今夜は君の夜屑


 
 
 
 
 
「…真尋、座ったら…」

リビングまで足を進めても、橘は立ち尽くしていた。
詩乃が声をかけると、ゆっくりと橘はソファに座った。

何から言おうかと思っていると、橘がゆっくり言葉を漏らすように話し出した。

「詩乃、俺が怖い?」
「…怖くないよ」

詩乃がそう答えると、橘は詩乃の腕を引っ張り、勢いよく抱きしめた。
顔が橘の硬いスーツにぶつかり、擦れた。

「俺さぁ…本当に、こんなに好きになったの初めてなの」
「うん…」
「今まで追われる恋愛ばっかりで、翻弄されて考えて追いかけて、…手に入れたくて、そうやって詩乃と付き合ったんだよね…」
「…うん…」

絞り出すような声が、上から降ってくる。
背中に回された手のひらが、熱くて、強い。

「だから…どうしていいのか分かんなくて…束縛したり、独占欲丸出しで、ダサいよね…」
「ううん…」
「詩乃を繋ぎ止めておく方法が分かんなくて…」

橘が、「ごめんね」と言いながら、詩乃の頭を撫でた。
ふわりと香った、いつもの橘の匂いを感じて、詩乃は目を瞑った。

「繋ぎ止めておかなくても、私は真尋が好きだよ」
「うん…」
「私だって、こんな気持ち初めてなんだから」
「…そうなの?」


ああ、私は、きっと戻れなくなるのが怖くて。


今まで、何となく恋愛が始まって、何となく終わって、浮気されても、悲しくても、それで日常が大きく揺らいだりしなかった。
私のことが好きじゃないなら、しょうがない。そう思って、終わったものに対して冷静に処理をしてきた。

けど、橘は、違う。
ある日いきなり、意識せざるを得ない存在になって、じわじわと距離が詰まったと思ったら離れて、好きだと自覚したら戻れなくなるのが怖くて、ずっと気持ちを見ないふりして。

「私…真尋と、ダメになるのが怖い」
「…ダメって?」

真菜が言った、『別れたらどうしようって思う』という言葉を思い出す。
そうだよ、別れたら、どうするの?

会っていない期間があるから、会いたくなる。
全てを明かさないから、知りたくなる。
のめり込まなければ、ダメージも少なくて済むのに。

「だって…同棲して、嫌になったらどうするの?幻滅したら?まだ付き合って二ヶ月なのに」
「…うん」
「今の真尋だって、一時の熱だけかもしれないじゃん。いつか、私のこと、好きじゃなくなるかもしれないじゃん」

何を考えているか分からないって、前に私に言ったでしょ。
だって、考えないようにしているから。
考えなければ、平静でいられるから。


また、浮気されたら?


ああ、私、達樹に浮気されたこと、今も傷ついたままだったんだ。



橘の大きな手のひらが、髪の毛をするりと解かすように撫で続けている。
それがひどく安心して、言葉がするすると落ちてくる。

自分でも自覚していなかった言葉がこぼれていくのは、顔が見えないからだろうか。

「私は…自分が傷つきたくなくて…でもそれにすら気づいてなかったよ」
「…うん」
「真尋だって、私に色々言うけど、真尋の方がモテるじゃん、今だって狙われてるじゃん。そんなんで、いつ…っ」

