キャラメリゼ ワンルーム
 
 
 
 
 
楓はこっそりと自分の部屋のドアを音を立てないようにして開けた。
怜の部屋からは微かに話し声が聞こえてくるので、どうやらミーティング中らしい。

あまりデートっぽく見えない方がいいかな、と思って服装は、去年安い通販サイトで買った、モカの薄手のニットと、黒の台形のスカートを組み合わせた。

髪の毛も巻くか迷って、毛先をワンカールするだけに留めた。
朝から出来るだけ怜の顔を見ないようにして過ごし、「出かける予定がある」とだけ言って、早々に部屋で過ごしていた楓をもしかしたら怜は不審に思ったかもしれないが、終わってしまえばいいのだ。

「行ってきまーす…」

玄関の扉を開けながら、小声で呟いた。
時刻は十一時少し前。駅集合なので今から出たら十分間に合うだろう。










「あ、楓さん」

改札を出ると皆川はもう待っていた。
楓と目が合うとにこやかに手を振ってくれて、楓も曖昧に手を振り返した。

「今日はちょっと涼しいですね」
「本当ですね」

季節は今日から十月に入ったところで、まだ熱い日もあるが過ごしやすい日も出てきた。
皆川が「テラス席もあるみたいだから、そっちでも気持ちいいかも」と言って、事前にSNSで見た外観を思い出しながら「そうですね」と返事をした。

「今日からの新作パンがあるみたいですよ」
「そうなんだ!皆川さん詳しいですね」
「楽しみだったから、朝パン屋さんのアカウントのストーリー見てたら書いてありました」

地下鉄のエレベーターで皆川はそう言って、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
ドアが開くと「どうぞ」と手で促してくれて、楓は頭を軽く下げた。


たわいもない話をしながらパン屋に向かう。大通りをしばらく歩いて、路地を一本入った先にある、古い石畳の坂道沿いの、白い塗り壁と濃い木枠のガラス扉が目立つ店だった。
店名が壁に筆記体で描かれていた。

平日だからかイートインスペースはまだ空いていた。
店員に声をかけられて、皆川が「二名です」と言うと、ちょうど最後のひと席だった窓側に通された。

奥の壁際には無垢材の棚が並び、インテリアのように丸いカンパーニュが無造作に積まれている。

「奥どうぞ」
「あ、ありがとうございます…」

黒っぽい木のテーブルに、真鍮脚の低い椅子に座ると、目の前に座った皆川と目が合って、皆川がにこりと笑った。


あ、この雰囲気は、確かに、デートなのかも。


今までほとんど意識していなかった、皆川の意図が少しだけ見えた気がして、思わず唾をごくりと飲み込んだ。
もしかしたら、本当にただパン屋にいきたかっただけかもしれない、なんて可能性も残していたが、もしかしたら、違うかもしれない。

「楽しみですね。楓さん、何にします?」
「えーっと…甘いのも食べたいし、しょっぱいのも食べたい…!」
「はは、分かります。…楓さんが嫌じゃなければ、半分こします?」

楓はその言葉に一瞬だけ止まって、「嫌じゃないです」と笑った。
皆川がそれを聞いて、「やった」と言った。
いや、だって、そんな言い方されたら、断れないし。

「楓さんは何が気になってますか?」
「うーんと…」

楓はざらりとした紙に印刷されたメニューを目で追った。
あ、赤ワイン煮込み牛すじとマッシュポテトのオープンサンドがある。きっとこれは、怜ちゃんなら頼むだろうな。

「しょっぱいのなら…高加水カンパーニュのブランチプレートか、ポルチーニ香るきのこクリームシチューとパン盛り合わせがいいなって思ってました」
「やっぱ楓さんも、高加水カンパーニュのやつ気になりますよねー、じゃあそれにします?」
「そうですねー」


皆川が笑うたび、店内の明るい照明を反射して、その瞳がキラキラと揺れる。
楓が気になるものを聞き出すのが上手で、話すのも上手で、その返事全てが楽しそうに笑って返してくれていた。
けれど、楓は怜をどこかで思い出してしまっていて、あまり集中しきれなかった気がする。


