黄浦江の境界
第一章 上海航路
一
汽笛が、長崎の港に鳴り響いた。
明治二十九年、晩春。橘皐月は父とともに、波止場に立っていた。目の前には巨大な汽船——上海航路の定期船「長崎丸」が、黒い鉄の巨体を横たえている。空は晴れ、港の水面は陽光を反射してきらきらと輝いていた。石炭を焚く煙突からは、白い煙が真っ直ぐに昇っている。
「支度は、すべて整えたか」
父の声が、やけに遠く聞こえた。
「はい、お父様」
皐月はこくりと頷いた。手には小さなトランクひとつ。中には着替えと筆記用具、それから大切なノートが三冊。読みかけの本が二冊。——それだけが、彼女の全財産だった。
父は長崎で貿易商を営む資産家で、上海にも何人かの知人を持っていた。娘が「上海へ行きたい」と言い出したとき、意外なほどあっさりと承諾したのは、そうした伝手があったからだ。もっとも、娘の真意——「詩人になりたい」という夢までは、知らなかっただろうが。
「無理はするな。何かあれば、すぐに戻ってこい」
「大丈夫です。私、もう二十一ですよ」
皐月は笑ってみせた。だが、胸の奥で何かが震えている。高揚感と、それと同じだけの不安。これから自分は、海の向こうの知らない街で、ひとりで生きていくのだ。
乗船の時が来た。
皐月は父に深く一礼し、タラップを上がった。振り返ると、父は無表情のまま、じっとこちらを見つめていた。その目に、かすかな憂いが浮かんでいることに、皐月は気づかないふりをした。
船は、ゆっくりと岸壁を離れた。
甲板に出ると、潮風が髪をさらっていく。海鳥が数羽、船のまわりを旋回していた。皐月は手すりに掴まりながら、遠ざかる長崎の街を見つめた。段々畑のように斜面に張りついた家々。港に浮かぶ無数の帆船。そして、山の上に建つ白い洋館。——あれが、私の育った家だ。
「さようなら」
口に出して呟くと、なぜか涙がこぼれそうになった。慌てて目元を拭う。
周囲を見回すと、甲板には様々な人々がいた。洋装の紳士、和服の商人、荷物を抱えた家族連れ。話し声は日本語ばかりではない。中国語、英語——いくつもの言語が混ざり合い、船という小さな世界の中で渦を巻いている。
そのときだった。
ふと視線を上げた先に、ひとりの青年が立っていた。
船首に近い手すりのそば。ひとりで海を見つめている。年の頃は二十五、六だろうか。背が高く、肩幅のしっかりとした体格。濃紺のスーツを着こなし、髪は短く整えられている。どこか西洋風の雰囲気をまとっているが、その横顔はまぎれもなく日本人のものだった。
青年は、じっと水平線の彼方を見つめていた。潮風が彼の前髪を揺らす。その目は何かを見ているようで、何も見ていない——そんな、不思議なまなざしだった。
物憂げな、と皐月は思った。
そう、あれは物憂げな横顔だ。世界のどこにも自分の居場所がないかのような、深い孤独をたたえている。
青年は突然、皐月の視線に気づいたように、こちらを振り返った。
一瞬、目が合う。
皐月はどきりとして、思わず目をそらした。心臓が早鐘を打つ。なぜだろう、ただ見つめられただけなのに。
もう一度、恐る恐る視線を戻すと、青年はすでに元の姿勢に戻り、再び海を見つめていた。
皐月は、しばらくその場を動けなかった。
汽笛が、もう一度鳴った。長崎の街は、もうずいぶん小さくなっていた。
二
船室は二等船室だった。四人部屋で、皐月の他には三人の女性がいた。ひとりは上海に住む日本人商人の妻で、一時帰国からの戻りだという。もうふたりは、上海で働く女中たちだった。
皐月は上段の寝台に腰を下ろし、ノートを開いた。旅の印象を書き留めておこうと思ったのだ。
『明治二十九年四月十日。長崎丸に乗船。海は凪いでいる。水平線がどこまでも続いている。空と海の境界が、ぼんやりと溶け合っている。私はいま、その境界を越えようとしている——』
ペンが止まった。
詩にならない。言葉が、うまく紡げない。
