トップアイドルは白衣の天使に恋をする-second-
朝カンファレンスが終わって、しばらくした頃だった。

ICUは比較的落ち着いていた。

救急搬送もひと段落していて。

スタッフたちも、それぞれ記録や処置へ戻っている。

でもどこか空気が張っていた。

理由は、みんな分かってる。

今日橘さんが、事故以来初めてヘリへ乗るから。

私はナースステーションで記録を確認しながら、ちらりと橘さんを見る。

橘さんは物品チェックをしていた。

手順は完璧。

動きも問題ない。

でも指先だけ、少し震えていた。

その時。

——ピリリリッ。

ICUに、PHSのコール音が響く。

空気が変わる。

『ドクターヘリ要請』

アナウンス。

一瞬でICUの空気が張り詰めた。

『高速道路上、多重事故』

『乗用車横転、重症外傷疑い』

『現場医師要請あり』

その瞬間。

西国先生が立ち上がる。

「行くぞ」

短い声。

私は反射的に動いた。

身体が、自然に反応する。

事故前と同じように。

フライトバッグを持つ。

隣では森崎さんも出動準備。

そして。

橘さん。

橘さんは、一歩だけ遅れて立ち上がる。

顔色は悪い。

呼吸も浅い。

でも逃げなかった。

私はそんな橘さんの横へ立つ。

「橘さん」

呼ぶと、ゆっくりこちらを見る。

私は小さく笑った。

「一緒に行こう」

その瞬間。

橘さんの目が少し揺れる。

数秒。

それから。

小さく頷いた。

「……はい」

掠れながらも、ちゃんと前を向いた声だった。

ヘリポートへ向かうエレベーター。

狭い箱の中。

誰も無駄なことは喋らない。

上昇する感覚。

心拍だけがやけに大きく聞こえる。

ふと隣を見る。

橘さんは、ぎゅっと拳を握っていた。

私はそっと、自分の手を重ねる。

橘さんがびくっと肩を揺らす。

「大丈夫」

小さく言う。

「怖くてもいいから」

「今日は、“乗る”だけでも前進だから」

橘さんの目が、少し潤んだ。

でも今度はちゃんと、頷いた。

エレベーターが開く。

風が吹き込む。

屋上。

ヘリローターの音。

強い風圧。

——事故の日と同じ景色。

橘さんの呼吸が、一瞬止まりそうになるのが分かった。

でもその時。

「橘」

西国先生が振り返る。

「来い」

たった一言。

でも。その声は、不思議なくらい落ち着いていた。

森崎さんも、ヘッドセットをつけながら笑う。

「大丈夫や」

「今日は俺もおる」

私は橘さんを見る。

橘さんは、唇を噛んで。

それから。

震える脚で、一歩前へ出た。

ローター音が響く。

風が吹く。

でも。

今度は。

ちゃんと、自分の意思でヘリへ向かっていた。
< 209 / 242 >

この作品をシェア

pagetop