キャラメリゼ ワンルーム
「あ…こんばんは」
皆川が怜に向かって、再度頭を下げた。
怜も皆川を見て「こんばんは」と返した。
「…料理途中っぽかったのに、メッセージ送っても既読もつかないし…どこ行ったのかなって思ったけど、ここにいたんだ」
「あっ、ごめ、」
夕飯作りの途中だったことを思い出して、楓は慌てて怜の顔を見る。
怜は特に何も感じていないような顔をしていて、それがなんだか怖かった。
楓は皆川から一歩離れて、怜の方に駆け寄った。
「あの……あ、兄です」
怜の顔が見られなかった。
でもそれ以外に、怜を表す言葉をまだ知らなかったから。
「こんばんは。職場の同僚みたいなもので、皆川です」
「ああ…なるほど。楓の兄です。すいませんお邪魔して。ごゆっくり」
怜は口角を少し上げて頭を下げると、手をかけていた扉から手を離し、マンションの中に戻ろうとした。
「あっ、あの、ありがとうございました!」
「はい、またスタジオで」
エントランスに入っていってしまった怜を追いかけようと、楓は皆川にお礼を言って頭を下げた。
皆川はニコリと手を振っていた。
すでに背後で閉まっていたドアに手をかけると、銀色の鉄がひんやりと手のひらに張り付いたような感触だった。
鍵を差してオートロックのドアを開けると、怜がエレベーターに乗り込むところだった。
楓は走って怜に追いつく。
手首にかかったままの紙袋が、がさりと音を立てた。
「…もう良かったの?」
怜が背後に立った楓に気づいて、そう言った。
ざわざわとした気持ちを見透かされているような怜の瞳に、少しだけぞくりとした。
「うん、あの…忘れ物、届けてくれただけで…ごめん…料理、途中で…」
「ふうん?別に謝ることないでしょ」
怜がふっと笑って、エレベーターのボタンを押した。
分けられた前髪が目にかかっていて、その表情はよく分からない。
空調だけが静かなエレベーターの狭い箱の中で、少しの浮遊感が居心地悪い。
「あの…怜ちゃん?」
「ん?」
怜がこちらを見た。
何にも、思っていなさそうな顔だなと思って、言葉にしかけたものを飲み込んだ。
「…なんでもない」
別に、好きとか、言われたわけでもない。
大人というものは、こういうものなのだろうか。
皆川も、デートに誘ってますと言っただけで、好きとも言われていない。断ることはおかしい。
なんて返すのが正解なのか分からない。
ステンレスの壁に囲まれた狭い空間で、天井の蛍光灯が二人の頭頂部を白く照らしている。
いっそ、言ってくれたら。
そこまで思考が飛んだ後、エレベーターが到着音を鳴らした。
言ってくれたら、なんなんだ。
エレベーターをするりと出ていく怜の後を追って、楓も廊下に出た。
壁に囲まれていて、外の風が入らないマンションの廊下は、少しだけむわりとこもっていた。
「…怜ちゃん…今日はお仕事、まだ残ってる?」
「いや?どうしたの」
夕食の後片付けを一緒にやっていると、楓が冷蔵庫にタッパーをしまいながら遠慮がちに言った。
ちらりとそちらの方向を向くも、すぐに視線を外して手元にあった茶碗を棚にしまう。
「あの…映画でも、観ない?」
楓の言葉に少し考えた後、「いいよ」と言った。
もう俺とはあまり一緒にいたくないかもしれない、などと考えていた最中だっただけに、その言葉に少しだけ舞い上がった。それが虚しかった。
「あ…なに観たいとかある?」
「楓は?あのアニメの映画シリーズはもう観たの?」
「あ、全部は、まだ…」
「じゃあそれ観ようよ」
楓が遠慮がちに、言葉を選んで話していることが伝わる。
大方、さっきの場面を見られたことを気まずいと思っているのだろう。
別に、そんなの、俺にとっては何でもないことなのに。
俺の気持ちをうっすら分かっていて、申し訳ないと、罪悪感でも抱いているのだろう。
拭き終わった皿を最後にしまうと、「座る?」と楓が遠慮がちにソファを指差した。
そんなふうに顔色を窺って許可を取らなくても、怒ってなどいないのに。
「前、映画館で一緒に観たやつがいい」
「えー…どれだっけ?すごい古いやつじゃない?私が高校生の時でしょ?」
怜の言葉に、楓の顔がパッと輝いて、リモコンを楽しそうに操作する。
昔、楓に連れられて一緒に観に行った。
毎年欠かさず映画館で観ているけれど、今年はこっちに友達がいないから一緒に行って欲しいと言われ、土曜に一緒に行った。