皐月は溜息をついて、ノートを閉じた。窓の外には、変わらぬ海の景色が広がっているだけだ。
東京の女学校を卒業して三年。皐月はその間、ずっと詩を書いてきた。短歌、新体詩、翻訳詩——様々な形を試した。雑誌に投稿もした。一度だけ、小さな文芸誌に短歌が掲載されたことがある。『橘しづく』という筆名で。
しかし、それだけだ。
家族は「嫁入りの時期だ」と言う。友人は「趣味としてはいいけれど」と言う。世間は「女が詩を書いて何になる」と言う。
それでも皐月は、書かずにはいられなかった。詩こそが、自分の心を表現する唯一の手段だった。この広い世界の中で、自分が自分であることを証明する、たったひとつの方法だった。
上海へ行こうと思ったのは、半年前のことだ。
東京の書店で偶然手に取った旅行記に、上海の租界の様子が書かれていた。西洋と東洋が混ざり合う街。新しい文化が生まれつつある場所。そこには、日本とは違う世界が広がっている——
「何か、見つかるかもしれない」
そう思った。詩人としての自分自身が。
皐月は立ち上がり、再び甲板へ向かった。
夕暮れが近づいていた。空が茜色に染まり始め、海面に長い光の帯を落としている。甲板には昼間より人が少なく、静かな空気が流れていた。
——また、あの青年がいる。
皐月は、思わず足を止めた。
青年は昼間と同じ場所に立ち、やはりひとりで海を見つめていた。夕陽を背に受けたその姿は、一枚の絵のように美しい。
近づいてみたい。話しかけてみたい。
だが、なんと言って?
皐月は逡巡した。女学校では「はしたない」と教えられた。見知らぬ男性に、自分から声をかけるなど——
しかし、ここはもう日本ではない。船の中は、いわば無国籍の空間だ。
皐月は意を決して、青年に近づいた。
「あの……」
声をかけると、青年はゆっくりと振り返った。切れ長の目が、皐月をまっすぐに見つめる。その瞳は黒く深く、底知れない何かを秘めているようだった。
「何か?」
声は低く、落ち着いていた。
「ずっと海を見ていらっしゃいますね。何か、お考え事ですか?」
青年はわずかに眉を動かした。それから、ふっと表情を和らげる。
「ただ、眺めているだけです」
「そうですか。私、邪魔をしてしまいましたか」
「いや」
青年は小さく首を振った。
「あなたは、日本人ですか」と皐月は尋ねた。
「ええ。上海で仕事をしています。あなたは?」
「私は……旅行です。上海には初めて行きます」
「ひとりで?」
「はい」
青年は意外そうな表情を浮かべた。
「女性のひとり旅は、まだ珍しい時代ですよ」
「そうかもしれません」
皐月は少しだけ口調を強くした。そう言われることに、慣れていたからだ。
「でも、見てみたいのです。自分の目で、広い世界を」
青年は、しばらく皐月の顔を見つめていた。何かを探るような、あるいは試すような目つきだった。
やがて、彼は言った。
「あなたは、詩人ですか」
皐月は目を見開いた。
「なぜ、そうお思いに?」
「言葉の選び方が、詩人のそれだからです」
青年の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。それは、この船の中で初めて見せた、人間らしい表情だった。
「ええ」皐月はこくりと頷いた。「詩人になりたいと、思っています。まだ、何も成し遂げてはいませんが」
「成し遂げるかどうかは、問題ではないのかもしれません」
青年は海へと視線を戻した。
「詩を書くということは、ただ、書き続けることです。誰に認められなくとも」
その言葉に、皐月は胸を衝かれた。
「あなたも、詩をお書きになるのですか?」
青年は答えなかった。ただ、水平線の彼方を見つめている。その横顔には、再びあの物憂げな翳りが浮かんでいた。
夕陽が、海に沈もうとしていた。
三
その夜、皐月はなかなか寝つけなかった。
同室の女性たちの寝息を聞きながら、昼間の青年の言葉を反芻する。
