Over the moon

Vol.1

金曜の夜、二十一時。何のあてもなく、とぼとぼと街を歩いていた紗月のうなじを春の風が新緑の香りを仄かに乗せて通り過ぎていった。

 少しだけ暖かく感じられる風が肌に心地良い。紗月は見えない風を追うようにして辺りを見廻した。
 春先の白く霞むような街の中、すれ違う人達は皆、紗月の沈んだような表情とは違う、陽気で楽しげな笑顔だった。


 市外の美術系短大を卒業したものの、就職難のあおりを受け、自分の夢とは全く違う中堅の家電メーカーに就職して二年。平々凡々とした毎日の繰り返しにうんざりとしていた矢先、付き合っていた彼に五日前、別れようと告げられた。

 半年ほど付き合い、それなりに上手くいっていると思っていた筈なのに、他に好きな娘が出来たというのが理由だった。納得出来ず彼に詰め寄ると、同じ会社の新入社員にちょっかいを出していたことを白状した。そのことを聞いた紗月は、自分の男を見る目が間違っていたのだと吹っ切り、彼の横っ面を平手で張り倒してその場を後にした。

 仕事を終え、一人暮しのワンルームマンションに帰ってきたものの、毎晩、寂しくて悔しくて仕方がなかった。今夜も三連休前に一人、部屋の中で何もせずに俯いているだけだと果てしなく落ち込んでしまうと感じた紗月は外へ飛び出したのだった。


 何処へ行くあてもない紗月は、何時の間にか通勤に利用している駅に辿り着いていた。
 結局、無意識のうちに知っている場所へと来てしまう。人の歩いて行ける許容範囲なんてそんなものだ。

 仕方なく駅前のベンチに腰掛け、ぼおっとしたまま片肘を突いて歩いている人達を眺めた。
 待ち合わせをしている人、友人達と楽しそうにはしゃいでいる人、寄り添って歩く恋人達、手をつないで帰る親子連れ。

 幸せそうな人達を見ていると、何だか世界中で自分だけが一人取り残されたような気分になる。
 明日は休日だし、今から電車に乗って賑やかな場所にでも出掛けて気を紛らわせようかと思ったが、ブルゾンのポケットには財布が入っていなかった。

 指先に触れたのは、冷たい感触のする部屋の鍵だけ。財布を取りにマンションまで戻るのは億劫だし、誰もいない冷たく暗い部屋に戻りたくないとも思った。


― 何やっているんだろう、私。
 

 紗月は深い溜息を吐いてベンチから腰を上げた。
 これからどうしよう、と考えながらとぼとぼ歩きはじめた紗月の瞳に街の掲示板が映った。掲示板には今いる駅の反対側、南口に山を切り開いて出来た大きな緑地公園の地図が貼り出されていた。
 ここから徒歩で約二十分強。完成してまだ二ヶ月くらいだ。紗月は何となくその公園に興味を引かれた。

「緑地公園……か。行ってみようかな」

 紗月はその地図に目を凝らし、緑地公園までの道程を記憶した。
 南口のずっと先には海がある。高台にあるその公園から夜の海が見えるかも知れない。一晩そこで頭を冷やし、海でも眺めながらもう一度自分を見つめ直してみるのもいいことだ。時間はたっぷりあるし、明日からの三連休に予定も何もない。朝帰りしたって叱る人もいなければ心配してくれる人もいないのだから。

「よぉし、行ってみよう!」

 紗月は自分を奮い立たせるように大きな声を出した。彼女の後押しをするかのように春の柔らかな風が舞い、髪を静かになびかせる。空をふと見上げると、霞みがかった上弦の月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。



『美空緑地公園』
 緑に囲まれたその小高い公園の入口にはそう書かれてあった。

「ふぅん。美しい空の公園ですか。ま、市の名前が美空市だものね」

 紗月は独りごちると、入口の遊歩道にあるゆるやかな階段をゆっくりと登って行った。
 しばらくすると公園の中腹と思われる広い敷地に辿り着いた。

 敷地内は美しく、手入れが丁寧に行き届いている。紗月はこぢんまりとした管理事務所を見つけ、その脇にある公園の案内図を見た。思った通り、今居る場所は公園の中腹で第一公園の名称が付けられていた。頂上に位置する第二公園は、この管理事務所の脇にある階段を更に登って行かなければならない。

 ここで少し一息吐こうと紗月はベンチに腰を下ろし辺りを見渡した。たくさんの木々に刈り込まれた芝生。小さな噴水やちょっとした遊具などもあり、休日にはたくさんの家族連れで賑わう様子が見て取れる。
 しかし、こんな時間帯に人影は無く園内はひっそりと静まり返っている。駐車場に停まっている車も見当たらない。

「こんな時間に公園に来る物好きなんて、私くらいだよね」

 紗月が自嘲気味に呟き、大きく伸びをすると、微かな潮の香りを乗せた風が鼻腔をくすぐった。
 辺りに漂う新緑の匂いも何だか懐かしい気がする。
 耳を澄ませばたくさんの木々のざわめきと吹き渡る風の音が聞こえてくる。こんな風に自然の音に耳を傾けるのは久しぶりだった。


 毎日、満員電車に揺られ、職場へと向かう途中には人々の喧騒に車のクラクション。ショップの店頭から流される大音量のBGMばかりが聞こえてくる。

 どちらかといえば静かな場所を好む紗月にとっては、時に耳を塞ぎたい衝動にかられることもしばしばあった。
 紗月は目を閉じてしばらく風の音に耳を傾けていた。こうしていると、嫌なことや悩んでいること、全てを忘れられそうな気がしてくる。公園の頂上まで行って、夜の海に美しい夜空を見上げれば、一時凌ぎとはいえ気が紛れるだろう。

 そう思った紗月はベンチからすっくと立ち上がると、目的の第二公園を目指して又、階段を登りはじめた。
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