今夜は君の夜屑
「俺ら、こっちの線だから」
「またねー、お疲れー」
詩乃は何も言わずに手を振った。軽やかな声が、今日だけは冷ややかに聞こえるのは気のせいだ。
何線も乗り入れている大きな駅で、詩乃と同じ沿線を使うのは、この中では橘だけだった。
「あ、の、今日はなんでうちに?」
「え?だめ?彼女なのに?」
「いや、全然いいんだけど、こないだは橘の家だったから、なんでうちなのかなって…」
ホームで電車を待つ間、電光掲示板には四分後と表示されていた。
詩乃はそれを見上げながら、隣に立つ橘の顔色を伺う。
「詩乃の家に行きたいなって。土日予定ある?」
「ないけど…」
「じゃあ、何も準備してないでしょ?そっちの方が良くない?」
「そうだね…」
何も約束はしていなかったが、このまま土日も一緒に過ごすということで合っているのだろうか。橘は特に怒っているとか機嫌が悪いとかそういう様子はなさそうだ。
さっきの張り付いた笑顔も今はなくなっていて、ジャケットを腕にかけて、シャツの腕捲りをする姿は至って普通に見える。
お手洗いの前でのあの顔は、気のせい?
それともあの時はちょっとイラッとしてたけど、今はもう機嫌は直った?
色々と気になることはあるが、下手に質問して機嫌を損ねてしまったら嫌なので、触れずに話題を広げる。
「どこ行く?橘、なんか行きたいところある?」
「んー暑いしねー…でもこの間も、結局次の日はダラダラ過ごしちゃったよね」
「そうだねー、ちょっと調べてみようかな」
詩乃はスマホを取り出し、SNSのブックマークを遡る。
あ、そういえば行きたいカフェがいくつかあるんだった。橘、カフェ好きって前言ってたし、一緒に行きたいって言ったら付き合ってくれるかなー。そんなことを考えていると電車が到着し、橘と乗り込んだ。
「詩乃の家って、結構駅から歩くよね」
「そうかも、ていうか橘の家が駅から近すぎるんだよ」
「激務すぎて引っ越したから、駅からの近さを何よりも優先した」
詩乃の家に向かって歩きながら、橘は自然と車道側に回ってくれていて、慣れているなと感じさせられる。
途中コンビニに寄って、歯ブラシや飲み物を買った。コンビニ内で少し別行動している間に、避妊具がカゴに入っていたのを見つけたが、見えなかったふりをした。
「前はエントランスまでしか行けなかったからなー」
「…橘って、あの時、どこまで分かってやってたの」
「えー?ひみつー」
実際どこまで記憶があって、どこから意図的だったのかの答え合わせはしていなくて、詩乃としては気になるところだった。教えてくれなさそうな橘はなんだか機嫌が良さそうで、繋がれていない手にはコンビニで買ったものが入ったビニール袋が、がさがさと揺れている。
「何階?」
「九階」
「へぇ」
エレベーターに乗り込むと、繋がれていた手がパッと離された。
橘がポケットから取り出したスマホで、すいすいと何か操作をしていたのを、詩乃は見つめた。
「ん?」
「いや、何も」
頭に一瞬よぎったのはあの時の若手コンサルの女の子だが、それを口にするほど子どもではない。橘が誰と連絡先を交換して、誰とやり取りをしていようが自由だ。
「ここだよ、ちょっとだけ片付けるから玄関で待っててくれる?」
「…うん」
詩乃が鍵を開けて、玄関に入ると、橘が背後でドアの鍵をガチャリと閉めた。
うち、鍵が二つあるから両方閉めてくれる?そう言おうと振り返ると、背後から腕を取られて、肩にかけていたトートバッグがゆっくりと外されて床に置かれた。
「っんん、」
いきなり唇を塞がれ、その唐突さに詩乃は思わず身体を引いた。
逃がさないとばかりに橘が詩乃の腰を引き、角度を変えて深く、口づけていく。
「たち、ば、どうし、んっ」
「さっきの話、聞かせてって言ったでしょ」
「っえ、待って、だってさっきまで普通に、ちょっ」
するりと橘の手が、ふくらはぎまであるくすみブルーのスカートをたくし上げて太ももに触れる。スイッチに手を伸ばす暇も与えられず、視界は薄暗いままだ。
「俺、言ったでしょ?」
「待って、片付けたいって、私、言った…っ」
橘の手は止まらず、電気もクーラーもついてない部屋には、音を出すものは何もない。玄関に置きっぱなしだったパンプスがころりと転がるのを感じた。
「重いよって。他の男、気にするからねって、言ったでしょ?」
「待っ、ここ玄関、っ」
スカートに入れ込んでいたグレーのニットトップスを引っ張り出し、橘の身体を押し返そうとする詩乃の腕を邪魔そうに掴んで、首元をかぶりつくようにして少しだけ歯を立てた。
「待って、見えるとこはだめっ」
「ふうん、じゃあ、スレスレのところにしてあげるよ」
キスマークをつけられると思った詩乃が咄嗟にそういうと、固い声が耳元で響いて、首元まであったニット生地を捲るようにして下げて、首の根元にかぶりついた。
「っ…」
「だから、会社になんでこんなぴったりした服、着てくるの?」
じくりと刺激があったところが熱を持っている。これ、ハイネックのものしか着られないくらいの位置なんじゃないの。
「…ぴったりって、別に、」
「しかもノースリーブ。そんなんだから人事の男に目つけられるんだよ」
床に投げ出されたコンビニの袋が、二人の動きに合わせてガサリ、と鼓膜を逆撫でするような音を立てる。
「やっぱ、っん、怒って…っ」
「…怒ってないとでも?」
そんなの、橘だって女の子にあんなに好意持たれてたじゃん。
今まで、私がどれだけ橘と付き合ってるかって聞かれてきたと思ってるの。
私よりもたくさん、女の子の視線と好意を集めてきていたくせに、もう終わった数年前の人の話で、こんな玄関で無理やりするくらい気にするの?
夏なんだから、ノースリーブくらい着るでしょ。
そんな目で見てるのなんて、橘くらいでしょ。
そう心の中で思うも、火に油を注ぐだけだと思い、唇を噛んで快感に耐える。
「たち、ば、なっ」
「ねえ、詩乃はいつまで俺を苗字で呼ぶの?」
「、っ」
「そんなんだと、俺、間違って社内で名前で呼んじゃうかもよ?」
橘がわざとらしく耳元で、熱を持った声で囁く。
クーラーのついていない部屋で、玄関のタイルだけがひんやりとこの場の熱を抑えている。
全てを支配されているみたいな空間で、パンプスが脱げた足先だけが冷えていく。
「や、」
「詩乃はバレたくないみたいだけど、うっかりそうなったらしょうがないよね」
「たちばな、」
「それとも、河瀬の前で呼ぼうか?詩乃のこと可愛いって言ってたね」
「あれはっ、冗談でっ、」
ああ、暑い、熱い、前髪がぺたりと額に張り付いている。
「彼氏いないって言うからじゃん?」
「どこから聞いてたの…っ」
「さあ、詩乃ちゃん?」
わざとらしく橋立の呼び方を、ねっとりした声で、耳元で囁いてくる。
だから、今日は元々気乗りしていなかったんだ。嫌な予感もしたんだ。
でも、あまりにも普通だった帰り道に油断していたから、何も考えずにここまでこの猛獣を連れてきてしまった。
「ゴム、買ったの見てたでしょ」
「っ」
もう、本当にこの男は。