『詩を書くということは、ただ、書き続けることです。誰に認められなくとも』
あの人は、何者なのだろう。上海で仕事をしていると言っていた。商人だろうか。それとも、役人か。
しかし、あの言葉を紡げる人は、ただの商人ではない。詩を、知っている人だ。
皐月は暗闇の中で目を開けた。
名前を、聞きそびれてしまった。
翌朝、皐月は早くに目覚め、甲板に出た。
空は曇り、海は昨日より少し荒れていた。波が船体を叩く音が、規則正しく響いている。水平線は灰色の雲に覆われ、どこまでが海でどこからが空なのか、判然としない。
あの青年は、今日もまた同じ場所に立っていた。
皐月は今度は躊躇わずに近づいた。
「おはようございます」
「おはよう」
青年は軽く会釈した。今日は、どことなく話しやすい雰囲気がある。
「昨日、お名前を伺いそびれました。私は、橘皐月といいます」
「皐月……」
青年はその名を口の中で転がすように繰り返した。
「五月の、さつきですか」
「はい。五月に生まれたものですから」
「いい名前だ」
青年は言った。それは世辞ではなく、本当にそう思っているような口調だった。
「私は、御厨馨といいます」
「みくりや、かおる……様ですか」
「様はいらない。ただの商人ですから」
御厨馨。皐月は心の中でその名を繰り返した。馨——香り、かおり。彼にふさわしい名前だと思った。
「上海では、どのようなお仕事を?」
「貿易商です。小さな商会を営んでいます」
馨は簡潔に答えた。それ以上、自分のことを語ろうとはしない。だが、皐月はそれ以上、踏み込んで尋ねることを遠慮した。
しばらくふたりは、無言で海を眺めていた。
波が高くなってきた。船が大きく揺れる。皐月は手すりにしっかりと掴まった。
「船は、お好きですか」
皐月が尋ねると、馨は少し考えてから答えた。
「嫌いではありません。境界の上にいるような気分になる」
「境界?」
「国と国のあいだ。現実と夢のあいだ。過去と未来のあいだ。船というのは、そのどちらにも属さない、曖昧な場所です。私は、そういう場所が性に合っているのかもしれない」
馨の声には、どこか自嘲めいた響きがあった。
「あなたは、どちらにも属せないと?」
皐月がそう問うと、馨は答えなかった。ただ、口元にかすかな笑みを浮かべただけだった。
そのとき、突然、船が大きく傾いた。
「きゃっ」
皐月はバランスを崩し、思わず馨の方へ倒れ込んだ。馨はとっさに彼女の肩を支える。
「大丈夫ですか」
「は、はい……」
皐月の顔が、馨の胸元に近づく。ほのかに、外国製の石鹸の香りがした。心臓が、また早鐘を打ち始める。
「波が高くなってきました。中に入りましょう」
馨は皐月の肩から手を離し、先に立って歩き出した。
皐月は少し残念な気持ちを抱えながら、その背中を追った。
船室に戻る途中、ふと廊下の掲示板に貼られた紙が目に入った。船内新聞のようなものだ。乗客の消息や、船の現在位置、ちょっとした読み物が印刷されている。
その片隅に、短い詩が掲載されていた。
『海は眠り 空は目覚める そのあわいに 我はあり』
署名はなかった。だが、その文字を見た瞬間、皐月ははっとした。
この詩を書いたのは——。
馨の姿は、もう廊下の向こうに消えていた。
四
船旅の二日目。天候はさらに悪化した。
朝から強い雨が降り、甲板に出ることはできなかった。皐月は船内のラウンジで過ごすことにした。ここには書物を読んだり、お茶を飲んだりできるスペースがあり、数人の乗客が思い思いに時間を過ごしている。
馨もそこにいた。
窓際の席に腰を下ろし、何やら書き物をしている。その姿を見つけた皐月は、しばらく迷った末に、近づいていった。
「お隣、よろしいですか」
馨は顔を上げ、ほんの少し驚いた表情を見せてから、静かに頷いた。
皐月は彼の向かいの席に座り、自分もノートを取り出した。だが、なかなか筆が進まない。馨の存在が気になって、集中できないのだ。
