今夜は君の夜屑
「…どういうつもり?」
橘の声が、背後からゆっくりと聞こえた。
冷ややかで鋭く尖ったような声だった。
「どういうつもりも別にないけど…とりあえず場所、移動しよっか?」
橋立はそう言って、「お茶、買ってくるね」とレジの方に向かった。
詩乃が橘をちらりと見ると、橘はため息を一つ吐いた後、詩乃の背中を二回ほど優しく叩き、レジの方に足を向けた。
詩乃は何も言えないまま、その後に続いた。
コンビニを出ると、「どこでご飯食べる予定なの?」と橋立が聞いた。
黙ったままの橘の代わりに詩乃が「日比谷の方かな」と言うと、橋立は頷いてそちら方面に歩き出した。
「で?」
「で、と言われても、別に過去の話だよ?今はもちろん友達」
「じゃあ何でそんなこと言う必要があんの?」
「何でって…んー、何でかな…」
橘を真ん中に挟んで歩きながら、詩乃は二人の会話を聞くことしかできなかった。
いつもと変わらない橋立の声に対して、橘の声は明らかに強張っていた。
橋立が軽く捻ったペットボトルのキャップが、音を立てた気がした。
「別に、二人の間に入ってどうこうしようなんて気は更々ないよ」
「だから、じゃあ何でそんなこと言うんだって」
石畳の歩道は、車道との境界線が曖昧で、車通りも多くないその道は、退勤した人々が多く歩いていた。
大きなビルの隙間から差してくる夕陽が、一瞬だけ日向にして、また陰らせていく。
「んー…昔の自分を救いたくなっちゃっただけ。ごめんね、嫌な気持ちにさせて」
「…どういうこと」
橘が静かに言った。
橋立は少し考えるように、言葉を選びながら言った。
「詩乃ちゃんがなんでも受け入れてくれるからって、最近の橘はちょっとやりすぎ」
「…俺が?」
「飲み会での態度とか」
橘は橋立の言葉に何も返さない。
交差点の信号が赤になって、石畳のコンクリートの上で立ち止まる。
「朝川くんへの気持ちは理解できるけど。一応同僚なのにあんな態度取ったら、さすがに彼が可哀想」
「…ハシケンに何が分かんの…」
「分かるよ。橘と詩乃ちゃんのこと、友達として好きだからね」
橋立は、少しだけ眉を寄せて、仕方なさそうにため息を吐いた。
ちらりと詩乃の顔を見た後、橘に言った。
「詩乃ちゃんの話、ちゃんと聞いてる?押し付けてない?」
「…詩乃の話?」
「そう。今まで付き合ってきた子達が強引だったからって、それが恋愛の正解じゃないよ」
「どういうこと」
橘の縋るような声には答えず、橋立は詩乃をじっと見つめて言った。
「あとは、二人で話し合って。詩乃ちゃんも、ちゃんと橘に言いたいこと言いな」
「え…」
信号が変わって青になると、周りにいた人々が一斉に歩き出す。
橋立は橘の方をポンと軽く叩いた。
「じゃあ、俺はここで」
「…うん」
橋立は駅の方へと歩いて行き、立ち尽くす詩乃と橘だけが残された。
オレンジ色の光が、アスファルトの上に長く二人の影を伸ばしている。
「…今日は、やっぱり詩乃の家でもいい?」
「うん…」
目の前の信号機は点滅し始めていて、遅れて橘と詩乃も、駅の方へと足を進めた。
橋立に言われた言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。
「詩乃は…俺に言いたいことある?」
「あ…えっと…」
橘にちゃんと言えというのは、怖いと漏らしたことだろうか。
自分でもよく分からない感情なのに、それをぶつけてもいいのだろうか。
「…帰ってから、ゆっくり話そっか」
「うん…」
橘が、どうして同棲を切り出したのか。
何を考えているのか、ちゃんと聞こう。
そして私も、ちゃんと言葉にしよう。
駅に向かう道は、背後からじりじりと夕陽が照りつけていた。
まとわりつく熱気が、首筋に汗を垂らしていく。
そういえば、私たち、始まりの時から、いつも肝心な言葉は口にしてこなかったね。
「…お腹、空いてる?」
「……ううん」
電車では、橘は何も話さなかった。
詩乃の家に着く直前に、いつも寄るスーパーの前で、橘がぽつりと言った。
詩乃が首を振ると、そのまま家へと足を進めた。
何を考えているんだろう。
私も、橘になんて言えばいいんだろう。
その答えが見つからないまま、二人で詩乃のマンションに入った。
橘は何も言わず、ただ数字が変わる液晶を見つめていた。
エレベーターの浮力をいつもより感じて、いつもより重いトートバッグを、力を入れて握った。