今夜は君の夜屑
泊まりの準備してきてね。
当然のようにそう書いてあったメッセージに、詩乃は少しだけ息を吐いた。
付き合って初めての土日で、デート。
もう何回もそういうことをしているとはいえ、泊まりで、と言われてしまうとその先も想像してしまうわけで。準備してきてねということは、橘の家に泊まるのだろうか。
「おはよ」
「おはよー、荷物貸して」
駅の改札で、橘が会うなり詩乃が肩にかけていたトートバッグを手に取った。明日の着替えと化粧品などが入っていて、準備をしていたらそれなりに大荷物になってしまった。
「俺んちすぐそこだから、一旦荷物置きに行こっか?」
「うん、いいの?」
今日のデートは橘が決めてくれるらしい。
指定された駅は橘の最寄駅で、詩乃が到着時間を伝えると改札まで降りて待ってくれていたようだった。
今日の橘は、さらりとしたチャコールグレーの半袖のシャツに、黒のパンツに、黒のサンダルを履いていた。シンプルなコーディネートだが、その腕には腕時計とブレスレットが光っていた。
スーツの時よりも、彼の広い肩幅や、適度に鍛えられた腕のラインが露わになっていて、影を落としたその横顔が、あまりに綺麗だった。
「どこ行くの?」
「ソラマチのプラネタリウム行こっかなって。行ったことある?」
「ううん、ない」
「プラネタリウムとか、なかなか行かないよね」
「うん、高校生の時以来?」
「へぇ、デート?」
「…どうだったかな」
「デートじゃん」
階段を上がる橘が、詩乃をちらりと振り返って言った。
そんなこと言ったら、きっともっとモテてきたであろう橘はどうなんだと思うも、そんなことを言ってもどうにもならないと、詩乃は返事をしない。
「荷物置いてくるから、コンビニ入ってて、暑いし」
「ありがとう」
照りつける日差しはできるだけ避けたく、橘の言葉にありがたく甘えさせてもらう。
コンビニから空を見上げると、東京の空を突き刺すような高い塔が聳え立っていた。そこの入り口にあるコンビニに入る。
そういえば駅徒歩二分って言ってたな、とコンビニで水のペットボトルを買って、雑誌コーナーで橘を待った。
「お待たせー、行こっか、暑いし」
「ありがと、お水どうぞ」
「ありがとう、詩乃の分は?」
「一緒に飲もうかなって」
詩乃の言葉に、そうだね、と橘は笑った。
もう七月になっていて、外を少し歩くだけでも、むわりとしたサウナのような熱気がまとわりつく。
橘と最初にホテルに行った時から、二ヶ月とちょっとが経っていた。ただの仲のいい同期だったはずなのに。
「なんか昨日サイト見たんだけど、プログラムも色々あるんだよね」
「そうなの?」
「うん、音楽と一緒に楽しめるやつとか、ヒーリングプラネタリウムとか、アニメのキャラクターが出るやつとか」
「へぇ、そんなのあるんだ」
「うん、だからチケットまだ買ってなくて」
「全然いいよ、一緒に選ぼ」
そんな話をしながら、商業ビルのエレベーターに乗り込んで上層階に向かう。
付き合いたてなのにも関わらず、話しながらも自然と手を繋いで、身体の距離が近いのは、もう何度も、夜を共にしたからだろうか。
それなのに昼間にデートをするのは初めてだなんてアンバランスだな、なんて考えながら、詩乃は歩みを進めた。
アーティストの音楽と楽しめるプログラムを選び、指定時間まで商業施設で買い物をして過ごした。橘がチケットをまとめて決済してくれたので、昼は奢ると約束した。
橘の最寄り駅だが、詩乃の駅からも二駅だ。
近いのに意外と来る機会はなく、想像よりも楽しんだ。橘が思ったよりはしゃいでいて、詩乃も嬉しかった。
「プラネタリウム、すごかったね」
「ね、なんか私の知ってるプラネタリウムじゃなかった」
「アートみたいだったね、なんか賞も受賞してるみたい」
「調べてくれたの?」
「うん、昨日サイト見たら書いてあった」
プラネタリウムは、アーティストの音楽と幻想的な映像が融合した空間演出で、全方位から音が流れてくる最新の上映だった。