馨の方は、せっせとペンを走らせている。帳面のようなものに、細かい字で何かを書いている。英語のようだった。数字も混ざっているから、詩ではなく、仕事の書類なのだろう。
しばらくして、馨が顔を上げた。
「詩は、書けましたか」
「いいえ」皐月は苦笑した。「どうも、うまくいきません。書きたいことはあるのに、言葉が追いつかないのです」
「それでいいのではないですか」
馨はペンを置き、窓の外に目をやった。雨がガラスを叩いている。
「書きたいことと、書けることのあいだにある溝。それこそが、詩の生まれる場所だと思います」
「溝、ですか」
「ええ。埋まらない溝を前にして、人はもがく。そのもがきが、言葉になる。簡単に書けてしまう詩など、たいていは浅いものです」
皐月は、その言葉をじっくりと噛みしめた。
「御厨さんは、やはり詩を——」
「ただの商人ですよ」
馨は遮るように言った。
「詩人を気取るつもりはない。ただ、詩を読むことは好きです」
「どんな詩を?」
「漢詩。西洋の詩。それから、日本の和歌、新体詩」
馨の口調が、少しだけ熱を帯びた。
「最近は、とくに面白い試みが生まれています。西洋の形式を取り入れつつ、日本人の感性で新しい詩を作ろうという動きです。たとえば——」
馨は言葉を切り、少し恥ずかしそうに笑った。
「すみません。つい、熱くなってしまった」
「いいえ」皐月は身を乗り出した。「もっと聞かせてください。私、そういう話が聞きたくて、上海へ行くのです。新しいものに出会いたくて」
馨は皐月の目をじっと見つめた。そのまなざしは、何かを探るようでもあり、懐かしむようでもあった。
「上海には、そういうものが確かにあります。良いものも、悪いものも。あなたがそれに出会って、どう感じるかは、あなた次第ですが」
「私は——」
皐月は言葉に詰まった。
「私は、日本の詩をもっと広い世界に開きたいのです。女だからとか、若いからとか、そういうことで諦めたくない。誰かの心に届く言葉を、私自身の言葉を、見つけたい」
言い切ってから、少し気恥ずかしくなった。こんな熱い想いを、知り合ったばかりの人にぶつけるなど。
だが、馨は軽蔑するでもなく、ただ静かに聞いていた。
「立派な志だと思います」彼は言った。「だが——」
「だが?」
「女性が、詩人として立つことは、まだ難しい時代です。それは上海でも同じだ。現実を見なければ、傷つくのはあなた自身です」
その言葉は、冷たく響いた。
皐月は思わず立ち上がっていた。
「現実を見ろとおっしゃるのですか。ならば、私はその現実を変えたいと思います。諦めることだけが、現実を見ることではないはずです」
馨は驚いたように皐月を見上げた。その目に、かすかな動揺が走る。
「失礼なことを言ったなら、謝ります」馨は言った。「だが、私が言いたいのは——」
「けっこうです」
皐月はノートを手に取り、くるりと背を向けた。
「私、これで失礼します」
足早にラウンジを出ていく皐月の背中を、馨は複雑な表情で見送っていた。
五
雨は、夕方には上がった。
だが、皐月の心の中のわだかまりは、まだ消えていなかった。
船室に戻ってからも、馨の言葉が頭の中で繰り返し響いている。
『女性が、詩人として立つことは、まだ難しい時代です』
そんなことは、言われなくてもわかっている。女学校でも、家でも、何度も言われてきた。女には学問はいらない。詩など書いて何になる。早く良家に嫁いで、子を産み、家庭を守れ——
でも、それでいいのか。
皐月はノートを開き、ペンを手に取った。
『なぜ、女が詩を書いてはいけないのか。なぜ、世界を見てはいけないのか。私は、私自身の目で見たい。私自身の言葉で語りたい。その権利が、私にはあるはずだ——』
ペンが走る。言葉が溢れ出る。怒りが、文字となって紙の上に広がっていく。
書き終えて、皐月は我に返った。
これは詩ではない。ただの、叫びだ。
だが、悪くない、と思った。これもまた、自分の言葉なのだから。
