私の帰る場所

Vol.1

 プロローグ


「さぁ、今日からここがキミの家だよ」

 胸に抱きかかえている、不安げな彼女を安心させるように少年は優しく耳元で囁いた。

 そっとドアが開くと、目の前には明るく居心地の良さそうな広いリビングがあった。
 ふかふかのクッションにお陽さまの匂いが仄かに香るラグマット。

 彼女はその匂いに誘われるように彼の腕をすり抜け、部屋の中央へと歩を進めた。
 柔らかそうなソファを選んだ彼女はそこにゆっくりと寝そべった。クリーム色のソファは預けた体が適度に沈んでとても心地良い。

 リビングの隅では暖炉が灯りぽかぽかと暖かく、冷たい雨が降りしきる寒い外とは別世界のようだった。
 少しだけ安心した彼女は思わず大きな欠伸をして見せた。それを見た少年は目尻を下げて微笑むと、キッチンから常温のミルクを持ってきた。
 目の前にそれがコトリと置かれると、小さな手がそっと彼女の頭を撫でた。

「さぁ、遠慮しないで飲んで。とっても美味しいから」

 少年の優しげな瞳に見つめられながら、彼女はおずおずとそれを一口飲んだ。

 とても美味しい。生まれて初めて飲んだミルクと同じ味がした。
 彼女は何だか嬉しくなり、少年に小さく微笑んだ。彼は柔らかな笑みを返すと、又、彼女の頭や頬を愛しそうに撫でながら言った。


「今日からここがキミの家。キミの居る場所なんだ。いいかい? キミの帰って来る場所はここだからね」


 少年の言葉に彼女は戸惑いながらも小さく頷いていた。



― ここは私の家。ここが私の帰る場所。 





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 陽が沈み、辺りは既に暗くなっていた。

 どうしていいのか分からず、バス停のベンチに座り途方に暮れていると頬に何かが落ちてきた。空を見上げると、どんよりとした鈍色(にびいろ)の雲から雨の雫が斜めに降り始めてきていた。まるで糸を引くように。

― 時雨だといいけど。

 その思いも虚しく、雨は次第に激しさを増して本降りになっていく。

 この雨の中、右も左も分からない場所をさ迷い歩くのは危険だと思った私は、ずぶ濡れになりながらもベンチに座ったままでいた。

 やがて辺りは暗闇に包まれ、時折行き交う車のヘッドライトだけが雨の糸を微かに照らしていた。
 どのくらいの時間が経った頃だろうか。バス停のベンチの前に一台の車が静かに停まった。

 その車の助手席の窓がゆっくりと降りると、窓越しに誰かが話し掛けてきた。
 だが、その声はアスファルトを叩く雨音に掻き消され、何を言っているのか殆ど聞こえてこない。

 どうでもいいやと思っていた私は何も応えずに只、俯いたままでいた。
 すると、肩を叩き続けていた雨がいきなり止んだかのように思え、ゆっくり顔を上げると目の前に初老に近い男性が傘を差して立っていた。

「ずぶ濡れじゃないか。風邪を引いてしまうよ」

 男性は私の顔を見て優しげな笑みを見せた。

「何処まで行くのかな? 近くまでなら乗せて行きますよ」

 その男性は顎に髭を蓄え、人の良さそうな顔をしていた。
 穏やかな笑顔は誰かを彷彿とさせる。でも、私にはそれが誰なのかを思い出すことは出来なかった。只、その優しげな瞳の奥にある暖かな光を感じることが出来た私は、無意識のうちに口を開いていた。

「分からないの。ここが何処かも、何処に行きたいのかも。自分が誰なのかも」

 雨音に掻き消されてしまいそうなか細い声が喉から出てきた。自分の声を聞いたのは初めてだったような気もする。それは少し高めのアルトだった。

 男性はぴくりと眉を寄せると、私に暖かな言葉を掛けてくれた。

「そうか。一人で心細かっただろうに」

 男性はゆっくりと私の前にしゃがみ込むと、そっと濡れた髪をかき上げてくれた。

「私はこの街で獣医をしている河埜 大地という者です。何の心配もいらないから、今夜は私の家に泊まっていきなさい」

 優しい言葉が胸に染みた。

 でも、いきなりそんなことを言われても素直について行くことは出来ない。
 だって私はどう見ても二十歳そこそこの女性なのだ。万が一、何かあったら困るのは自分だからだ。

  私は上目遣いにもう一度、河埜と名乗る男性の顔をちらりと見遣った。
 穏やかでいて優しそうな顔と涼しげな瞳。ほんとうに誰かに似ている。

 男性は自分を観察しているような私の視線に気付くと、にこりと微笑んでくれた。その笑顔を見ると郷愁にも似た何かが胸の中に甦ってきそうだった。

  ここまでを見る限り、紳士然とした立居振舞いは信用しても良さそうな感じがした。

「大丈夫ですよ。不安な気持ちはよく分かるが、私を信じてもらいたい」

  心の中を読みとったのか、男性は私の手を優しく掴み、ゆっくり立ち上がった。
 冷えきっていた手に暖かさが伝わってくる。と、同時に安らぎのようなものも感じとることが出来た。

  そのとき、私の頭の中にこれと似た光景がフラッシュバックのように甦った。それは掴まれた手をそっと握り返している記憶の断片だった。

― この人について行こう。何かが分かるかも知れない。何かを思い出せるかも知れない。


 記憶がない私は藁にも縋る思いで心を決めて頷き、そっとベンチから立ち上がった。男性は安堵したように小さく頷くと、英国紳士のように私の手を取ったまま助手席のドアを開き、車に乗せてくれた。
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