Over the moon
Vol.2
階段を登りきり、やっとの思いで頂上に着くと一気に視界が開けた。
遮るものは何も無く、園内は敷き詰められた芝生に数本の樹木と木製のベンチが幾つかあるだけだった。紗月は小走りに柵へと近寄り街を見下ろした。眼下に幾つもの灯りがちらちらと瞬いている。
しかし期待していた夜の海は見えなかった。遠くに水平線らしきものがおぼろげに見えるだけで街の何処からが海なのか分からない。
「なんだ……。海、見えないや」
少しだけ息を弾ませながら呟いた紗月は夜空を見上げた。夜空には上弦の月が美しく輝きながら浮かんでいる。
「うわぁ、なんてキレイなお月様。駅で見た月と同じだなんて思えないな」
紗月は思わず夜空の月に向かい両手を差し伸べていた。
「すごいな、月に手が届きそう」
そのとき、暗闇の中からくすくすとした笑い声が聞こえた。
驚いた紗月が月明かりを頼りに暗い園内に目を凝らすと、笑い声の聞こえた先に天体望遠鏡らしきものと人の姿がぼんやりと見てとれた。
― 誰? 男の人、それとも女性? まさか幽霊とか。
得体の知れない恐怖心が胸の中をよぎった。そんな心を見透かしたように声の主が紗月に聞こえるよう大きな声で言った。
「大丈夫です。怪しい人間じゃありません。ここで天体観測をしていただけです。あなたが素敵なことを言ったので、微笑ましいなとつい笑ってしまいました。失礼しました」
男性の声だった。言葉遣いからして良識のある、まともそうな人のようだ。
それに天体観測をしているのならここにいても不思議ではない。紗月はほんの少し安堵の溜息を吐いた。
「よければこちらにいらっしゃいませんか。あなたがキレイだと言った月を見ていたところです」
どうしよう、と紗月は躊躇った。
周りに誰一人としていないこんな深夜に、見ず知らずの男性の側に行くのは気が引けた。何人かのグループで観測をしているのなら兎も角、相手も自分も一人。何かあってからでは遅いし、助けなんて来る筈もない。
紗月が何も応えず、どうしていいのか分からずに狼狽えていると、男性がすっくと立ち上がった。紗月はびくりと身体を震わせ、思わず後ずさりしていた。
「あ、すみません。驚かせたみたいだ。僕は小幡 朋也と言います。二十歳の大学生です」
小幡と名乗ったその男はゆっくりとした足取りで紗月に向かって歩き出した。
― 年下の男なら大丈夫だ。もし何かしてきたら、ビンタのひとつでも食らわせてやればいい。
ううん、グーの左右連打で殴っても正当防衛だ。
そう考えた紗月はいつでもその男を殴れるように両拳をぎゅっと握り締めた。
ゆっくりと近づいてきた男の姿が月明かりに照らされ、紗月の少し前で立ち止まる。
紗月の瞳に映った小幡という名の男は背が高く、華奢な印象を与える少年のような顔立ちをしていた。彼もまた紗月をじっと見つめていた。
「あっれ、もしかして年上のお姉さんなの」
明らかにがっかりとした表情が小幡の顔に浮かんだ。
「は……い?」
思い掛けない言葉に紗月が呆然としていると、彼は小さく溜息を吐いて口早に言った。
「可愛い声だったから高校生くらいかと思ったんだけどな。ま、いいや。お姉さん幾つ?」
呆気にとられていた紗月は思わず「二十二歳……」と、答えていた。
「何だ、二歳しか離れていないんだ。お姉さんけっこうな美人だし、どうです? 一緒にお月様見ましょうよ」
先程とは打って変わり、軽い口調とノリで話し掛けてくる小幡を正気に戻った紗月はまじまじと見つめた。
あどけなさの残る笑顔は少年のようだが、彫りが深く、目鼻立ちもすっきり整っていてなかなかのいい男だ。
しかし、紗月はあることに気が付いていた。
「あなた、小幡くんって言ったかしら」
紗月はわざと腕組みをし、彼になめられないような口調で尋ねた。
「はい。小幡 朋也です」と、彼は笑顔のままそれに応えた。
「じゃあ、朋也くん。言わせてもらうけど、あなた、顔は笑っているけど目が笑っていないわ。何か下心でもあるのかな。それとも、いつもそんなふうに本心を隠したような笑いかたをするのかしら」
紗月の言葉に朋也の顔からふっと笑顔が消え去り、目だけが宙を彷徨った。
何処か遠くを見ているようなその表情からは何か淋しげな、愁いを感じさせるものがある。
ちょっとキツイ言い方だったかな、と紗月は思ったのだが、朋也はすぐに何事もなかったかのようにあっさりと言い返してきた。
「下心なんてこれっぽっちも無いですよ。でも、お姉さんは鋭い観察力をしていますね。ちょっと驚きました」
朋也は紗月を見つめながら言葉を続けた。
「僕も気が付いたけど、お姉さんはロマンチックなことを言う割に、わざと蓮っ葉な態度をとるんですね。意識してそうしているように思いましたよ。天邪鬼なのかなぁ」
紗月は内心ドキリとした。心の内側を見透かされたような気がして思わずムキになり、年下の男にバカにされたくないという虚栄心も働いた。
「どうせ私は天邪鬼よ。強がって見せているだけ。それを年下の、見ず知らずのあなたにとやかく言われる筋合いはないわ。それに私は藍田 紗月って名前があるの。そのお姉さんって呼び方、やめてくれない? 何だかバカにされている気がするわ」
息せき切って本音を口走った紗月に、朋也は意外にもニコリと微笑んだ。今度は目も笑っている。
何となく気を許したような屈託のない笑顔だった。その笑顔を見た紗月は肩透かしを食らったかのように気が抜けた。
