少年吸血鬼はハンターの未亡人に愛を捧げる

亡き夫の面影、寝室の侵入者、アルフォンスとの再会

この日の夕食はギルバートが不在で、エリーゼはグズグズと夫のグチを言い続けた。

エリーゼの長い話によると、ギルバートはヴェネディクトが死んだ後あたりからだんだんと家に寄り付かなくなったという。

(そうかしら? ギルバートはもっと前、ヴェネディクトが死ぬ一年ほど前にお義祖父様が亡くなった頃からおかしかったわ)

アリシアの実父シェイマス・イェーガーはナタリアとヴェネディクトの結婚を取り持った人物で、ギルバートも彼には親しみと尊敬を持っているようだった。

祖父の死は義兄に大きなショックを与えたのだろう。

その頃からギルバートは目に見えて機嫌が悪くなり、ヴェネディクトもナタリアも理不尽な注文や怒りを繰り返しぶつけられることがあからさまに多くなった。

「ナタリア様、お疲れ様でした」

食事が終わり客間に行くとベスは疲れた様子でナタリアを労った。

エリーゼの話を聞く間お茶の用意をしたりしたベスも、小一時間エリーゼのグチを聞いていたのだ。

「ねえ、ベス」

「なんですか、ナタリア様?」

「ギルバートは、なぜエリーゼのそばにいてあげないのかしら?」

ベスは答えに詰まっている様子だった。

「私は別荘のメイドですので詳しいことはわかりません。ですが、きっと何かきちんとした理由がおありの筈です」

「臨月の妻を置いていくきちんとした理由って何かしら?」

「ご主人様は、何かご事情がおありに違いありません。それに、お腹の大きな奥様と始終ご一緒なのは、ご都合が悪いと思われているんですよ、エリーゼ奥様のために」ベスは堂々と言った。

「まさかナタリア様は奥様の高貴なご友人達のように、ご主人様がどこかに秘密を持っているとは思いませんよね?」

「ベス、もちろんよ。そんな事は思っていないわ。ヴェネディクトが、ギルバートは決して不貞を働いたりしないと言っていたわ。私はヴェネディクトを信じるわ」

ナタリアの言葉にベスは満足気に頷いた。

(ベスがこんなにギルバートの信者だったとは知らなかったわ……ベスとギルバートの話をするのは、あまりいい話題とは言えなわね)

ナタリアはベスの態度にガッカリした。だがベスは悪人というわけでもないし、気心がしれた働き者のメイドだ。

客間は二階だった。

満月から一日過ぎた月は雲ひとつない夜空に小さく光り、周囲をぼんやりと照らしている。

客間は林檎の木を見下ろす位置に窓があり、池が埋められる前は大きな観賞魚が飼われていたそうなので、その頃ならこの広いベランダで魚を見ながら優雅にお茶を飲むことが出来ただろう。

ナタリアはベッドヘッドにヴェネディクトの形見のナイフをそっと置いた。

『おやすみ、ナタリア』

記憶の中からヴェネディクトが言った。


ナタリアは、ヴェネディクトが死んでからのことを思い返しながら眠りに沈み込もうとしていた。

心の中ではいつも、黒い霧が溢れた窓を叩きわってヴェネディクトを助けに行くのだが、それはあまりに虚しい夢想だった。

寝返りを打ったベッドが広すぎて、あの小さな棺に、夫と共に納まりたいと思った。

今日は何故か、一人寝の寂しさが身に染みた。

夫の優しい口付け、耳を甘噛みする時の舌の熱さ。指先は不器用で、ナタリアの体に触れるときは、時にもどかしいほど慎重だった。

ベッドの上で声に出して呼ぶと、夫はいつも口づけながら力強く抱きしめてくれた。

「ヴェネディクト」

浅ましく夫を呼んで、夢と現実の境目で夫に手を伸ばす。

だが⋯⋯。

夢で伸ばした手の先にいたのは、あの少年、アルフォンス・フォグリアだった。


ナタリアの指先は幼さを残した少年の頬を撫でようとしていた。

「あっ!」

ナタリアは、はっと目を覚ました。

心臓が荒っぽく鼓動している。

自分が今見た恐ろしい夢を振り払うように体を起こそうとしたとき⋯⋯何者かの手がガシッとナタリアの頬をつかんだ。

悲鳴をあげようとしたナタリアの口から、声にならない呻き声が漏れた。

「⋯⋯‼」

(誰!? 誰!? ギルバート!? いいえ⋯⋯)

『兄さんは、決して不貞など働かないよ』記憶の中から、ヴェネディクトが言った。

ナタリアは必死で声を上げようとしたが、頬を掴まれていて、ううっとうめき声を出すだけで精いっぱいだった。

ナタリアの華奢な体の上に乗り上がった体重は、今までナタリアが感じたことのないずっしりとした重さだった。
(殺される⋯⋯!)

