名古屋の空に、もう一度だけ君の名を呼ぶ
第4話:サイレント・ナイト
ホテルの看板を目にして
僕たちはすぐには何も言わなかった。
入り口の灯りが、ぼんやりと点いている。
理香が先に歩き出し
僕は何も考えずにその後に続いた。
チェックインは淡々と進んだ。
理香がフロントで話し
僕は少し後ろに立っていた。
彼女の声のトーン。受け答えの仕方。
かつてはあんなに馴染み深かったはずのものが
今はひどく他人のものに感じられた。
部屋は一つだった。
それについて、どちらも触れなかった。
ただ鍵を受け取り、エレベーターへと向かった。
エレベーターの中では、言葉はなかった。
小さな機械音だけが響いていた。
扉が開く。
静まり返った廊下を歩く。
僕たちの足音が、いつもより鮮明に聞こえた。
理香がある扉の前で立ち止まり、鍵を開けた。
中に入る。
シンプルな部屋だ。
オレンジ色の照明が柔らかく灯り
ベッドと小さな机、そしてカーテンの閉まった窓を照らしている。
理香は椅子の上にバッグを置いた。
僕はカードキーを机に置いた。
その音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
数秒、沈黙が続いた。
エアコンの唸るような音と
ホテルのテレビが流す夜のニュースの声だけが聞こえる。
僕はポケットからスマホを取り出した。
一瞬だけ画面が明るくなる。
通知は何もない。
光が消え、暗い画面に僕の強張った顔が映り込んだ。
僕はそれをポケットに戻した。
ベッドの向こう側で、理香も同じことをしていた。
消えた画面を見つめ
それから静かに息を吐く。
彼女はベッドの端に腰を下ろした。
カーペットの模様をぼんやり見ている。
まるで、適切な言葉を探しているかのように。
「……不思議ね」ようやく彼女が言った。
彼女の方を見る。
「何が?」
「こうして、ここまで来られたことが」
すぐには答えなかった。
「……そうだね」ようやく、そう言った。
理香は小さく微笑んだが、その笑みは長くは続かなかった。
数秒が過ぎる。
彼女の指先が枕の端を弄び、視線が僕の方へと向けられた。
その瞳に、迷いと決意が滲んでいた。
「泉……あなたが初めて私にくれたチョコ、まだ覚えてる?」
心臓の鼓動が速くなった。
その問いは、僕を冷たい校舎の廊下へと引き戻した。
コンビニで買った安いチョコを差し出した時の、震える手。
それを受け取った時の、赤くなった彼女の顔。
「……覚えてるよ」僕は静かに言った。
「忘れられるはずがない」
理香は微かに笑った。
「私……まだ持ってるの」
言葉を失った。
「あのチョコ」彼女は続けた。
「形は崩れてるし、もう食べられるような状態じゃないけど……」
「ずっと、部屋の机の引き出しにしまってあるの」
彼女の声が、少しだけ震えていた。
「お母さんが東京に来た時、それを見つけてね」
「どうしてこんな古いものを取ってあるのって、聞かれたわ」
理香は小さく笑った。けれど、その瞳は笑っていなかった。
「答えられなかった。ただ、引き出しを閉めることしかできなかった」
何も答えられなかった。
その問いだけが、頭に残った。
――どうして、まだ持っているのか。
その問いは僕に向けられたものではないと分かっている。
けれど、僕も答えなければならないような気がした。
答えはある。あまりに明確すぎるほどに。
けれど、それは決して口から出ることはなかった。
僕はそれを知っている。
そして、たぶん彼女も分かっている。
僕は一度も、本当に勇気を持ってそれを伝えたことはなかった。
彼女の瞳の中に、同じものを見た。
消えることのない、けれど決して言葉にならない感情。
また、沈黙が落ちた。
その静寂の中で、僕たちの間にあるものが
どれほど脆いものか、実感していた。
窓の方を見る。
京都の街の灯りが、少し曇ったガラスの向こうでぼんやりと滲んでいる。
夜は、あまりに静かだった。
再び顔を向けると、理香が僕を見つめていた。
まっすぐな、けれど確信のない視線。
そこには、壊れそうなほどの危うさがあった。
僕たちの距離は、決して遠くない。
けれど、誰かが最初の一歩を踏み出すのを待っているような