夕食の時間が近づき、皐月は食堂へ向かった。
広い食堂には、長いテーブルがいくつも並べられている。すでに多くの乗客が席につき、思い思いに夕食をとっていた。賑やかな話し声。食器のぶつかる音。異国の料理の匂い。
皐月が席を探していると、不意に声をかけられた。
「橘さん」
馨だった。ひとりで隅のテーブルについている。
皐月は一瞬迷ったが、意を決して近づいた。
「先ほどは、申し訳ありませんでした」
馨は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「私の言い方が、あまりに無神経でした。あなたの志を、否定するつもりはなかった」
「いえ、私こそ、感情的になってしまって」
皐月も頭を下げた。
「よろしければ、ご一緒にいかがですか」
馨が席を勧める。皐月は素直にそれに従った。
給仕が夕食を運んでくる。洋食だった。スープ、魚料理、肉料理。皐月にとっては珍しい献立だ。馨は慣れた手つきでナイフとフォークを扱いながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私は、かつて詩人になりたいと思ったことがあります」
皐月は顔を上げた。
「若い頃、日本に留学していた時期がありましてね。その時に、文学に夢中になった。とくに詩に。自分でも書いてみた。でも——」
馨は少し自嘲的な笑みを浮かべた。
「現実というものに、ぶつかった。詩を書いても、食べていけない。家族は商人の道を継げと言う。結局、私はそちらを選んだ。だから、あなたの志を聞いて、羨ましくなったのかもしれない。そして、その羨ましさが、あんな言葉になってしまった」
「羨ましい?」
「ええ。あなたは、まだ戦っている。私は、もう諦めてしまったから」
馨の声には深い諦念が滲んでいた。
皐月は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「御厨さんは、今でも詩を書いてはいるのではありませんか」
馨は答えなかった。ただ、窓の外を見つめている。雨上がりの空には、かすかな星が見え始めていた。
「船の中だけの話にしておきましょう」
馨は言った。
「上海に着けば、私はただの商人です。あなたは旅行者。それぞれの現実に戻る。この船という境界を降りれば、また別の人生が始まる」
「でも——」
「これ以上は、やめておきませんか」
馨は穏やかに、しかし断固とした口調で言った。
皐月は口をつぐんだ。
夕食のあと、ふたりは甲板に出た。
雨はすっかり上がり、雲の切れ間から月が顔を覗かせている。海はまだ少し荒れていたが、昼間よりはずいぶん穏やかになっていた。波の音が、闇の中から規則正しく聞こえてくる。
月明かりが、海面に銀色の道を作っていた。
「明日の朝には、上海に着きます」
馨が言った。
「長いようで、短い船旅でした」
「はい」
皐月は頷いた。この船の上での時間が、もうすぐ終わる。そう思うと、不思議な寂しさがこみ上げてきた。
「橘さん」
馨が皐月の名前を呼んだ。
「あなたは、きっと良い詩人になれる。そう思います」
「どうして、そう思われるのですか」
「あなたの言葉には、力がある。自分の言葉を信じる力が。それは、何よりも大切なことです」
馨の声は、真摯だった。
「ありがとうございます」
皐月は素直に礼を言った。
「御厨さんこそ、もう一度、詩を書いてみてはいかがですか。私は、あなたの言葉を読んでみたい」
馨は、かすかに笑っただけだった。
「風が冷たくなってきました。そろそろ戻りましょう」
馨はそう言うと、皐月の返事を待たずに歩き出した。
皐月はその背中を見送りながら、心の中で呟いた。
——きっと、あなたは誰よりも詩を愛しているのに。
六
船は、翌朝、上海に到着した。
皐月は夜明けとともに目覚め、甲板に出た。
視界に飛び込んできた光景に、彼女は息を呑んだ。