その時のことを思い出しているのだろう。
過去のことを話したり思い出したりする時、楓はすごく嬉しそうに笑う。
それを見ると、楓を無理やり変えようとしている自分が醜く感じる。
「あった、これじゃない?」
「そうかも」
「じゃ、これにしよー」
楓が再生ボタンを押すと、画面が一瞬暗くなって、供給会社のクレジットが映し出される。
リモコンを置いた楓が隣に座る。
そのひらりとしたショートパンツがふと目に入って、先ほどのエントランスでの光景を思い出す。
リブ素材が可愛いんだと言って新しく買っていたネイビーの部屋着に、簡単にカーディガンを羽織っただけ。
そんな格好で、自分をデートに誘ってきた男と平然と会う。
好意を持たれていると知っていて、職場でいつでも会える関係のくせに、家を教えて。
わざわざそいつが家まで忘れ物を届けに来ることを、口実かとすら疑わない。
どこまでも無防備で、男からしたら、残酷だ。
「…こんな始まりだったっけ?」
「俺も全然覚えてない」
楓と彼を目撃した時のことを、ぼんやりと思い出す。
そろそろ夕食ができるだろうかとリビングに行くと、火が消されただけのフライパンと鍋がコンロに置いたままだった。
まな板の上には、途中で放置された野菜の切れ端が転がり、包丁の金属製の刃が、リビングからの明かりを鈍く反射していた。
メッセージを送っても既読にならず、もしかして食材でも追加で買いに行ったのだろうかと、近くのスーパーに行こうとしたところだった。
扉からは頬を少しだけ赤らめて、戸惑ったような様子の楓しか見えなくて、声をかけようとして相手の男を見て、ああ、と悟った。
特に嫉妬とかそういう感情は湧かない。
ただ、純粋に口説けて好きだと言える、彼が羨ましかった。
兄として守ると誓った相手に、そういう感情を持ってしまった自分は、気持ち悪くて、異常だ。
兄が、妹に恋慕の感情を向けるなんて、そんなの、あってはならないのに。
だから、「楓が許してくれるなら」まだそばにいたかった。
法律上どうとかじゃなくて、 楓の人生の中で築いてきた立場が、俺はどこまでいっても「兄」だから。
そもそも、嫉妬していい権利など、俺にはない。
それなのに、最近の楓は、顔を赤くしたり、反応したり、寂しそうな顔をしたかと思ったら俺をじっと見つめたりして、理性が、じわじわと削られていく。
あの時、「デート行ってきた」って言って、俺に止めて欲しかったのかと、錯覚してしまうほどに。
本当は抑える予定だった感情が、たまに漏れてしまう。
なんで、あの日、雨の中わざわざ俺を迎えにきたの?
なんで、俺にどきどきするの?
なんで、妹じゃない、女の顔、すんの?
こんなの、期待するなという方が無理だと言い訳をして、我慢を忘れて、自分の欲望を押し付けている。
ゆっくり待とうって思っていたのに、楓はどこまでも、俺の理性を壊していく。
「デートだった」って言われて、俺が、「行ってほしくない」なんて、言っていいわけがない。
俺は、兄だから、そこに口を出す権利などない。
「……」
三十分ほど無言で画面を続けた後、すう、と息が聞こえた。
そちらを見ると、ソファの背もたれに頭を預けた楓が目を瞑っていた。
残業もして帰ってきて、ご飯を作ってくれて、俺にあの場面を見られて気疲れもしただろう。
「…ごめんな」
ぐらりと揺れた首元を、そっと自分の肩の方に寄せた。
片手でブランケットを手繰り寄せて、楓の膝にかけてやる。
柔らかな髪の毛が、怜の首筋にカサリと軽い音を立てて触れた。
ふわりと漂うシャンプーの香りを、必死に液晶に頭を向けることで誤魔化した。それでも、香りが消えるまで、息を止めていた。
ほら、やっぱり俺は、異常だ。
「分かんない」と、楓は言う。
楓が分からないなら、俺が分かるはずがない。
楓が分かるまでは、俺は、まだ許されている。
だからまだ、大丈夫かもしれない。
少なくとも、まだ拒否はされていない。
まだ、俺の隣で眠れるくらいには、嫌われていない。
テレビの画面からは、アニメのカラフルな光が明滅しながら二人の顔を交互に照らし、スピーカーからの音声だけが、静まり返ったリビングに低く流れていた。
だから、楓が「兄としてしか見られない」「好きじゃない」「離れてほしい」と言うまでは、
許されている間は、少しでも、そばにいたい。