名古屋の空に、もう一度だけ君の名を呼ぶ

第5話: それでも春は来る

 あの旅から、数か月が過ぎた。
 日々は、何事もなかったみたいに続いている。

 朝のオフィス。
 同じ会議。
 同じ画面。

 動いてはいる。
 けれど――どこにも進んでいない気がしていた。

 ふと、思い出す。
 京都のことを。
 あの、冷たい朝を。
 最後まで交わされなかった言葉を。
 喉の奥で止まったままの想いを。

 理香の連絡先は、今も残っている。
 ときどき、やり取りもする。
 短く、用事だけ。

 あの夜のことには、触れないまま。
 まるで、最初からなかったみたいに。

 ある日、ふと思った。
 ここにいていいのか、と。

 仕事が嫌なわけじゃない。
 人間関係に不満があるわけでもない。

 ただ――
 どこにも馴染めていない気がしていた。

 それから数週間後、僕は退職願を出した。

 はっきりした理由はない。
 長い説明も、しなかった。
 上司の前で、短く伝えただけだ。

 手続きは、あっけなかった。
 書類にサインをして、引き継ぎを終えて。

 最後に外へ出たとき、
 会社の看板を見上げた。

 不思議と、何も感じなかった。
 もともと、そこに何もなかったみたいに。

 それからの生活は、少しだけ変わった。
 フリーで、小さな仕事を受けるようになった。

 カフェで作業する日もあれば、
 部屋にこもる日もある。

 自由だった。
 その分だけ、埋まらないものも残った。

 ある夕方。
 名古屋の空が、ゆっくり赤くなりはじめた頃。

 部屋の扉が、控えめに叩かれた。

 開けると、理香が立っていた。

 シンプルなワンピース。
 下ろしたままの髪。
 少しだけ迷いを含んだ目。

 それでも、もう逸らさない。

「……入ってもいい?」

 小さな声。

 僕は、頷いた。

 部屋に入ると、自然と向かい合って座った。

 出したお茶から、細い湯気が立つ。
 やがて、静かに消えていく。

 あとに残った沈黙は、少し長かった。

 理香は視線を落とし、
 カップの縁をなぞっている。

 言葉の入口を探しているみたいだった。

「……どう話せばいいのか、わからなくて」

 彼女が言う。

 僕は何も言わず、待った。

 少しの間。
 それから、彼女が続ける。

「最近、よく考えてたの。私たちのこと」

 息を止める。

「京都で……」
 一度、言葉が途切れる。
「……本当は、言いたいことがあった」

 顔を上げたその目には、もう迷いはない。

「でも、言えなかった」

 僕は、小さく頷く。

「僕もだ」

 思っていたより、あっさり出た。

 理香が、かすかに笑う。
 けれど、その笑みはどこか遠い。

「待ってたの」
 静かな声。
「あなたが、先に言ってくれたらって……思ってた」

 胸の奥が、ゆっくり締まる。

 視線を落とす。

「僕も、待ってた」

 自分の声なのに、少し遠く感じた。

 それ以上、言葉はいらなかった。
 どこで何を失ったのか。
 もう、わかっている。

 ただ――
 少し遅すぎただけだ。

 理香が、息を整える。

「今日は……それだけじゃなくて」

 顔を上げる。

 わずかな間。

 そして――

「結婚するの」

 時間が、止まった気がした。

 すぐには、言葉が出ない。

 冷めたお茶のカップに、指先が触れている。

「……結婚?」

 ようやく、声にする。

 理香は頷く。

「うん」

 静かな声。
 迷いはない。

「会社の人。……いい人なの」

 僕は、小さく頷いた。

 何かを言うには、もう遅い。

 理香が、まっすぐこちらを見る。

「もう、前みたいにいなくなるのは嫌だったの」
「何も言わないまま、終わるのは」

 顔を上げる。

「僕も……」
 ゆっくり、言葉にする。
「ちゃんと言うべきだった」

 どの言葉が足りなかったのか。
 いつ、失ったのか。

 言わなくても、わかる。

 理香が、静かに微笑む。

 大丈夫だからじゃない。
 もう、待つのをやめた顔だった。

 やがて、立ち上がる。

「泉……」

 僕も立つ。

 近い。
 でも、もう届かない距離だった。

 理香が一歩、近づく。
 そのまま、抱きしめてくる。

 僕も、応えた。

 温かい。
 確かに、ここにある。

 それでも――
 そこに、期待はなかった。

 ただ、終わりを受け入れるための温もりだった。

「大丈夫」

 肩越しに、彼女が囁く。

 目を閉じる。

「……わかってる」

 抱擁は、長すぎず、短すぎず。
 言葉にならなかったものを、埋めるには十分だった。

 やがて、彼女は離れる。

 僕は、引き止めなかった。

「元気でね、泉」
「……ああ」

 小さく笑って、背を向ける。

 呼び止めることは、しなかった。

 扉が静かに閉まる。
 その音だけが、やけに大きく響いた。

 しばらく、その場に立っていた。
 それから、ゆっくり座る。

 目の前のカップは、すっかり冷えている。

 外から、電車の音がかすかに聞こえた。
 近づいて、過ぎていく。

 掴めないものみたいに。

 ゆっくり、息を吐く。

 思う。

 終わらないものもある。
 終わらせられなかったんじゃない。

 ただ――
 終わるきっかけを、失っただけだ。

 そして。

 僕は、それを手放した。
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