いつ、私のことが好きじゃなくなるか分からないのに。

「…自信がない」

汗でどろりと溶けたファンデーションが、橘のワイシャツにつくかもしれない。でもそんなの、どうだっていい。落ちなくなってしまえば、いい。

顔をワイシャツに押し付けると、少しだけ汗の匂いがした。
それを少しだけ吸い込んで、息を長く吐いた。

「…詩乃が、そんなこと思ってたなんて、知らなかった」

橘がぽつりと言った。
呼吸と共に上下する胸板が、硬いはずなのに気持ちがいい。

「…もしかして、俺のこと結構好き?」
「……そうだよ」

そう返事をすると、橘が笑った。
笑うところではない、と思いながら顔を上げて橘を見ると、片方の手で口元を押さえていた。

「なに笑ってるの」
「俺ばっかり好きだと思ってたから、嬉しい」
「…伝わってない?」

橘は少し眉を下げて笑い、前髪をかきあげた。
好きだという気持ちを隠しているつもりもなかったし、自分なりに伝えているつもりだった。

「好かれてんのは分かるけど、明らかに俺が押してたでしょ」
「…私は…今まであんまり、のめり込まないように生きてきたから」
「うん?」

橘は前髪をくしゃりと握りつぶすように掴み、首を傾けて詩乃を見た。
穏やかで、少しだけ笑っていて、その緩んでいる口元の、薄い唇にかぶりつきたい。

「振られるの、怖いじゃん…」
「…ふっ、詩乃可愛い。俺が振ると思えないのに」
「だって…」

真尋、かっこいいじゃん。

詩乃がそう言うと、橘は吹き出すようにして笑った。何に笑われているのか分からないまま、詩乃が怪訝な顔をしていると、橘は詩乃の頭を撫でた。

「俺の顔、かっこいいって思ってくれてんの?」
「…そうだけど」
「ははっ、そうなんだ。詩乃には刺さってないかと思ってた」

片方の膝を立ててソファに座り、その膝の上に顔を置いて、上目遣いでこちらを見るその姿を、かっこいいと思わない人がいるんだろうか。

「…俺の顔、好き?」
「……好きだけど」
「俺のこと、好き?」
「…好き」

橘はくしゃりと笑って、詩乃に「おいで」と言った。膝の上に座るように促され、詩乃は手を引かれるままにその上に跨るようにして座る。

「元彼のこと、もう全然好きじゃない?」
「当たり前じゃん…」
「ハシケンのことは?」
「そんな風に見たことないよ…」

楽しそうに、にこにことしながら質問を投げかけてくる橘に、詩乃は小さい声で返す。
さっきまで死にそうなくらい悲しい顔してたくせに、急になんなの。

「そっかそっか、なるほどね」
「なに…」
「詩乃が自分から言わないなら、俺が聞けばいいんじゃん」
「え?」

橘はにっこりと笑って、詩乃の服の中にするりと手を入れた。

「ちょっ」
「してる時は素直だから、そういう時にいっぱい言わせてもいいか?」
「なにっ」

背中に回った手が金具を外した音を聞きながら、詩乃はその膝の上で抵抗する。片方の手ががっしりと腰に回っていて、不安定な場所では上手く動かせない。

こうやって、楽しそうに翻弄されるのも、嫌ではない。けれど、私はその整った顔が、予想外に歪む方が興奮するんだと言ったら、どんな反応をするだろうか?

「詩乃、今日はずっと俺のこと、好きって言ってて」
「いやだっ」
「なんで?ほら早く」
「待っ、真尋っ」

身体を這う指に必死に抗いたくて、その快感から逃げたくて、身体をよじった先に見えた橘の耳元に唇を近づけて、ぺろりとそこに舌を添わせてみる。

「っ」
「えー?耳弱いの?」
「はっ、誘ってんの?」

囲われるなら、囲ってしまえばいい。
共依存と言われようが、それを泥濘か海かと判断するのは、私たち自身だ。

「真尋、好きだよ」
「っ」

そう言って首元に指を這わせ、鎖骨の下に吸い付いた。
じゅくりと軽い水音がして、赤い跡が残る。きっとこれなら、二日は持つだろう。

「…やっぱり同棲しよ」
「え?」
「単純に、毎日一緒にいたいから」
「…」

いいよと言おうとして、止めた。
最中に、いいよと告げたらこの顔はどう歪むだろう。
こんなに気持ちを赤裸々に告げたあとなら、きっと橘も受け入れてくれそうだ。

唇を合わせようとした詩乃を見て、橘も顔を傾けた。背中にふわりと回る手を感じながら、ファンデーションが少し擦れているワイシャツを、くしゃりと掴む。

柔らかく触れた唇が深まっていくのを感じながら、詩乃は心の中で思う。
夜の一部分から始まった私たちが、これから日常を共にしていく。
あの夜の欠片が、きっとこの部屋で続いていく。


同棲のルールはどうしようか?

とりあえず、気持ちは素直に伝えること、というのは、始めに話し合った方が良さそうだ。

 
 
 
 

 
《 完 結 》

ありがとうございました!
「エブリスタ」というサイトにて、この後の番外編を限定公開しています。

新作「キャラメリゼ ワンルーム」公開します。
元・義理の兄との、甘くて逃げられない同居生活のラブコメです。



▶︎作品一覧
 ▶︎「ひとつの秩序」(完結済)
  ・好きな先輩が彼女と同棲したら、男友達が急に男の顔をして迫ってくる。から始まる三角関係のお話。
  ・焦ったい、切ないお話が好みの方に!

 ▶︎「シンデレラ・ララバイ」(完結済)
  ・現実派の保育士とハイスペ社長シンパパとのラブコメ
  ・セコムを呼ばれかけた夜から、社長と恋が始まるなんて聞いてない!

 
 
 
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