そんな距離だった。
どちらが先に動いたのかは分からない。
ただ、一瞬の間があった。
僕の呼吸が重くなる。
そして、その距離はあっけなく消えた。
理香がゆっくりと目を閉じる。
僕の手が、躊躇いながら彼女の手の甲に触れた。
確かに、そこにあった。
唇が重なった瞬間
長く閉じていた何かが、ほどけるような感覚がした。
懐かしい熱。
けれど同時に、どこか他人のような冷たさもあった。
彼女の手が、僕の服を強く掴んだ。
目の前にある何かを失うことを、恐れているかのように。
僕たちは多くを語らなかった。
言葉は、このあまりに脆い「何か」を壊してしまうだけだ。
残ったのは、微かな吐息と、衣擦れの音だけ。
失われた時間を埋めるように、僕たちの体は引き寄せられた。
けれど、その熱の中で、僕の胸はかえって空っぽに感じられた。
何かが、どうしても昔のようには戻らない。
言いたいことがあった。
たった一行の、単純な言葉だ。
それはずっと前から僕の中にあった。
けれど、いざそれが舌の先に届いたとき。
僕はそれを口にすることができなかった。
恐怖に飲み込まれたのだ。
また繰り返すこと。また失うこと。
理香が隣で眠りについたとき
その寝息は規則正しく、顔立ちは穏やかだった。
ただ、天井を見つめていた。
手が持ち上がり、彼女の髪に触れそうになった。
けれど、止まった。
その手を、自分の元へと戻した。
静けさは、前より深くなっていた。
決して越えられない境界線の淵に立っているような感覚。
そしてその夜、僕は沈黙を守ることを選んだ。
京都の朝は
僕の記憶にあるよりもずっと静かに訪れた。
カーテンの隙間から、薄く青白い光が差し込む。
部屋の空気は冷え切っていた。
先に目を覚ました。
数秒間、ただ横たわって天井を見つめていた。
何も考えられなかった。
それから、ゆっくりと横を向いた。
理香はまだ隣で眠っていた。
穏やかな顔だった。昨夜よりも、ずっと。
視線を逸らす。
何かが決定的に変わってしまった、と感じた。
昨夜の出来事が現実ではなかったからではない。
あまりに現実だったからだ。
僕たちはすぐには何も言わなかった。
入り口の灯りが、ぼんやりと点いている。
理香が先に歩き出し
僕は何も考えずにその後に続いた。
チェックインは淡々と進んだ。
理香がフロントで話し
僕は少し後ろに立っていた。
彼女の声のトーン。受け答えの仕方。
かつてはあんなに馴染み深かったはずのものが
今はひどく他人のものに感じられた。
部屋は一つだった。
それについて、どちらも触れなかった。
ただ鍵を受け取り、エレベーターへと向かった。
エレベーターの中では、言葉はなかった。
小さな機械音だけが響いていた。
扉が開く。
静まり返った廊下を歩く。
僕たちの足音が、いつもより鮮明に聞こえた。
理香がある扉の前で立ち止まり、鍵を開けた。
中に入る。
シンプルな部屋だ。
オレンジ色の照明が柔らかく灯り
ベッドと小さな机、そしてカーテンの閉まった窓を照らしている。
理香は椅子の上にバッグを置いた。
僕はカードキーを机に置いた。
その音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
数秒、沈黙が続いた。
エアコンの唸るような音と
ホテルのテレビが流す夜のニュースの声だけが聞こえる。
僕はポケットからスマホを取り出した。
一瞬だけ画面が明るくなる。
通知は何もない。
光が消え、暗い画面に僕の強張った顔が映り込んだ。
僕はそれをポケットに戻した。
ベッドの向こう側で、理香も同じことをしていた。
消えた画面を見つめ
それから静かに息を吐く。
彼女はベッドの端に腰を下ろした。
カーペットの模様をぼんやり見ている。
まるで、適切な言葉を探しているかのように。
「……不思議ね」ようやく彼女が言った。
彼女の方を見る。
「何が?」
「こうして、ここまで来られたことが」
すぐには答えなかった。
「……そうだね」ようやく、そう言った。
理香は小さく微笑んだが、その笑みは長くは続かなかった。
数秒が過ぎる。
彼女の指先が枕の端を弄び、視線が僕の方へと向けられた。
