今夜は君の夜屑
 
 
 
 
あの後、橘から返ってきたメッセージは至って普通の、会話の続きだった。
女性とのやり取りに触れることも、会議で一緒になったことすら無かったかのような返信で、何か言ってくるのではないかと思っていた詩乃にとって、少しだけ拍子抜けだった。

あのコンサル部の女性が橘を気に入っていたのは確かだが、それを決定づける何かがあったわけではないし、橘にとってあれくらいの好意は珍しくもなんともないのかもしれない。

あれくらいでいちいち弁解していたら身が持たないのかもしれない。嫉妬というよりかは、橘って大変だな、というところに思考は行き着いていて、その後詩乃からその話題を出すこともなかった。


「そういえば詩乃ちゃん、あの記事読んだよ」
「え?早くない?今日公開だったのに」

橋立が主催する、それなりに仲の良い同期で構成された、飲み会。
今日は八人ほどで集まっていた。

日比谷のビルの上階、柔らかい間接照明の落ち着いたフロアの暖簾をくぐると、木目と和紙の仕切りで区切られた個室に通された。

個室の一番出入り口側に座っている橋立が、向かいに座っている詩乃にそう言った。

「人事ですから。普通に採用広報チェックしてるし」
「そっか、さすがハシケン」
「俺も読んだ、橘のやつでしょ?」

会話を聞いていたらしいコンサル部の河瀬が会話に入ってくる。
コンサル部の人は意識が高いので、確かに河瀬なら見ているかもしれない、と思いながら詩乃はお礼を言う。

「あーいうの、書くの大変じゃね?」
「んー、どっちかっていうと、ストーリー作るのが大変かも」
「ストーリーかー、俺無理だー」
「詩乃ちゃん、人のことよく見てるからいい記事になるんだよ」

対角線上に座っている橘にちらりと視線を送ると、目の前の同期と話をしているようだった。ざわざわしている店内では、きっとこちらの話は聞こえていないだろう。

「出たよハシケンの詩乃ちゃん呼び、慣れねー」
「えー?いい加減慣れてよ」
「社内でも詩乃ちゃんって呼んでんの?コンプラ的にアウトでしょ」
「え?どうだったっけ?」
「さすがに新田さんって呼んでるよ」

確かに、サークルでは皆そうだったから当たり前で、誰も触れていなかったが、確かに同期を下の名前で呼ぶのは稀なケースだろう。

前菜として置かれた、トマトと茗荷、鱧の南蛮漬けが、大皿にまだまだ残っていた。
詩乃は茗荷をつまみながら橋立と顔を見合わせる。

「そうだっけ?」
「うん、今更?」
「私なんて呼んでたっけ?」
「ちゃんと橋立くんって呼んでたよ」

あまり覚えがないが、無意識にちゃんとTPOは分けていたらしい。
確かに、大学のサークルでは全員を下の名前呼びしていて、なんて面倒な説明は長々としたくない。

「そのサークルではそんな男女の距離近くて、付き合ってる人たちいなかったの?」
「え?いたよね」
「全然いたよ、インカレだったし、出会い目的の人もいたよね」
「うん、距離も近かったしね」

サークル内ではカップルも結構いた印象だ。
そういう詩乃も、このサークルは出会い目的だった友達に一緒に入ろうと誘われて入ったクチだ。

「二人は付き合わなかったの?そんなに仲良くて、同じ会社に入って?」

氷を敷いた皿に盛られた、マグロと鯛、炙りサーモンには大葉とレモンが添えられていた。先ほど河瀬が、美味いと漏らしていたので詩乃も食べたいと思っていたところだ。

「同じ会社はたまたまだけど、全然そんな感じにならなかったねー」
「そうだね、私多分その頃は彼氏いたもん」
「あ、彼氏いたんだ」
「ねー、残念だったよねー」
「ハシケンは、またそういうこと言ってさぁ」
「普通に新田って可愛いもんなー」
「可愛いよねー」
「ちょっと、私で遊ばないでくれる」