手は男のものだった。大きくガサガサと荒れている。顔のまじかに息がかかり何かがポトリとナタリアの頬に落ちた。

それが、男の口から流れてきた涎だと気が付いたナタリアは、より一層激しく抵抗して、めちゃくちゃに暴れまわった。だが、男の手がナタリアの口から離れることはない。

「暴れるな⋯血がまずくなる⋯⋯」男が酒臭いしわがれ声で言った。

イェーガー家の客間で暴漢に襲われるなど、考えもしなかった。

男がナタリアの首筋に、生きた人間とは思えない冷たい息を吹きかけてきた。知らない男だった。

瞳は夜闇の猫の目のように赤い光を放っている。

それは人の姿ではなかった。

それに、ナタリアもよく知っている錆びたような臭い

(血の臭い! 血の臭いだわ、あの時と⋯⋯ヴェネディクトが死んだ日と一緒⋯⋯)

そう思った瞬間、男を押し返そうとしていたナタリアの腕は、さっとベッドサイドに伸びて、常に傍らに置いていた夫の形見のナイフを握った。

そして、とうとうナタリアの首筋にねっとりと吸いついてきた男の背中に、刃の向きも分からぬままにそのナイフを突き立てた。

「ギャー‼︎」

メスを争って絡み合う猫の様な神経を逆立てる叫び声が男から上がった。

満月の翌夜の明るい月が、カーテンを閉め忘れた部屋の中を明るく照らしていて、侵入者の姿をはっきりと浮かび上がらせた。

男の口に乱れた乱杭歯が覗き、両際には獣の様な長い牙がはみ出している。

男が絶え間なく叫びながら、ナタリアがさっきまで寝ていたベッドの上を転げ回り、ドスンと床に落ちた。

「ハァッ! ハァッ⋯! ベス⋯! ベス‼ 助けて⋯」
 ナタリアは隣室で寝ているはずのメイドのベスを呼んだ。だが隣の部屋からは物音ひとつしない。

(まさか、ベスはもう⋯⋯?)

恐ろしい想像で体の力が抜けそうになるが、気持ちを奮い立たせる。

「ベス!」

ナタリアは泣きながら隣室に逃げ込もうとしたが、男が立ち上がってナタリアの前に立ちふさがった。その背中からは、焼かれた肉の不快な臭いがする。

(やっぱり、この男はバンパイアの仲間なのね! 一体どうやって入ってきたの?)

 混乱し、恐怖でパニック状態のナタリアはベランダに出ようと窓に駆け寄った。

「ああっ!」

だが⋯⋯そこには思いがけない物が窓をふさいでいた。

黒い霧だ。

今日は満月の翌日。充分に明るい月光がさっきまで部屋の中を白く満たしていたのだ。

だが窓に張り付くような黒い霧で、月光はわずかにしか見えない。

これは、ヴェネディクトが死んだ日に見た霧と同じものだ。

外に出たら、きっとナタリアも夫と同じように殺されるに違いない。

だが、室内の脅威である男は緩慢な動きでのたうつように這いずりながらナタリアに向ってきている。

「血⋯⋯血を⋯⋯死んじまう⋯⋯」

男は呻くようにそう言って、手を伸ばしてきた。

「助けて、誰か‼︎」

ナタリアは、もう叫ぶ以外に出来ることがなく、窓ガラスを背にうずくまった。

「助けて⋯⋯」その時だった。

 ナタリアの足元にぱあっと月光が差し、床に人の形の影が落ちた。

「えっ!」

窓の外を見たナタリアの目に、信じられない人物が映っている。

「アルフォンス様!」

そこにいたのは前夜と、そして今朝ルイザーで出会ったばかりの少年、アルフォンス・フォグリアだったのだ。
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