黄浦江——。
黄土色に濁った広大な川の両岸には、まるで別の世界が広がっていた。
右岸には、西洋式の壮大な建物が立ち並んでいる。ギリシャ風の柱、ドーム状の屋根、ゴシック様式の尖塔。銀行、商館、ホテル、クラブ——それらは威圧的とも言えるほどの存在感で、朝陽を浴びて輝いていた。租界。西洋列強が清朝から奪い取った、もうひとつの世界。
左岸には、無数の中国式の家屋がひしめき合っていた。黒い瓦屋根、赤い提灯、細い路地。煙突からは朝食の支度をする煙が立ち上り、川岸には無数の小舟が停泊している。まさしく東洋の、古い中国の姿。
その対比は、あまりにも鮮やかだった。
西洋と東洋。富と貧困。新しいものと古いもの。それらが、一本の川を挟んで、渾然と存在している。
「これが、上海……」
皐月は手すりに掴まったまま、しばらく言葉を失っていた。
汽笛が鳴る。船がゆっくりと岸壁に近づいていく。水夫たちが慌ただしく動き回り、タラップの準備を始めた。
波止場には、すでに大勢の人々が集まっていた。荷物を運ぶ苦力たち。客待ちの馬車や人力車。出迎えの人々。様々な言語が入り混じり、耳をつんざくような喧騒が聞こえてくる。
「すごい……」
皐月の口から、思わず声が漏れた。
「初めて見る景色ですか」
背後から声がした。振り返ると、馨が立っていた。今日は濃紺のスーツではなく、やや略式のジャケット姿だ。手には革製の鞄を持っている。
「はい。これが、上海……」
「あなたがこれから見るものは、もっとすごい。良いものも、悪いものも。すべてが混ざり合って、混沌としている。それが上海です」
馨は静かに言った。
「気をつけて。この街は、時に人を飲み込みます」
「御厨さんは、これからどちらへ?」
「まずは商館へ戻ります。あなたは?」
「父の知人のところへ。租界に家があるそうです」
「そうですか」
馨は少し間を置いてから、胸のポケットから一枚の名刺を取り出した。
「何か困ったことがあれば、ここへ連絡を。微力ながら、お力になれるかもしれません」
皐月は名刺を受け取った。
『光亜商会 御厨馨』
そこには、それだけが印刷されていた。
「ありがとうございます。でも、本当によろしいのですか?」
「あなたには、借りがありますから」
「借り?」
「ええ。船の中で、忘れかけていた何かを、思い出させてもらいました」
馨はそう言うと、軽く帽子を上げて挨拶した。
「では、お元気で」
「御厨さん——」
皐月が呼び止めようとしたときには、馨はすでに人混みの中へと歩き出していた。
タラップが降ろされ、乗客たちが次々と船を降りていく。
皐月もトランクを手に、人の流れに乗った。
波止場に降り立つと、むっとするような熱気と、様々な匂いが押し寄せてきた。潮の香り、石炭の煙、香辛料、食べ物、人いきれ——
これが、上海。
皐月は、しっかりと地面を踏みしめた。
名刺を大切に鞄にしまい、彼女は新しい街への第一歩を踏み出した。
遠くで、馨の姿が人混みに消えていくのが見えた。
黄浦江の上を、汽笛の音が、いつまでもこだましていた。
汽笛が、長崎の港に鳴り響いた。
明治二十九年、晩春。橘皐月は父とともに、波止場に立っていた。目の前には巨大な汽船——上海航路の定期船「長崎丸」が、黒い鉄の巨体を横たえている。空は晴れ、港の水面は陽光を反射してきらきらと輝いていた。石炭を焚く煙突からは、白い煙が真っ直ぐに昇っている。
「支度は、すべて整えたか」
父の声が、やけに遠く聞こえた。
「はい、お父様」
皐月はこくりと頷いた。手には小さなトランクひとつ。中には着替えと筆記用具、それから大切なノートが三冊。読みかけの本が二冊。——それだけが、彼女の全財産だった。
父は長崎で貿易商を営む資産家で、上海にも何人かの知人を持っていた。娘が「上海へ行きたい」と言い出したとき、意外なほどあっさりと承諾したのは、そうした伝手があったからだ。もっとも、娘の真意——「詩人になりたい」という夢までは、知らなかっただろうが。
