけが、この部屋で一番大きい。

「橘、汗が…っ」
「別に、俺も汗かいてるし」

橘は、詩乃のショートパンツの中に入れ込んでいたトップスを引っ張り出して、素肌に手を当てた。熱いと感じるのは、自分の身体の熱が、きっと先ほどよりも高まっているからで、

「でもっ」
「今からどうせ、また汗かくよ」

唇が合わさり、橘の言葉が耳の鼓膜の奥でこもったように響いてくる。
ちゅ、ちゅ、と繰り返される水音と、腕を回した橘の首筋が、しっとりと汗ばんでいた。

ああそうか、じゃあもう、関係ないね。
二人とも、すでに汗かいてるんだから。


ビーズクッションが、ざらりと音を立てる。
踏ん張りのきかない柔らかいクッションが、底なしの沼みたいだ。
ふわりと触り心地の良いその生地に爪を立てながら、詩乃はぼんやりと思った。

 
 
 
 
 
 
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