天平恋詠~極道のお嬢が奈良時代に転生~病弱皇子を守って、この国、あたしが変えてみせます!

第3話 宮子さまの館



 チュンチュン地獄から、連れてこられた先。

 そこは、別世界だった。

 館の中は、ひんやりと静まり返っている。

 薄暗い廊下。

 白い柱。

 どこからか、ふわりと白檀の香り。

 壁のすき間から入る光が、金の砂みたいに揺れていた。

(……え、急にしっとり系?)

 さっきまで、犬。

 マウント女。

 毒疑惑。

 左遷。

 情報量、多すぎ。

 なのに、この館だけ時間が止まっているみたいだった。




「皇子のお母様、宮子さまは……お気の毒なお方です」

 となりを歩く女の子が、小さな声で言った。

 たしか、この子。

 ずっとあたしのそばにいる。

 白い衣。

 少し心配そうな顔。

 名前、まだ聞いてない。

「お気の毒って?」

 あたしがたずねると、女の子は声をひそめた。

「宮子さまは、天子様の夫人でございました。けれど、天子様には、深く愛された別のお方がいらしたのです」

「……別の女」

 思わず、口から出た。

 女の子が、びくっとする。

 あ、まずい。

 言い方が前世。

「えっと……別のお方ね」

「はい。紀《きぃ》さまという、とてもお美しい方だったそうです。ですが、その方は亡くなられてしまいました」

 廊下の奥で、琴の音がした。

 ぽろん。

 ぽろん。

 細い音が、冷たい空気に溶けていく。

「天子様は、宮子さまに、その紀さまによく似た女の子を生んでほしいと望まれました」

「……それで?」

 なんとなく、先が読めた。

 読めたけど。

 聞きたくなかった。

「お生まれになったのは、男の御子でした」

「男の子……」

「はい。その御子が、今の首《おびと》皇子様です」

 え。

 あの病弱イケメン皇子。

 あの人が。

「男の子が生まれるなんて、本来なら大変おめでたいことです。けれど、天子様はお喜びになりませんでした。お見舞いにも来られず、御子にも会われなかったそうです」

 胸の奥が、きゅっとした。

 それは、きつい。

 きつすぎる。

「宮子さまは、夫に喜んでもらえなかった悲しみで心を病まれました。それからずっと、この館におこもりになって、ほとんどお話もなさらないのです」

 あたしは、足を止めた。

 白檀の香り。

 琴の音。

 冷たい空気。

 ぜんぶが、急に重くなる。

(首皇子って……お母さんにも会えないまま育ったの?)

 昨日、あの人は優しく笑った。

 でも今日は、県犬養夫人の味方みたいな顔をした。

 わけ分かんないって思った。

 でも。

 あの人も、きっと何かを抱えている。

「……その人の話し相手、あたしでいいの?」

 女の子は、やさしく笑った。

「姫さまなら、大丈夫です」

「なんで?」

「宮子さまは、お優しい方です。お言葉を返されなくても、きっと聞いてくださいます」

 いや。

 そういう問題?

 あたし、中身は前世で極道一家の娘なんだけど。

 お上品なお話し相手とか、できる?

(落ち着け、あたし)

(言葉で人を斬れって育てられたけど)

(今日は斬っちゃダメな日!)

 そう心の中で気合いを入れて、あたしは部屋に入った。

 ◆◆◆

 部屋の中は、外よりもっと静かだった。

 まぶしい光は消えて、空気がひんやりしている。

 薄い布の帳。

 香炉の煙。

 そして、その向こう。

 一人の女人が、寝台に横たわっていた。

 長い髪は、白に近い銀色。

 頬も、透き通るほど白い。

 まるで、雪でできた人みたいだった。

 その唇が、かすかに動く。

「……あなたは……どなた?」

 声が、小さい。

 消えそう。

 あたしは、そっと膝をついた。

「あたし、光明子《こうみょうし》と申します。お話し相手に、と言われまして」

 宮子さまは、ゆっくりとこちらを見た。

 細い指が、少しだけ持ち上がる。

「こう……みょう……?」

「はい」

「まあ……こんなに……大きく……」

 え。

 知ってる感じ?

