悪魔の娘が帰還するまでーささやかな復讐と聖女の称号を添えてー

第三十七章:失敗

 その夜、オリヴィアは裏稼業の者たちによってエルフォード家に運ばれた。

 回復のために使われた薬は強く、意識はあるが身体は思うように力が入らなかった。手指や腕を動かすだけで重く、熱による息切れが更に悪化した。

 円形の儀式場。床には動物の血で陣が刻まれ、壁には古い呪文の痕の上から新しい呪文が重ねられている。
(さすがに使い回しは出来ないのね、……あら、案外私緊張してないのかしら…。良かったわ)

 香炉に焚かれた薬草、燭台の特殊な蝋燭、魔法陣を囲むように撒き散らされた動物の死骸。

  鎖が二組、対角線上に吊られた。ひとつは力の抜けた身体――オリヴィア。もうひとつは蒼白にこわばるアイラ。

 アイラはブルブルと震え、涙がボロボロと溢れている。目が見開かれ、落ち着きなく辺りを見ていた。息は粗く、恐怖に声も出ない様子だった。

 (呆れた、アイラまで捨てるのね……)
 オリヴィアは半眼のまま、床に刻まれた陣を確認する。献供式の縦糸に、締結式の横糸が重ねてある。

 (なら、返り火が効くわね)
 掌の傷を爪で開き、咳のふりをして唇を切り、その滴を巨大な魔法陣の線の交点へ落とす。

血は良い墨だ。繊細な魔力操作で、贄の血の上に重ねる。

返し紋――魔界文字を反転させた微細な楔。それを肉眼では分からぬほどの小ささで刻み込む。
足で擦る程度では消すことは出来ない。

オリヴィアの行いは全く気付かれなかった。
反対側では、オリヴィアが手を下すまでもなく、アイラに対して凄惨な拷問が行われ、悲鳴はこの世のものとは思えぬほどに、獣の咆哮よりも大きく反響していたから。

 (わたしの魂が身体から離れると同時に、術の対価が贄ではなく、施術者と“署名者”に返送される。――王太子と、両親へ)

 呼気を細く吐いた。返し紋を刻むだけで、もう少しも動くことが出来ないほどに疲れてしまった。

 (駄目よ…しっかり完了を見届けないと…。やり遂げてみせるわ。やっと帰れるのよ、オリヴィア)

◇◇◇
 「殿下、わたし……」
 オリヴィアが細工を始める前、アイラは一縷の望みをつかむように王太子を見上げた。

 アルヴェインは近づき、顎を持ち上げ、まるで工芸品の出来を確かめるみたいに目を細めた。
「国のために、美しく死ね」
 言葉は、慰めでも赦しでもない。命令。
 アイラの絶叫は言葉の体をなさなかった。

 魔術師が儀式の開始を告げる詠唱をした。
 
「それでは悪魔に捧げる絶望のため、殿下、予言の乙女を」
そう言って装飾されたナイフを渡す。

「儀式には強い欲望ー願いが必要です。今一番それを有しているのは貴方でしょう」
そう言って魔術師は厄介ごとをアルヴェインに押し付けた。

 能無しのエルフォード夫妻や高齢の魔術師が上手くできるかは分からない。
 アルヴェインはチラリと吊り下げられたオリヴィアを見た。

 途端にギラギラと目に淀んだ光が宿り、唇は三日月のように歪んだ。

 アイラはその様子を見て、やっと洞察力を身につけたようだった。
「殿下…私を愛してない…」

 「? お前を愛したことなど一度もないよ」

 まずは血、次に肉。
 最早少女のものとは思えぬ、獣の咆哮のような凄まじい悲鳴が石壁を震わせる。
 アイラは悲鳴と悲鳴の間に何度も「殿下」と呼んだ。もう返事もなかった。
 アルヴェインはナイフの柄を固く握り、魔術師の指示どおりに刃を傾ける。

 「絶望は重く、長いほどいい」
 老魔法使いが何の感情もなく、料理でも作るかのように言い、アルヴェインは従った。

 やがて、アイラの瞳から光が抜けた。
 
 アルヴェインはやり遂げたとでも言うように額の汗を手の甲で拭った。

 次が、オリヴィアだった。

 両親は少し距離を取って見下ろしている。
 「元に戻るのよ」
 母は言う。
 「家のためだ」
 父は言う。
 
 (耳を貸す価値もない)
 オリヴィアは静かに目を閉じ、最後の仕上げを思考でなぞる。返し紋は刻んだ。魂の行き先を指定する送り火も染み込ませた。

 術の順番は狂い、魂の行き先は呪具の封印の中ではなく、魔界に送られる。

 (ざまあみろ、ざまあみろ!ざまあみろ!ざまあみろ‼︎わたしの帰還を邪魔する者には、相応の支払いを‼︎‼︎)

 魔術師が人格を封じるための詠唱を始めた。

 術式が魂を掬い上げようとした刹那、送り火が発動する。

 魂は流星のごとく白く輝き、その残滓が雪の舞う中で、魔界へ旅立った。その器は静かに壊れた。

 人形にする前に、オリヴィアは『こちら側』からいなくなっていた。

 陣が悲鳴を上げた。
 予定された道筋を魂が通らず、魔力が魔法陣の下で渦を巻く。
 壁の呪句が逆流し、燭が青い火を噴き、香炉が割れて黒煙が天井に吸い込まれていく。

 老魔術師が叫ぶ。 失敗――この簡潔な語が、儀式場全体の温度を一気に下げた。

エルフォード夫妻が魔術師に駆け寄る。
「またなの⁉︎ ねえでもまた、何とかなるんでしょう‼︎ねえ⁉︎」
「まさか私の魂の一部を代価にするわけじゃないだろうな!」

 王太子が後ずさり、「俺のせいじゃない!」と何かに叫んだ。

 そして、返し紋が発動した。

 魔術師、王太子、エルフォード夫妻の皮膚が音もなく波打ち、両手足の指から黒い亀裂が走る。

 腕や脚、頭の皮は亀裂からバナナの皮のように剥けると、蝋のように垂れた。顔全体が裏側から押されているように膨張した。瞳は濁って突き出し、歯列は外へ覗く。
 耳と鼻、歯はぽろぽろと剥がれ落ち、地面へ落ちた。

 子供の組み立て人形のように。

 贄に肩代わりさせる筈だった“契約の代償”が、施術者と署名者へそのまま返送されたのだ。

 二目と見られぬ醜い姿。
 凄絶な痛み。

だがきっと、この国の整形医療魔法と高度医療魔法なら、命を繋げることだろう。
今ここで死ぬ方がマシだったとしても。

 陣が爆発し、壁が飛ぶ。大きな音は周囲の人々を叩き起こし、何かがあったことを知らせた。

◇◇◇
 そして、オリヴィアの魂は、堕ちた。
 深い深い夜の底へ。
 温い水のような何かに身体が包まれ、耳の奥で鼓動が遠のき、重さという概念がほどけていく。髪の毛一本でさえ、もう誰かに縛られることはない。
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