私の帰る場所

Vol.3

「どうしたの? 具合でも悪いのかな」

 その声で我に返り、彼をそっと見上げた。先ほどの素っ気無い態度とは違う、優しげな笑みを浮かべた彼が心配そうに私を見つめていた。

「あの……、ごめんなさい。ご迷惑ですよね」

 遠慮がちにそう呟いた。
 ところが彼は軽く首を横に振り、框へと先に上がる。

「いや、ちっとも。我が家はこのテのことはしょっちゅうなんだ。さぁ、どうぞ上がって下さい」

 その穏やかで暖かな微笑みに、ほっと胸を撫で下ろした私はずぶ濡れの靴を脱ぎ、彼の後を追いかけるようにして家の中へと入った。廊下に濡れた足跡をつけながら。



 バスルームに着くと、彼はふかふかの白いバスタオルを私に手渡してくれた。

「後で代替になるような着替えを持ってきます。安心してゆっくり浸かって下さい」
「あの……、遙さん。あ、ありがとう」

 明るいダウンライトの下で、その言葉に小さな笑みを浮かべて頷く彼は私より五、六歳年上の感じがした。
 何の気後れもなく私の目を真っ直ぐに見てくれていた。

 ドアが静かに閉まったあと、びしょびしょの服を脱いだ私は暖かそうな湯が張ってある広い浴室のドアをそっと開いた。

 勢い良く出るシャワーの湯を浴びると生き返ったような気分になった。冷たかった身体に温かさが戻り、思わず大きな吐息が出る。
 背中まである長い髪をひとつに束ね、シャンプーを使い洗い流す。
 柔らかな香りを胸いっぱいに吸い込むと、心の中がゆっくり和んでいくのが分かった。

 少しだけゆとりが出て来た私は、曇っていた鏡を手で擦り自分の顔をそっと映してみた。

「これが、私……」

 そこに映っていたのは艶のある美しい黒髪をした綺麗な大人の女性だった。
 小さな顔に鳶色の大きな瞳。鼻筋も高く、形の良い唇はさくらんぼ色をしている。

「綺麗」

 私は鏡の中にいる自分の頬を指でなぞっていた。

 そのときドアの向こうからノックの音がして、「失礼。着替えを置いていきます」と、遙さんのくぐもった声が聞こえた。

 タオルを使い身体の線を見られないように隠し、すみませんと、返事をした。
 間を置いてドアが開き、曇りガラスの向こうに彼の姿が映ったのだが、その姿は洗面台の上に着替えを置くとすぐに見えなくなった。
 私はどきどきしながら火照りはじめていた身体をゆっくりと湯船に浸した。


 洗面台の上に置かれていたぶかぶかのスウェットは陽だまりの匂いがした。
 濡れたままの髪にバスタオルを巻いて廊下に出た私は、蛍光灯の灯りが洩れているリビングだと思われるそのドアを軽くノックして、ゆっくりと顔を覗かせた。

「暖まったかな?」

 リビングに現れた私に気が付いた大地さんが声を掛けてくれた。彼は濡れていた服を着替え、頭からタオルを被っていた。何処の誰だか分からない自分に気を遣ってくれる彼の優しさに感謝した私は、深々と頭を下げた。

「先にお風呂をいただいてすみませんでした。ありがとうございます」

 大地さんはうんうんと頷いた。彼は一人掛けのソファから立ち上がると、私の感謝の気持ちを理解してくれたのか、満足気な笑みを浮かべた。

「それじゃあ私もシャワーを浴びてくるとしよう。お嬢さん、遙がコーヒーを煎れている。腰掛けてくつろいでいて下さい」

 彼は私の肩をポンと叩くとバスルームへと向かっていく。その後姿をリビングの入口で見ていた私に声が掛けられた。

「さぁ、ソファにでも腰掛けて。今、コーヒーをお出しします。嫌いでなければいいけど」

 振り返ると、キッチンカウンターの向こうでマグカップにコーヒーを注ごうとしている遙さんの姿が見えた。

「私は大丈夫です。いただきます」と、応え、ドアを静かに閉めてリビングの中に入った。

 よく見ると、先程までは気付かなかったのだが、リビングにはたくさんの犬と猫が床やソファ、テーブルの陰から私をじっと見つめていた。
 数え切れないくらいの目が私を窺っている。
 でもそれは敵意や警戒を感じさせるものではなく、どちらかというと新しい仲間を品定めするような目だと感じられた。

「犬と猫がいっぱい……」

 リビングを見渡し、簡単に数えただけでも犬が七、八匹に猫が七匹ほどいた。
 私は犬が二匹寝そべっている大きなソファにゆっくりと近づき、空いているスペースにそっと腰を下ろした。犬たちは首だけを動かしながら私の顔を見つめている。

「動物は嫌いかな?」

 遙さんがマグカップをテーブルに置きながら尋ねてきた。
 私は首を小さく横に振り「好き」と、その質問に答えた。

 するとその言葉の意味が分かったのか、一匹の犬が私の傍にやって来てフンフンと匂いを嗅ぎはじめた。
 ゆっくり手を差し出すと、犬はその手のひらをペロリと舐めてくれた。そのまま犬の顎に手をやり、喉元を掻いてあげると犬は気持ち良さそうに目を細めた。

 その遣り取りを見て安心したのか、いきなり小さな仔猫が膝の上に飛び乗ってきて、何の躊躇いもなく丸くなった。私は仔猫の余りの可愛らしさにもう片方の手で頭を撫でる。
 他の犬や猫たちも気を許してくれたのか、数匹がゆっくりと私の傍に寄ってきた。

「こら、ペルセウス。彼女の膝から降りなさい。シリウスもいつまで甘えているんだ」

 遙さんが穏やかな表情のまま、膝の上の仔猫と犬の名前を呼んで優しくたしなめる。
 それに抗うようにペルセウスという名の仔猫が欠伸をして「ミャア」と鳴いた。

「この子たち、星座や星の名前が付いているんですね」

 私は初めて微笑んでいた。
 何故だろうか。犬や猫たちの存在と、無垢な優しい瞳に見つめられていると心がとても安らいでいく。
 テーブル越しのソファに座ろうとしていた遙さんが「へぇ」と呟き、嬉しそうに相好を崩した。

「へぇ……、キミは星のことに詳しいのかい? キミの言ったとおり、犬には一等星の名前。猫には星座の名前を付けているんだよ。僕が星好きでね。でも、すぐに分かってくれた人は今までで数えられるくらいだよ」
「詳しいわけではないです。誰かに教えてもらったことがあるからだと思います。そう、純粋な気持ちで星に願えば、それが叶うってコトも」


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