リクライニングシートに身を預け、音楽と星空が溶け合う暗闇の中、視界が閉ざされた分、隣に座る橘の気配が異常に鮮明になっていた。
肘掛けの上で、探り合うように重ねられた手のひらは指を絡められ、その指先が詩乃の脈動を確かめるように動くたび、少しだけ胸の鼓動が早くなった。
感想を言いながら、橘は建物の外へ歩き出した。詩乃はどこに行くのか問う。
「昼、この中は混むから、すぐ外にあるとこで食べよ」
「うん、どこ行くの?」
「カフェかな?パスタとか、ハンバーグとか、オムライスとかあるよ」
「いいなぁ、お腹すいた」
「いっぱい食べな」
橘が、詩乃の手を引きながら片手にスマホのマップを開き、歩いていく。
三分も歩かないうちに、シンプルなグレーの外観のレストランに到着し、橘は予約してた橘ですと店員に告げた。
「予約してくれてたんだ」
「うん、混むかなって」
「ありがとう」
案内された奥の二人がけの席で、橘は向かい合わせに座った詩乃の方に、メニューを向けて見せた。少し歩いただけで汗が吹き出し、詩乃はバッグに入れていたハンカチで額の汗を抑えた。
「ここのオムライス、上にローストビーフ乗ってるんだって」
「え、美味しそう」
橘がスマホの画面を詩乃に見せた。
綺麗な丸々とした形の黄色が鮮やかなオムライスの上に、ローストビーフが整えられて乗せられていた。オムライスの下に広がっているソースはデミグラスなのか、艶々としていた。
「俺はこっちのチェダーチーズハンバーグにするー」
「あ、そっちも美味しそう」
「半分こする?」
「うん!じゃあ私はオムライスにしよーっと」
すぐに店員を呼んで頼む橘を見つめながら、詩乃はふと思う。
なんだか、すごく今日はエスコートされている気がする。
「橘、ここ来たことあるの?」
「ないよ?近いから気にはなってたけど」
「プラネタリウムもここも、なんか…すごい調べてくれたの?」
「…」
メニューをテーブルの端に立てかけていた橘の動きが一瞬止まった。
会社では額が出るように分けられている橘の前髪が、下を向いた瞬間に柔らかく机に向かって垂れた。
「?」
「……ダサい?」
「え?」
橘は、垂れた前髪をかきあげながら言った。
その頬は、心なしか少し赤い。
氷の音をカランと響かせて、橘は結露した冷たいグラスを自分の頬に押し当てた。指先に付いた水滴が、赤くなった彼の肌を滑り落ちていく。
「…デートだからって、いっぱい調べたの、バレた?ダサい?」
「え…ダサくないよ?」
店内は満席で、立地の良さからも人気なのが分かる。
文字しか書かれていないメニューを見る詩乃に、わかりやすいようにと写真を見せてくれる橘は、きっと昨日しっかり調べてくれたんだろう。
「張り切りすぎだよね」
「え、あの、嬉しい、よ」
大きな手で、顔の半分を覆うように隠す橘の言葉に、詩乃もつられてなんだか恥ずかしい気持ちになってくる。きっと外を歩くのが暑いからと、駅近くで、詩乃の移動も少ないようにと考えてくれたんだろう。
「…初デートだから、それくらいは、ちゃんとしなきゃって思って」
「……気にしなくていいのに」
「恥ずかしい」
「…可愛い」
きっと、デートなんて慣れているだろうに。
女の子に困ったことはないくらい、モテてきただろうに、そんな橘が、初デートだからと調べて緊張するんだ。
詩乃にはそれが、可愛くて愛おしくて、たまらなくて、同い年なのに年下のように思えてきて、つい笑みがこぼれる。
「…笑わないでよ」
「ふ、ごめん、可愛いなって」
「嬉しくないよ」
橘がそう言って、眉間に皺を寄せた。
一瞬外した視線を、詩乃に再び戻す。
橘は意識していないであろう、なんてことのないその流し目すら、かっこいいと思ってしまう自分も、だいぶ橘にやられている。
カトラリーの音と調理音を背景に、目の前の男がたまらなく可愛くて、そのくしゃりとかき上げられたままの前髪を、手を伸ばして直した。
ありがと、と小さくお礼を言った橘の髪の毛がくしゃりと柔らかく、詩乃の指先に感触だけを残していた。