名古屋の空に、もう一度だけ君の名を呼ぶ

第3話:古都の静寂、埋まらない空白

 その日の朝、僕は少し早めに駅に着いた。
 長いベンチに腰を下ろし、行き交う乗客たちを眺める。
 駅のアナウンスが低く響き、急ぎ足の足音がそれに重なっていた。

 スマホの時計に目をやる。電車が出るまで、まだ時間はある。
 目の前では、一人の男が大きなスーツケースを引いていた。
 その傍らでは、若い母親が小さな子供をあやしている。
 すべては、いつも通りの風景だった。

 けれど、今日は少しだけ、何かが違っていた。
 たぶん、長い間僕の人生から消えていた誰かを待っているからだろう。

 改札の方をじっと見つめる。
 絶え間なく人が流れてくる。
 そして、その人混みの中に、彼女の姿を見つけた。
 理香だ。

 彼女は肩に小さなバッグをかけ、ゆったりとした足取りで歩いてきた。
 僕と目が合うと、一瞬だけ足を止め、それから微笑む。
 何年も経っているはずなのに、どこか見覚えのある笑顔だった。

 僕はベンチから立ち上がった。
「ごめん、待った?」
「いや、そんなに」
 そう答える。
 本当はかなり前から来ていた。けれど、それをわざわざ口にする必要はない気がした。

 理香は駅の構内をぐるりと見渡した。
「電車、まだだよね?」
「ああ、まだ時間はあるよ」
 彼女は小さく頷いた。

 数秒間、僕たちはただそこに立っていた。
 動き続ける駅の中心で、流れる時間だけがやけに長く感じられる。
 けれど同時に、昔と変わらない何かが、そこにあるようにも思えた。

「行こう」ようやく僕は言った。「今からホームに向かえば、急がなくて済むから」
 理香はもう一度、頷いた。
 僕たちは電車に乗り込もうとする人々の流れに身を任せ、歩き出した。

 電車は定刻通りに出発した。
 僕たちは窓際の席に並んで座る。
 ドアが閉まり、電車はゆっくりと駅を離れていった。
 線路沿いの建物が、ガラス越しに一つ、また一つと後ろへ流れていく。

 しばらくの間、僕たちは黙っていた。
 理香は外を眺め、僕は窓ガラスに映る自分たちのぼんやりとした影を見ていた。

「こんな時間に電車に乗るなんて、ほとんどないわ」
 ようやく彼女が口を開いた。
「僕もだよ。普段なら今頃はもうオフィスにいて、最初の一杯のコーヒーを待っている時間だ」
 理香は小さく笑った。
「考えてみれば、なんだか不思議ね」
「何が?」
「こうして二人で、京都へ出かけるなんて」

 僕は少しだけ彼女の方を振り向いた。
「……そうだね」

 彼女はまた外の景色に目を向けた。
「あなたは昔、あそこに四年間住んでいたのよね?」
「ああ」
 理香は静かに頷いた。

 電車のスピードが上がる。
 景色は密集した家並みから、やがて開けた空地や田んぼへと変わっていった。

「私、実は京都って行ったことがないの」
 理香が言った。僕は少し驚いた。
「本当にか?」
「ええ」
「どうして? 近いのに」
 彼女は小さく肩をすくめる。
「きっかけが、なかっただけだと思う」