なぜだろう、黙って出てきたからだろうか。
皆川がそのつもりかもしれないと、分かったからだろうか。
どこか後ろめたい気持ちがあるからだろうか。


「楓さん?」
「あっ、美味しいですね」
「帰りにテイクアウトもしていきます?明太フランス、ここもあるみたい」
「そうなんですね、定番ですもんね」
「ミカゲのパンは、お兄さん気に入ってくれました?」

手に持っていたカンパーニュの硬いクープが、指先をかすめて微かな音を立てる。
かなりの水分を含んでいる生地が、指の中でゆっくりと圧がかかっては戻った。

「は、い…美味しいって言ってたので、こないだも一人で買いに行きました」
「良かったですね、また僕も行こうかな」

また誘いますね、と皆川が笑いかけた。
楓はパンを咀嚼しているふりをして、頷いた。
また、誘ってくれるのか。それは、どんな気持ちでいたらいいんだろうか。

たまに、皆川の敬語が外れるのに、楓は気づいていた。
年下なんですから、全然気を遣わないでくださいと入社時の挨拶で言ったのに、皆川は律儀に敬語を使ってくれていた。

上手、なんだろうな。きっと。
ところどころ、怜もこうしてくれたな、と思い出す。
楓の好きなものを頼ませてくれて、奢ってくれて、エレベーターで先に言っていいと促してくれて、歩幅も合わせてくれていて。

それは、兄だからだと思っていたけれど、それすらも違ったのだろうか。
だとしたら、いつから?
私は、ずっと、それに気づかなかったのだろうか。

怜が、前と変わったのは、何かきっかけがあったのだろうか。









「おかえり」
「れ、」

リビングにそろりと入ると、怜がソファで寝転んでスマホを触っていた。
しまった、部屋着に着替えてからリビングに行けば良かったと思い、楓は「ただいま」と返す。

「どこ行ってたの?可愛い格好して」
「ぱ…パン屋さん」
「また?ほんとに好きだねー」

怜は笑いながら、ソファから起き上がって、エコバッグからパンを取り出す楓のそばに立った。ふわりと香った匂いが、先ほどまでとは違う。

「何買ったの」
「色々…高加水のカンパーニュ買ったから、明日はサンドイッチにしようか」
「いいねー、楓のポタージュもつけて」
「分かった」

怜は楓が取り出した明太フランスを見つけると、嬉しそうに口角を上げた。
何かまた言われるんじゃないかと思って少しだけ身構えた楓の頭をポン、と撫でて、怜は「そろそろ仕事戻ろっかな」と楓に背を向けた。

「れい、ちゃん」

なんで呼び止めたのか、わからない。

「ん?」

もしかしたら、知って欲しかったのかもしれない。



「…デート、行ってきたの」


小さくぽつりと漏れた声が、エアコンの稼働音だけが響くリビングに、小さく落ちた。
振り返って楓を見ていた怜は、それを聞いても表情を変えなかった。


「…ふうん、楽しかった?」


何にも、思っていないような顔だった。
口の端が、くいっと上に上がっていて、笑っているようだった。


「…うん」
「そう。良かったね」


怜はそう言うと、上がった口角のままリビングを出て行った。
その後ろ姿が消えても、ドアが閉まっても、楓はしばらくその木製のドアを見つめていた。

もしかして、私、自惚れてたのかもしれない。
なにか、反応してくれるって思ってた。
意地悪、またされるんじゃないかって思ってた。

私、何を期待して、なんでこんな、さみしい気持ちに、勝手になってるんだろう。


「…意味わかんない」


誰に向けての言葉か自分でも分からないまま、楓は手に持ったままの明太フランスを、キッチン台に置いた。
袋の中には他にもパンがたくさん入っていて、かさりと袋と袋が擦れ合う音がした。
わざと大きな音を出してそれを取り出しても、作業をする気になれなくて、リビングのソファに寝転んだ。

先ほどまで怜が寝転んでいたソファが、まだほんのり温かかった。

 
 
 
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