ケタケタと笑う河瀬は、それなりに女遊びが激しいと聞いている。
友達としては楽しくて何も問題ないが、普通に恋愛としては考えられない。

こういう噂も聞くから、職場で彼氏を作る気はなかったのに、と思いながら、残り一つだったマグロに手を伸ばした。

目の前の橋立も、にこやかな笑みを浮かべていて、その場の調子に合わせて言っているだけだ。この男の掴めなさは、昔から知っている。

「じゃあ新田、今は彼氏いないの?」
「い…ない」

少しだけ詰まった言葉は、目の前にあったウーロンハイを流し込むことで誤魔化した。そういえば、橋立に話を聞いてもらった後、何も報告をしていなかった。
橋立くらいには、橘と付き合ったことを言ってもいいのかもしれない。

「広報って出会いある?」
「もう辞めたけど、人事にいた中西さん、詩乃ちゃんのこと好きだったよねー」
「ちょっと!」
「え?詳しく」
「何もないって。ハシケンなんで知ってるの?」

冷えたウーロンハイのグラスに付いた水滴を指でなぞりながら、詩乃は必死に冷静さを装う。
サークル時代から変わらないその呼び方が、今は少し離れたところにいる、橘という猛獣を刺激する、この上ない挑発に聞こえてしまう。

「人事部内ですっごい言ってたもん、新田さん可愛い可愛いって」
「マジ。ガチじゃん。連絡先聞かれてないの?」
「聞かれた…けど」

人事とは採用広報やイベントで、それなりに関わりがあり、一時期、採用広報を任せられていた時に、人事部とはそれなりに関わりがあった。
もう忘れていたことを掘り返されて、詩乃は思わず眉間に皺を寄せる。
橘がこの話を聞いているか確認したいが、このタイミングで橘の方を見るのはあからさますぎる。

「その頃は、彼氏いなかったよねー詩乃ちゃん」
「もう、なんでもバラさないで!」
「人事こわ。めっちゃ知ってるじゃん」
「デート行ったんでしょ?一回」
「ちょっと、ハシケン!」
「うわ、ガチじゃん」
「飲みに行っただけ!仕事の延長っぽい感じで誘われて断れなかったの!」

二年ほど前のことだが、今その話をここで展開されたくない。なんせ噂好きの人たちが集まっている。

「え?詩乃の恋愛話?」
「ほら、噂好きに食いつかれた!おわり!私ちょっとお手洗い!」

橋立の隣に座っていたコンサル部の女性同期が話に入ってきたので、詩乃は無理やり話の流れを切って立ち上がった。
個室を出る際に、土鍋ごはんを持った店員とすれ違った。

そういえば、メニューにあさりととうもろこしの土鍋ごはんと記載されていた気がする。季節を感じる美味しそうな匂いに、話は逸れていてくれないだろうか。
むしろ、自分がいなくなったことで勝手に話が進んでいないことを祈るばかりだ。




そんな願いを持ちながらお手洗いを済ませ、大きな鏡を見ながらリップだけを塗って出ると、向こうからやってきた橘と目があった。

「あ、橘」
「うん、ラストオーダーだって、あと詩乃のドリンク待ち」
「わかった、ありがとう」

そうしてすれ違おうとした際、橘に腕を少し引かれた。橘の手のひらは、さっきまでお酒を飲んでいたせいか、少しだけ熱を含んでいた。 無機質な廊下の照明の下、橘が浮かべたのは、先日の若手コンサルの女性に向けていたような、完璧な営業スマイル。

「今日、詩乃んち行っていい?」
「え」
「さっきの話、詳しく聞かせて」

わざとらしく、にこりと張り付けた笑顔を見せて、橘は男性のお手洗いに消えていった。対角線上にいたのに、橘の耳にも入っていたらしい。なんでよ、さっきまで営業の愚痴言ってたじゃん。

詩乃の背中に冷たい汗が伝った。

ああ、また金曜日。


 
 
 
 
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