 数秒の沈黙の後、彼女は微かに微笑んだ。
「だから、今回京都に行けることになって、少し嬉しいの」

 僕はすぐには答えなかった。
 ただ外を眺め、遠くへ続く線路の曲線を目で追う。
 この電車に彼女と座っているだけで、見慣れたはずの旅路が少し違って見えた。

 京都駅に近づくと、電車は速度を落とした。
 車内アナウンスが流れる。
 やがて電車が止まり、乗客たちが一斉に立ち上がった。

「やっと着いたわね」理香が静かに言った。

 僕たちは人の流れに乗って改札を出た。
 外の空気は、名古屋とは少しだけ違う気がした。
 この街には、どこか落ち着いた空気が流れている。

 理香は好奇心に満ちた目で辺りを見回した。
「本当に初めての京都だわ」
「どんな気分?」
「まだ分からない」彼女は小さく微笑んだ。「これからよ」

 駅から少し歩いたところで、理香が振り返る。
「お腹、空いてない?」
「それなりに」
「じゃあ、まずは何か食べましょう」

 大通りから少し入ったところに、暖簾のかかった小さな料理屋を見つけた。
 店に入ると、出汁の温かい香りがふわりと漂ってくる。

 僕たちは壁際のテーブル席に座った。
 店員がメニューを差し出す。理香はそれをパラパラとめくった。
「正直、何を頼めばいいか分からないわ」
「こういう店なら、大抵何を食べても美味しいよ」
「じゃあ、あなたの勧めに任せるわ」

 僕は簡単な昼食のセットを二人分注文した。

 数分後、料理が運ばれてくる。
 理香は数秒、その料理を眺めていた。
「思っていたより、本格的ね」
「本格的?」
「ええ。もっとサッと食べてすぐ出るようなものかと思ってたから」
「急いでいるわけじゃないだろ?」
 彼女は首を振った。

 それからしばらく、僕たちは言葉少なに食事をした。

 数口食べた後、理香が不意に尋ねる。
「大学時代、こういうところでよく食べてたの?」
「たまにね」
「たまに、ってことは、実際は結構通ってたんでしょ?」
 僕は少しだけ笑った。「たぶんね」

 理香は僕をじっと見つめた。
「なんだか、面白いわ」
「何が?」
「あなたはここに四年間も住んでいたのに、私は今、初めてここに来ていることが」
 僕はその言葉を少し考えた。
「……確かに」