 いや、そりゃそうか。

 あたし本人は記憶ないけど、この世界の光明子は、たぶん宮子さまに会ったことがある。

 たぶん。

 たぶんね。

 あたしは、何を言えばいいか分からなくなった。

 いつもなら、口は勝手に動く。

 前世では、親分たちの前でも、若い衆の前でも、言葉で場をまとめてきた。

 でも。

 この人の前では、変なことを言えなかった。

 言葉を間違えたら、割れてしまいそうだった。

 ガラスみたいに。

 あたしは、ただ黙ってそばに座った。

 外では、竹が風に揺れている。

 サラサラ。

 サラサラ。

(この人が、首皇子のお母様)

(愛されなくて)

(子どもにも会えなくて)

(この部屋で、ずっとひとり)

 胸が、ちくっと痛んだ。

 スパダリに溺愛されたいとか。

 マウント女に勝ちたいとか。

 皇子、顔がいいとか。

 そういうのも、まあ大事。

 大事だけど。

 今は、この人が寂しすぎる。

「……宮子さま」

 小さく呼ぶと、宮子さまのまつげが、わずかに震えた。

「また、お話しに来てもいいですか?」

 宮子さまは、答えなかった。

 でも。

 ほんの少しだけ、目元がやわらいだ気がした。

 ◆◆◆

 夕方。

 館の空気が、少しだけ明るくなった。

 料理人が張り切って、白い粥を作ってくれたのだ。

 白い粥。

 湯気。

 蓮の花びら。

 香ばしい匂い。

(……朝の犬用粥とは、えらい違い)

 うん。

 あれは忘れよう。

 いや、忘れられないけど。

「宮子さま、お召し上がりくださいませ」

 侍女がそっと声をかける。

 すると、宮子さまがゆっくり言った。

「ありがとう。でも……光明子さんと、一緒にいただくわ」

 その瞬間。

 部屋の空気が、ぱっと変わった。

 侍女たちが顔を見合わせる。

 目に、光が戻っている。

(え。そんなにすごいことなの?)

 広間に料理が並べられた。

 あたしは、宮子さまと向かい合って座る。

 宮子さまは、ほんの少ししか食べなかった。

 でも、あたしが粥を食べるのを、うれしそうに見ている。

「おいしいです」

 そう言うと、宮子さまの唇が、ほんの少しだけ笑った。

 やばい。

 かわいい。

 守りたい。

 この人、絶対守りたい。

「姫さま、もし宮子さまが、お元気になられたなら……」

 そばの女の子が、涙ぐみながら言った。

「うん」

「あの県犬養さまも、何も言えなくなるかもしれません」

「ええ。その時は、あのケバい女も黙るでしょうね」

「け、けば……」

 女の子が、ぷっと吹き出した。

 あ。

 笑った。

 かわいい。

 やっぱり、この館、悪くない。

 ◆◆◆

 けど。

 そろそろ限界だった。

 何も分からなすぎる。

 自分のこと。

 皇子のこと。

 この館のこと。

 あのマウント女のこと。

 そして。

 あたしの命を狙ってるかもしれない誰かのこと。

 知らないままじゃ、戦えない。

 あたしは、いつもそばにいる女の子に向き直った。

「あのさ」

「はい、姫さま」

「あたし、頭をぶつけたみたいで、いろいろ思い出せないの。あなたは誰?」

 女の子は、やっぱり、という顔をした。

「そうではないかと思っておりました。姫さま、少しご様子が変でしたもの」

 ばれてた。

 めっちゃばれてた。

「私は、雑仕女《ぞうしめ》のサチと申します」

「サチ」

「はい」

「ここは?」

「藤原不比等《ふじわらのふひと》さまのお屋敷です」

 藤原不比等。

 出た。

 歴史の教科書で見た名前。

 たぶん、めちゃくちゃ偉い人。

「じゃあ、あのイケメン皇子は?」

「首皇子《おびとおうじ》様です。姫さまは、幼い頃から、この不比等邸で首皇子様と一緒にお育ちになりました」

「幼なじみ……」

 あの顔面国宝皇子と。

 幼なじみ。

 しかも、結婚予定。

(なにそれ、設定だけなら最高じゃん)

 ただし。

 病弱。

 心が読めない。

 マウント女つき。

 難易度、高すぎ。

「で、あの派手で偉そうな女は?」

「県犬養《あがたいぬかい》夫人でございます」

「夫人……」

「はい。首皇子様の妻のおひとりです」

 妻のひとり。

 ひとり。

 ひとり!?

(奈良時代、そういう感じ!?)