遮るものは何も無く、園内は敷き詰められた芝生に数本の樹木と木製のベンチが幾つかあるだけだった。紗月は小走りに柵へと近寄り街を見下ろした。眼下に幾つもの灯りがちらちらと瞬いている。
しかし期待していた夜の海は見えなかった。遠くに水平線らしきものがおぼろげに見えるだけで街の何処からが海なのか分からない。
「なんだ……。海、見えないや」
少しだけ息を弾ませながら呟いた紗月は夜空を見上げた。夜空には上弦の月が美しく輝きながら浮かんでいる。
「うわぁ、なんてキレイなお月様。駅で見た月と同じだなんて思えないな」
紗月は思わず夜空の月に向かい両手を差し伸べていた。
「すごいな、月に手が届きそう」
そのとき、暗闇の中からくすくすとした笑い声が聞こえた。
驚いた紗月が月明かりを頼りに暗い園内に目を凝らすと、笑い声の聞こえた先に天体望遠鏡らしきものと人の姿がぼんやりと見てとれた。
― 誰? 男の人、それとも女性? まさか幽霊とか。
得体の知れない恐怖心が胸の中をよぎった。そんな心を見透かしたように声の主が紗月に聞こえるよう大きな声で言った。
「大丈夫です。怪しい人間じゃありません。ここで天体観測をしていただけです。あなたが素敵なことを言ったので、微笑ましいなとつい笑ってしまいました。失礼しました」
男性の声だった。言葉遣いからして良識のある、まともそうな人のようだ。
それに天体観測をしているのならここにいても不思議ではない。紗月はほんの少し安堵の溜息を吐いた。
「よければこちらにいらっしゃいませんか。あなたがキレイだと言った月を見ていたところです」
どうしよう、と紗月は躊躇った。
周りに誰一人としていないこんな深夜に、見ず知らずの男性の側に行くのは気が引けた。何人かのグループで観測をしているのなら兎も角、相手も自分も一人。何かあってからでは遅いし、助けなんて来る筈もない。
紗月が何も応えず、どうしていいのか分からずに狼狽えていると、男性がすっくと立ち上がった。紗月はびくりと身体を震わせ、思わず後ずさりしていた。
「あ、すみません。驚かせたみたいだ。僕は小幡 朋也と言います。二十歳の大学生です」
小幡と名乗ったその男はゆっくりとした足取りで紗月に向かって歩き出した。
― 年下の男なら大丈夫だ。もし何かしてきたら、ビンタのひとつでも食らわせてやればいい。
ううん、グーの左右連打で殴っても正当防衛だ。
そう考えた紗月はいつでもその男を殴れるように両拳をぎゅっと握り締めた。
ゆっくりと近づいてきた男の姿が月明かりに照らされ、紗月の少し前で立ち止まる。
紗月の瞳に映った小幡という名の男は背が高く、華奢な印象を与える少年のような顔立ちをしていた。彼もまた紗月をじっと見つめていた。
「あっれ、もしかして年上のお姉さんなの」
明らかにがっかりとした表情が小幡の顔に浮かんだ。
「は……い?」
思い掛けない言葉に紗月が呆然としていると、彼は小さく溜息を吐いて口早に言った。
「可愛い声だったから高校生くらいかと思ったんだけどな。ま、いいや。お姉さん幾つ?」
呆気にとられていた紗月は思わず「二十二歳……」と、答えていた。
「何だ、二歳しか離れていないんだ。お姉さんけっこうな美人だし、どうです? 一緒にお月様見ましょうよ」
先程とは打って変わり、軽い口調とノリで話し掛けてくる小幡を正気に戻った紗月はまじまじと見つめた。
あどけなさの残る笑顔は少年のようだが、彫りが深く、目鼻立ちもすっきり整っていてなかなかのいい男だ。
しかし、紗月はあることに気が付いていた。
「あなた、小幡くんって言ったかしら」
紗月はわざと腕組みをし、彼になめられないような口調で尋ねた。
「はい。小幡 朋也です」と、彼は笑顔のままそれに応えた。
「じゃあ、朋也くん。言わせてもらうけど、あなた、顔は笑っているけど目が笑っていないわ。何か下心でもあるのかな。それとも、いつもそんなふうに本心を隠したような笑いかたをするのかしら」
紗月の言葉に朋也の顔からふっと笑顔が消え去り、目だけが宙を彷徨った。
何処か遠くを見ているようなその表情からは何か淋しげな、愁いを感じさせるものがある。
ちょっとキツイ言い方だったかな、と紗月は思ったのだが、朋也はすぐに何事もなかったかのようにあっさりと言い返してきた。
「下心なんてこれっぽっちも無いですよ。でも、お姉さんは鋭い観察力をしていますね。ちょっと驚きました」
朋也は紗月を見つめながら言葉を続けた。
「僕も気が付いたけど、お姉さんはロマンチックなことを言う割に、わざと蓮っ葉な態度をとるんですね。意識してそうしているように思いましたよ。天邪鬼なのかなぁ」
紗月は内心ドキリとした。心の内側を見透かされたような気がして思わずムキになり、年下の男にバカにされたくないという虚栄心も働いた。
「どうせ私は天邪鬼よ。強がって見せているだけ。それを年下の、見ず知らずのあなたにとやかく言われる筋合いはないわ。それに私は藍田 紗月って名前があるの。そのお姉さんって呼び方、やめてくれない? 何だかバカにされている気がするわ」
息せき切って本音を口走った紗月に、朋也は意外にもニコリと微笑んだ。今度は目も笑っている。
何となく気を許したような屈託のない笑顔だった。その笑顔を見た紗月は肩透かしを食らったかのように気が抜けた。