 彼女は箸を一度置いた。
「あなたがここにいた頃、一度も京都に誘ってくれなかったものね」

 軽い口調だった。
 けれど、その言葉に僕は動きを止めた。

「……あの頃は、そんなこと考えもしなかったんだ」
 ようやくそう答える。

 理香は静かに頷いた。
「そうね。私もだわ」

 彼女は再び箸を取り、食事を続けた。
 まるで今の言葉が、ただの世間話だったかのように。

 けれどその言葉を聞いた後、僕にとってこの街は、少しだけ色を変えた。

 食事を終え、店を出る。
 しばらくの間、目的もなく歩いた。
 通りはそれほど混んでいない。小さな店が道沿いに並んでいる。

「京都って、思っていたより静かなのね」
「ここはまだ静かな方だよ。もっと賑やかな場所もたくさんある」

 僕たちはさらに細い路地へと曲がった。
 両側には木造の家が並んでいる。
 先ほどの通りよりも、さらに静寂が深まった。

 僕たちの歩調は、無意識のうちに緩やかになっていく。
 僕は、かつてこんな場所を歩いたことがあるような気がした。

「どうしたの?」
「いや、何でもない。ただ、懐かしいなと思って」

 理香は前を見据えた。
「学生時代、よくこうして散歩してたの?」
「いや。講義が終わったら、すぐに帰ることが多かった」
「本当?」

 僕は肩をすくめる。
「たぶん、ここでの時間をあまり有効に使えていなかったんだろうな」

 理香は薄く微笑んだ。
「もったいないわね」

 僕たちはまた歩き出した。
 しばらくして、理香が小さな店の前で足を止めた。
 ガラスのショーケースには、和菓子が整然と並べられている。

「可愛い……」彼女が小さく呟いた。
「食べるか?」
 理香は首を振る。
「いいえ、大丈夫」

 そう言って微笑む。
 けれど、その笑顔はどこか先ほどとは違って見えた。

 通りが少しずつ賑やかになってきた。
 小さな橋を渡る。
 下には川が穏やかに流れ、傾き始めた午後の光を反射していた。

 理香は橋の真ん中で足を止める。
「綺麗……」

 僕も彼女の隣で立ち止まった。
「ああ」

 しばらくの間、僕たちはただそこに立っていた。

「変よね」
 理香がふいに言った。

「何が?」
「こんなに久しぶりに会ったのに、こうして歩いているなんて」

 僕はすぐには答えなかった。
「……そうだね」

「本当なら、もっと気まずいはずでしょ?」
 僕は少しだけ笑う。
「少しは、ね」

 理香は小さく笑い声を上げた。
「でも、それほどでもないわ」
 僕は頷いた。
「それほどでもない」

 理香は再び川の方へ目を向ける。
「昔だって、こんな風に二人で歩くことなんて、あまりなかったのに」

 軽い響きだった。
 けれど、その言葉は僕の中に静かに沈んでいった。

「……ああ」
 僕は短く答えた。

 空の色がゆっくりと変わり始めていた。
 明るかった青が、次第に深みを帯びていく。

 僕たちは、より広い川べりへと辿り着いた。
 川沿いには、何人かの人々が等間隔に座っている。

 僕たちも、その近くで足を止めた。

 理香は穏やかに流れる水面を見つめていた。
「こういう場所、いいわね」
「そうだね」

 夕方の風が少し冷たくなってきた。
 僕はジャケットのポケットに手を入れる。

「こんなに歩いて、疲れてないか?」
 そう尋ねると、理香は首を振った。
「いいえ。むしろ楽しいわ」

 短い沈黙が落ちる。

「今は、まだ昔の家に住んでいるのか?」
 僕が聞くと、理香は頷いた。
「ええ」

 それだけだった。

 彼女は川を見つめたままだったが、ふとこちらに少しだけ顔を向け、小さく微笑んだ。
 けれど、その微笑みはすぐに消えた。

 空がゆっくりと暗くなっていく。
 道沿いの街灯が、一つ、また一つと灯り始めた。

 何かが違う、と感じた。
 場所のせいではない。
 僕たちの、何かが。

 僕たちは再び、川べりに沿って歩き出した。

「京都がこんな風に感じられるなんて、思わなかった」
 理香が言った。

「どんな風に?」
「思っていたよりも、ずっと静かで……穏やか」

 僕は頷いた。
「僕も、初めてここに来た時はそう思ったよ」

 僕たちはさらに、人通りの少ない道へと曲がった。
 店の軒先に吊るされた提灯が、柔らかな光を落としている。

「私、ふと思ったんだけど」
 理香が唐突に言った。

 僕は彼女の方を見る。
「何を?」

 彼女はすぐには答えなかった。
 歩調は緩やかなままだった。

「もし、あの時が違っていたら」

 ようやく、彼女が口を開く。

「……私たちも、昔こうして一緒に、こんな場所に来ていたのかしら」

 その言葉は、僕たちの間に静かに落ちた。

 僕はすぐには答えられなかった。

「あの頃は、今とは多くのことが違っていたから」
 ようやく、そう言う。

 理香は薄く微笑んだ。
「そうね」

 それ以上、その話は続かなかった。

 数歩歩いた後、彼女はまた口を開く。
「ここの場所、まだ覚えてる?」
「いくつか、ね。でも全部じゃない」
「もっと詳しく覚えているかと思ったわ」
「昔ならね。今は、もうそうでもないんだ」

 理香は少しの間、黙り込んだ。

「変ね」
 静かな声だった。

「何が?」
「昔あんなに通っていた場所でも、時間が経てば普通になってしまうなんて」

 理香が足を止める。
 僕もそれに合わせた。

 彼女は僕ではなく、目の前の道を見つめている。

「おかしいわよね。変わらないものはあるはずなのに、今は全然違って感じるなんて」

 僕はすぐには答えなかった。
 その言葉は、別の意味を含んでいるようにも聞こえた。

「……その人次第、なのかもしれないけどね」
 ようやく、そう言う。

 理香は小さく微笑んだ。
「そうね」

 夜の風が、さらに冷たさを増していく。

 僕たちの歩調は、いつの間にか揃わなくなっていた。

 少し先に、ホテルの小さな看板が道端で光っているのが見えた。

 僕が先にそれに気づいた。
 無意識のうちに、足が少しだけ重くなる。

 理香も、同じ方向を見ていた。

 彼女は、何も言わなかった。
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