 いや、知ってた。

 歴史的には知ってた。

 でも、実際にやられると、心が追いつかない。

 サチは、そっと声をひそめた。

「県犬養さまは、ご気性が少し激しくて……」

「少し?」

「……かなり」

「だよね」

 あたしたちは、顔を見合わせた。

 そして、少し笑った。

 ◆◆◆

 その夜。

 あたしは、宮子さまの館に寝台を運んでもらった。

 宮子さまに仕える雑仕女は、アコという。

 この館にいるのは、宮子さま。

 サチ。

 アコ。

 料理人。

 それから、あたし。

 少人数。

 だけど、悪くない。

 むしろ、変な人が少なくて安心。

 あたしは、天井を見上げながら、サチとアコから話を聞いた。

「姫さまは、藤原の姫君でございます」

「ふむ」

「書も詩も、とてもお上手です」

「へえ」

「首皇子様とは、幼い頃から仲がよく……」

「そこ詳しく」

 サチとアコが、同時に頬を赤くした。

 え。

 なにその反応。

「幼い頃の首皇子様は、姫さまの後ろをよくついて歩いておられました」

「……え」

「姫さまが転べば、真っ先に駆け寄って」

「え」

「姫さまが笑えば、皇子様も笑って」

「え、待って。かわいい」

 なにそれ。

 昨日の優しい顔。

 今日の冷たい態度。

 どっちが本当なの?

「でも、今日は県犬養夫人の味方みたいだった」

 ぽつりと言うと、サチとアコは顔を見合わせた。

「それは……仕方のないことでございます」

「どうして?」

「県犬養さまを怒らせると、しばらく機嫌が直りません」

「子どもか」

「それに、県犬養さまの一族もおります。皇子様は、波風を立てぬようになさったのかと」

 なるほど。

 つまり。

 あの人は、弱いわけじゃない。

 守るものが多いのだ。

 ……たぶん。

「それから、姫さま」

 アコが、声をひそめた。

「首皇子様が、いずれ天皇になられた後のことですが」

「うん」

「姫さまが県犬養さまを追い越して、皇后になられたなら……宮子さまは、どれほどお喜びになるでしょう」

 皇后。

 その言葉に、胸がどきんとした。

 けれど、サチがすぐに首を振る。

「でも、そのようなこと、できるはずがございません」

「どうして?」

「皇后になれるのは、皇族のお方だけだからです。光明子さまは、藤原の姫君。貴族ではありますが、皇族ではございません」

「……そういう決まりなのね」

 あたしは、布団の中で目を細めた。

 皇后になれない。

 皇族じゃないから。

 決まりだから。

 ふうん。

(決まり、ね)

 前世で、あたしは知っている。

 世の中には、決まりを守らされる人と。

 決まりを作る人がいる。

 なら。

 上に行けばいい。

 決まりを変えられるところまで。

 あたしは、ぎゅっと布団を握った。

 宮子さまが笑うなら。

 サチとアコが安心するなら。

 首皇子が、本当はひとりで苦しんでいるなら。

(あたしが、この国の一番上まで行ってやる)

 ……なんて。

 ちょっと思った、その時だった。

 ふと、朝のことを思い出した。

 白い粥。

 銀の皿。

 黒い犬。

 県犬養夫人の笑い声。

 そして。

 毒を盛った、という言葉。

(……ん?)

(待って)

(あの粥に、本当に毒が入ってたとしたら)

(犬が寝たのって、あたしのチートじゃなくて)

(毒のせい、だったりする?)

 背中が、ぞくっと冷えた。

 え。

 えええ。

 つまり。

(あたし、暗殺されかけてたってこと!?)

 恋とか。

 皇后とか。

 顔面国宝皇子とか。

 言ってる場合じゃない。

 ここ。

 普通に命を狙われる世界じゃん。

 あたしは、がばっと起き上がった。

「宮子さま」

 薄い帳の向こうで、宮子さまがこちらを見る。

 白い顔。

 やさしい目。

「これから、食事はずっとここでいただいてもよろしいでしょうか」

 サチとアコが、きょとんとする。

 あたしは、真顔で続けた。

「安全第一で暮らしていきたいのです」

 宮子さまは、ゆっくり瞬きをした。

 そして。

 小さく、うなずいた。

 その仕草が、なぜだか少し可愛かった。

 ――あたし、宮子さまとは、とびきり仲良くやっていけそうです。

 でも。

 この館の外には、たぶん。

 あたしを消したい誰かがいる。

 転生三日目。

 目標、決定。

 まずは、生き残る。

 そしていつか。

 この国の決まりごとごと、ぜんぶひっくり返してやる。

---

◆◆黒猫情報ノート◆◆

 黒猫クロエが、大事な情報をお伝えするニャン。

 黒い犬を連れていた女人は、県犬養広刀自《あがたいぬかいのひろとじ》さまです。

 ちょっとマウントを取るのが好きな、強めの夫人ですニャ。

 ちなみに、天皇の妻たちの位は、おおまかに言うと、

 皇后
 妃
 夫人

 の順に高いとされます。

 光明子さまは藤原氏の姫ですが、皇族ではありません。

 つまり、本来なら皇后になるのは、とっても難しい立場なのです。

 でも――。

 決まりを変えるヒロインほど、物語はおもしろいニャーーン。
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