その瞳に、迷いと決意が滲んでいた。
「泉……あなたが初めて私にくれたチョコ、まだ覚えてる?」
心臓の鼓動が速くなった。
その問いは、僕を冷たい校舎の廊下へと引き戻した。
コンビニで買った安いチョコを差し出した時の、震える手。
それを受け取った時の、赤くなった彼女の顔。
「……覚えてるよ」僕は静かに言った。
「忘れられるはずがない」
理香は微かに笑った。
「私……まだ持ってるの」
言葉を失った。
「あのチョコ」彼女は続けた。
「形は崩れてるし、もう食べられるような状態じゃないけど……」
「ずっと、部屋の机の引き出しにしまってあるの」
彼女の声が、少しだけ震えていた。
「お母さんが東京に来た時、それを見つけてね」
「どうしてこんな古いものを取ってあるのって、聞かれたわ」
理香は小さく笑った。けれど、その瞳は笑っていなかった。
「答えられなかった。ただ、引き出しを閉めることしかできなかった」
何も答えられなかった。
その問いだけが、頭に残った。
――どうして、まだ持っているのか。
その問いは僕に向けられたものではないと分かっている。
けれど、僕も答えなければならないような気がした。
答えはある。あまりに明確すぎるほどに。
けれど、それは決して口から出ることはなかった。
僕はそれを知っている。
そして、たぶん彼女も分かっている。
僕は一度も、本当に勇気を持ってそれを伝えたことはなかった。
彼女の瞳の中に、同じものを見た。
消えることのない、けれど決して言葉にならない感情。
また、沈黙が落ちた。
その静寂の中で、僕たちの間にあるものが
どれほど脆いものか、実感していた。
窓の方を見る。
京都の街の灯りが、少し曇ったガラスの向こうでぼんやりと滲んでいる。
夜は、あまりに静かだった。
再び顔を向けると、理香が僕を見つめていた。
まっすぐな、けれど確信のない視線。
そこには、壊れそうなほどの危うさがあった。
僕たちの距離は、決して遠くない。
けれど、誰かが最初の一歩を踏み出すのを待っているような
そんな距離だった。
どちらが先に動いたのかは分からない。
ただ、一瞬の間があった。
僕の呼吸が重くなる。
そして、その距離はあっけなく消えた。
理香がゆっくりと目を閉じる。
僕の手が、躊躇いながら彼女の手の甲に触れた。
確かに、そこにあった。
唇が重なった瞬間
長く閉じていた何かが、ほどけるような感覚がした。
懐かしい熱。
けれど同時に、どこか他人のような冷たさもあった。
彼女の手が、僕の服を強く掴んだ。
目の前にある何かを失うことを、恐れているかのように。
僕たちは多くを語らなかった。
言葉は、このあまりに脆い「何か」を壊してしまうだけだ。
残ったのは、微かな吐息と、衣擦れの音だけ。
失われた時間を埋めるように、僕たちの体は引き寄せられた。
けれど、その熱の中で、僕の胸はかえって空っぽに感じられた。
何かが、どうしても昔のようには戻らない。
言いたいことがあった。
たった一行の、単純な言葉だ。
それはずっと前から僕の中にあった。
けれど、いざそれが舌の先に届いたとき。
僕はそれを口にすることができなかった。
恐怖に飲み込まれたのだ。
また繰り返すこと。また失うこと。
理香が隣で眠りについたとき
その寝息は規則正しく、顔立ちは穏やかだった。
ただ、天井を見つめていた。
手が持ち上がり、彼女の髪に触れそうになった。
けれど、止まった。
その手を、自分の元へと戻した。
静けさは、前より深くなっていた。
決して越えられない境界線の淵に立っているような感覚。
そしてその夜、僕は沈黙を守ることを選んだ。
京都の朝は
僕の記憶にあるよりもずっと静かに訪れた。
カーテンの隙間から、薄く青白い光が差し込む。
部屋の空気は冷え切っていた。
先に目を覚ました。
数秒間、ただ横たわって天井を見つめていた。
何も考えられなかった。
それから、ゆっくりと横を向いた。
理香はまだ隣で眠っていた。
穏やかな顔だった。昨夜よりも、ずっと。
視線を逸らす。
何かが決定的に変わってしまった、と感じた。
昨夜の出来事が現実ではなかったからではない。
あまりに現実だったからだ。