キャラメリゼ ワンルーム
「楓さん!」
なんて事のない平日の二十時過ぎ、皆川が手を振りながら、小走りでやってきた。
楓が近寄ると、皆川はにこりと笑った。
部屋着の上に咄嗟に羽織ったカーディガンが、夜風にはためいた。
「わざわざすみません」
「いえ、楓さん明日お休みって聞いたので、こんな大切そうなもの僕が預かっておくのも申し訳ないなって」
皆川が「明後日は僕がお休みもらってるので、会えなくて」と言った。
その手首には小さなショップの紙袋がかけられていて、楓がそこに視線を送ると、皆川がそれを手渡した。
楓がちらりと覗くと、ノートが入っているのが見えた。
お菓子やパン作りのメモやレシピがびっしりと書き込まれた、楓がいつも持ち歩いているノートだった。
今日バックヤードで話していて、そのまま楓が忘れてしまったものを、皆川が届けてくれたのだった。
「わざわざ家まで、すみません」
「全然。それにしてもスタジオから一駅で近くていいなぁ、お兄さんと住んでるんでしたっけ?」
「あ、は、はい…」
マンションの前まで来てくれた皆川が、ちらりと建物を見上げながら言った。
皆川が気づいて連絡をくれたのは、楓が退勤した後だった。取りに行くと言った楓だったが、危ないので帰りがてら届けると言ってくれた。
「…楓さん、また今度、お出かけしません?」
「え…」
「次は、夜。行きたいところがあればそれでもいいし、なかったら僕決めようかな?パンビストロとかもいいし、ちょっといい焼肉なんかもいいですよね」
「えっと…」
これはデートのお誘いだということは、さすがに分かった。
いい人だとは思っている。
でも気持ちがそれ以上動いていないのに、それに行くことは不誠実なんじゃないだろうか。
ホールの天井に埋め込まれたダウンライトが、白く硬いタイルの床を均一に照らし、ガラス扉越しに二人の足元をオレンジ色に縁取っている。
「…ふ、僕ずるいですよね」
「え?」
「楓さんが断れないようにしてる。パンビストロとか、好きですよね絶対」
「え、いや…」
「すいません、ずるくて。楓さんに、少しでも前向きに考えてほしいなって。デート」
「で、デートって」
皆川がニコリと口角を上げて、そう言った。
楓の心の中を見透かしたかのような言葉に、楓の視線は泳ぐ。
マンションのエントランスにはオレンジ色の光が灯っていて、たまに吹き抜ける風が部屋着の裾を攫っていこうとする。
「はい、デートに誘ってます、僕」
「み、皆川さん…なんか」
もっと柔らかくて、ふわりと笑う皆川しか知らない。
年上のパートさんたちに囲まれて、いじられて、照れくさそうに笑っていて、人当たりが良くて、朗らかで、優しい皆川しか見たことがないのに。
「ちょっと、ちゃんと攻めた方がいいかなって」
「待ってくださ、なんか、え、」
「ふ、キャラ違うって思ってます?」
皆川がくすりと笑って言った。
ああ、なんか、男の、ひとだ。
「え…」
「ちゃんと意識してほしいなって、僕のこと」
「っ」
意識って、つまり、そういうことなんだろうか。
怜にも同じようなことを言われたなと、こんな時に脳裏に怜の顔が浮かんだ。
「…もしかして、他に口説かれてる人がいるとか?」
「いや…」
皆川は、少しだけ目を細めて言った。
後ろのドアが開いて、びくりと肩を揺らした楓は、無意識にそちらに視線を送る。
住人らしき男性がちらりとこちらに視線を送っては出ていった。
「…すいません、急でしたね。ごめんなさい」
「いえ…」
「長居するつもりなかったのに、すいません。帰りますね、また考えておいてください」
「あ、え、あの」
皆川が口角を上げた。
その顔はいつものように柔らかい笑みが浮かべられていて、楓は少しだけそれに安心する。手首にかけた紙袋が、かさりと音を立てて揺れた。
「…最後に、ちょっと聞いてもいいですか?」
「え、はい…」
皆川が、紙袋に視線を送ってから、楓を見つめた。
少しだけ声のトーンが変わっていた。
怜よりも数センチ高い視線が、上から静かに楓の瞳を覗き込んでくる。
「…好きな人は、今いないって聞いてたけど…実は、もういたりします?」
好きな、人。
それは、以前みんなで話した時に出た話で。
社会人になって、出会いもないしそんな暇がないと嘆いたその言葉を、皆川は覚えていたんだろう。
「……」
「…気になる人は?」
「……え、っと…」
それは、どういう、
「…やっぱ、誰かにもう、好きって言われてる?」
好きとか、そんなこと、何にも言われていない。
からかわれているわけではないのも分かる。それでも、決定的な言葉はなかった。
だから、ずっと、戸惑っているままで。
だって、気づいたら、安全じゃなくなってしまうから。
それを知りながら、甘えることは、許されない気がするから。
「…こないだ出かけて、楓さんがぼーっとしてた時に、考えてた人とか?」
「っえ、」
伝わって、いたんだ。
怜ちゃんを、無意識に思い浮かべてしまっていたこと。
怜ちゃんを、無意識に、比べてしまっていたこと。
そして、怜ちゃんも同じように私を女の子として扱ってくれていたということに、気づいてしまったこと。
「…もし無理そうなら、ちゃんと引きますよ、僕」
皆川がそう言って、首を少し傾けた。
自分の答えを待っているのだと分かって、楓の目線はあちこちに泳ぐ。
どうしよう、このまま何かを口に出したら、言語化してしまったら、もう戻れない気がする。
ぼんやり頭の片隅にあるだけで、見ないふりをしていたことを、これ以上暴かれてしまったら。
だから、誰かに怜ちゃんの話をしたくなかったのに。
言い当てられてしまうのが、嫌だったから。
「楓?」
後方のエントランスのドアが開いて、いつもの声がした。
心臓が一気にどくんと音を立てて、楓は勢いよくそちらを振り返る。
「れい、ちゃん」
いつものTシャツにグレーのパーカーを羽織った怜が、片手にキーケースを持って立っていた。
目の前の皆川が、ぺこりと会釈をしたのが気配で伝わる。
視線の先の怜も、皆川に気づいて軽く頭を下げた。
手のひらに汗が一気に滲んで、じとりと湿った。
そういえば、何も言わずに出てきたんだったと、今になって思い出した。
キーケースの金属が、チャリンと硬い音を立てた。
風が吹き抜けて、怜の髪の毛をふわりと揺らした。
外はもうとっくに真っ暗になっているのに、エントランスのライトが照らす怜の顔だけが明るくて、その影が濃く落ちていた。
喉の奥で、ひゅうと音がした。