君の言葉で夢を見たい
日本語のクラスはテキストと同じ「初級」のクラスを選んだ。
練習生だった中学生の頃から日本語の勉強を続けているし、中級クラスという選択肢もあった。
「トイレどこですか」くらいは言えるわけだし。
……あの時、トイレは探してなかったけど。
だけど、中級から再開するのは嫌だった。
テキストを親指でパラパラとめくると、記号にしか見えない日本語がコマ送りみたいに流れていく。
だって初級のテキストなのに、まだこんなにも、ひらがなの丸さや漢字の威圧感が意味よりも先に目に飛び込んでくる。
彼女の言葉を、彼女の考えを、彼女の気持ちを、この言語で理解したい。
その素になる「あいうえお」から全部、新しい気持ちで学び直したい。
そう思って初級クラスを選んだ。
「『이름이 뭐예요?』は日本語で『名前はなんですか?』と言います。『이름』は『名前』、助詞は――」
ペンを持っていた手が止まる。
続く先生の文法の説明が耳を通りすぎていく。
名前――。
彼女の声もその柔らかさも、ロビーで膝をついて僕を見上げた表情もこんなに鮮明に思い出せるのに。
彼女の名前を知らないことに今まで気づかなかったなんて――。
今まで気にならなかったくせに、彼女の名前を知らないと気づいてしまったせいで余計に気になる。
何か手がかりはないかと、数少ない彼女とのやり取りを脳内で再生する。
初めの電話の時に名乗っていた気がする……けど、あの時の僕は日本語にテンパってしまってそれどころじゃなかった。
もちろん思い出せない。
次にロビーで彼女と会った時――。
彼女の制服の胸元にまっすぐ付いていた重厚感のある名札の存在は思い出せるのに、そこに書かれていたはずの名前の部分だけはモヤがかかったみたいに思い出せない。
……もどかしい。
彼女の名前は、なんというんだろう。
止まっていたペンが、ノートの余白にそっとインクを染み込ませていく。
『なまえは なんですか』
まだ少し迷いのある不恰好なひらがなは、あの日僕が彼女になんとか伝えた僕の日本語みたいだった。
もし僕が『名前はなんですか?』と尋ねたら、彼女はあの柔らかい声で答えてくれるんだろうか。
日本の名前のニュアンスはわからないけれど――
それはきっと、彼女の声によく似た、柔らかくて優しい響きなんだろうな。
そう思うと、へにょへにょと頼りない自分の文字まで、彼女につながる道標みたいに見えた。