キャラメリゼ ワンルーム
 
 
 
 
 
「いらっしゃいませ」

店員の声が軽やかに響いて、ガラス製のドアに取り付けられたベルがチリンチリンと音を鳴らした。

仕事の休憩時間、楓は一人で再びブーランジュリーミカゲに足を運んでいた。
以前ここで食べた、生ハムとカマンベールチーズのサンドイッチが美味しくて、また食べたいと思っていたのだ。

「ご注文が決まりましたらお伺いします」

ガラスのショーケースの奥で、女性店員がにこやかに微笑んだ。
楓も笑顔を返し、注文するパンを見定める。
クロワッサンの層に照明が当たり、バターが艶っぽく反射していた。

「えっと…生ハムとカマンベールサンドと…あと…うーん今日は…」
「以前もお越しいただいたんですか?」

楓が「今日は」と言ったからだろうか、髪を一つに束ねた女性店員がにこやかに話しかけてきた。
平日だからか、ランチタイムは少し過ぎた時間だからだろうか、イートインスペースには数組の客がいるだけで、ショーケースの前は楓しかいなかった。

「はい、前食べたのが美味しくて!今日は違うものを買おうと思ったんですけど…」
「今は季節限定で、今日からちょうど、この栗と燻製ベーコンのタルティーヌ、洋梨とアールグレイのデニッシュっていうのが出てますよ」
「じゃあそれにします!その二つと、あと明太フランスを…うーん一本でいいか」
「ありがとうございます!明太フランスもお好きなんですか?」

店員がにこやかに楓に微笑みながらそう言った。
肌が白くて、制服らしい黒の服がよく映えていて、いいなぁと楓は思いながら返事をする。


「はい、えっと…あ…知り合いが、好きで…」


兄、という単語を言おうとして、違和感があった。

前は気軽に口にしていた単語が、もう今はしっくりこない。
その結果、兄よりも遠い言葉が咄嗟に口からついて出てきてしまい、周りに誰かいるわけでもないのに少しだけ気まずい。


もう怜が「兄」ではないことは、自分が一番よく分かっている。


「そうなんですね、たくさん食べていただけたら嬉しいです!」

女性店員が感じ良く、にこやかに楓に笑って言った。
楓も曖昧に笑い返し、紙袋に入れられていくパンを目で追っていた。

「兄」という免罪符があるから、今まで自分のドキドキすらも正当化できていた。
「妹」だったから、怜の懐に深く潜り込むことができていた。

これが違うものと認めたら、今の距離ではいられなくなる気がしている。


最初は、怖かった。
今まで絶対的に安全だった怜が、急に安全じゃなくなったから。

でも、怜は決して無理強いをしないで、楓はそのままでいいと言っている。
安全じゃなくても、もう怖くないと、分かっている。










「お、明太フランスが補充されてる」

怜が夕飯後、食器を片付けながら言った。
目線の先には楓が買ってきた明太フランスが切って入れておいたタッパーが置かれていた。
明日の朝食に出して、残りはまた冷凍しておこうと思っていたのだ。

「そうだよ、怜ちゃん冷凍しておいたやつちょこちょこ食べてるでしょ」
「うん、小腹が空いた時とか昼に食べてる」
「美味しい?ここの好き?」
「うん、美味い」

美味しいよねーと返事をしながら、楓はキッチン台の上を濡らした布巾で拭いた。

「俺のため?」
「え?」

楓が聞き返しながら振り返ると、怜が食器棚に身体を向けたまま、こちらを見ていた。
昼間のことを思い出して、少しだけ身体が固まる。

「パン屋で、わざわざ俺の好きなの買ってきたの、俺のためでしょ?」
「……」
「外で俺のこと、思い出してくれてんの?」

そんなの、この間のアイスだって同じじゃん。
そう言おうとして気づく。
怜も、外で自分のことを考えて、自分のために選んだものを買ってきてくれているわけで。それって。

「…かわいい」

何も言えなかった。
気まずそうに視線を逸らす楓を見て、怜はふっと笑いながら楓の頭に手を置いて、ぐりぐりと撫でた。
大きな手のひらが、少しだけ強く髪の毛をグシャリと潰すように撫で回して、怜の腕の重みで楓の重心がわずかに後ろへ傾いた。

その手の温かさも触れ方も、今までとあまり変わらなかったから、油断していた。


「…慣れてきたね?」


そう言って、怜が楓の頬に、指先を滑らせた。


「っ」


頬を覆われるように降りてきた手のひらが、するりと動いて、中指の先が、こめかみをさらりと擦った。
予想外の動きに楓の身体は固まり、それに反して視線の置き場が定まらない。
体内の熱がどくんと一気に上昇した気がして、触れられたところも、反対側も、熱い。

「…真っ赤」
「っ、やめて…」
「油断してたでしょ。言っとくけど、まだまだだよ?」
「なに、が」

怜の顔は見られなくて、その胸元のくしゃりとした黒いTシャツにプリントされた絵柄と英字だけを見つめた。
だって、目線を上げたら、きっと、いつものように余裕そうな顔で、見下ろすように、口の端を上げて、笑っているから。

「どう?これは」

怜がそう言いながら、指先を、楓の熱くなった頬の皮膚をゆっくりと押し広げるようにして移動する。
中指の節がこめかみの細い血管をなぞる。
耳の付け根に小指が擦れて、カサリという音が脳内に響く。

「やめて…怜ちゃんに触られると、最近、なんか…」
「なに?触られると、どうなるの?」


怜がふっと鼻で笑う音が微かにした。
ああ、きっと、今の怜ちゃんは、安全じゃない。


「恥ずかしくて…心臓、うるさくなる…」



楓がそういうと、しばらく怜は黙っていた。
何の反応もないことが怖くて楓がそろりと視線を上げると、少しだけ唇を噛んだ怜が、口角を上げていた。
その瞳の奥に、熱を感じて、ぞくりとする。

「あー…」
「…?」
「たまんないね」
「…なに」

熱と快感を感じているのは、私だけじゃないのかもしれない。


なにその、高揚してるみたいな、顔。


「もっと見せて、その顔、俺にたくさん」
「どんな顔…?」

声が、耳の奥まで届いた。
怜の少しだけ浅い呼吸が、楓の乱れた前髪を微かに揺らしている。
怜が指先に少しだけ力を入れた。
皮膚がかさりと音を立てて歪んで、その指先からも熱を感じる。


「…俺を、意識してますって顔」
「っ」
「ねえ、他にはどんな顔すんの?楓」


換気扇の低い唸りだけが響く室内で、手の中にずっとあった濡れ布巾が、いつの間にか冷えていた。
自分の指先は冷たいはずなのに、身体と頬は熱い。

 
 
 
< 46 / 56 >

この作品をシェア

pagetop