「無理はするな。何かあれば、すぐに戻ってこい」
「大丈夫です。私、もう二十一ですよ」
皐月は笑ってみせた。だが、胸の奥で何かが震えている。高揚感と、それと同じだけの不安。これから自分は、海の向こうの知らない街で、ひとりで生きていくのだ。
乗船の時が来た。
皐月は父に深く一礼し、タラップを上がった。振り返ると、父は無表情のまま、じっとこちらを見つめていた。その目に、かすかな憂いが浮かんでいることに、皐月は気づかないふりをした。
船は、ゆっくりと岸壁を離れた。
甲板に出ると、潮風が髪をさらっていく。海鳥が数羽、船のまわりを旋回していた。皐月は手すりに掴まりながら、遠ざかる長崎の街を見つめた。段々畑のように斜面に張りついた家々。港に浮かぶ無数の帆船。そして、山の上に建つ白い洋館。——あれが、私の育った家だ。
「さようなら」
口に出して呟くと、なぜか涙がこぼれそうになった。慌てて目元を拭う。
周囲を見回すと、甲板には様々な人々がいた。洋装の紳士、和服の商人、荷物を抱えた家族連れ。話し声は日本語ばかりではない。中国語、英語——いくつもの言語が混ざり合い、船という小さな世界の中で渦を巻いている。
そのときだった。
ふと視線を上げた先に、ひとりの青年が立っていた。
船首に近い手すりのそば。ひとりで海を見つめている。年の頃は二十五、六だろうか。背が高く、肩幅のしっかりとした体格。濃紺のスーツを着こなし、髪は短く整えられている。どこか西洋風の雰囲気をまとっているが、その横顔はまぎれもなく日本人のものだった。
青年は、じっと水平線の彼方を見つめていた。潮風が彼の前髪を揺らす。その目は何かを見ているようで、何も見ていない——そんな、不思議なまなざしだった。
物憂げな、と皐月は思った。
そう、あれは物憂げな横顔だ。世界のどこにも自分の居場所がないかのような、深い孤独をたたえている。
青年は突然、皐月の視線に気づいたように、こちらを振り返った。
一瞬、目が合う。
皐月はどきりとして、思わず目をそらした。心臓が早鐘を打つ。なぜだろう、ただ見つめられただけなのに。
もう一度、恐る恐る視線を戻すと、青年はすでに元の姿勢に戻り、再び海を見つめていた。
皐月は、しばらくその場を動けなかった。
汽笛が、もう一度鳴った。長崎の街は、もうずいぶん小さくなっていた。
二
船室は二等船室だった。四人部屋で、皐月の他には三人の女性がいた。ひとりは上海に住む日本人商人の妻で、一時帰国からの戻りだという。もうふたりは、上海で働く女中たちだった。
皐月は上段の寝台に腰を下ろし、ノートを開いた。旅の印象を書き留めておこうと思ったのだ。
『明治二十九年四月十日。長崎丸に乗船。海は凪いでいる。水平線がどこまでも続いている。空と海の境界が、ぼんやりと溶け合っている。私はいま、その境界を越えようとしている——』
ペンが止まった。
詩にならない。言葉が、うまく紡げない。
皐月は溜息をついて、ノートを閉じた。窓の外には、変わらぬ海の景色が広がっているだけだ。
東京の女学校を卒業して三年。皐月はその間、ずっと詩を書いてきた。短歌、新体詩、翻訳詩——様々な形を試した。雑誌に投稿もした。一度だけ、小さな文芸誌に短歌が掲載されたことがある。『橘しづく』という筆名で。
しかし、それだけだ。
家族は「嫁入りの時期だ」と言う。友人は「趣味としてはいいけれど」と言う。世間は「女が詩を書いて何になる」と言う。
それでも皐月は、書かずにはいられなかった。詩こそが、自分の心を表現する唯一の手段だった。この広い世界の中で、自分が自分であることを証明する、たったひとつの方法だった。
上海へ行こうと思ったのは、半年前のことだ。
東京の書店で偶然手に取った旅行記に、上海の租界の様子が書かれていた。西洋と東洋が混ざり合う街。新しい文化が生まれつつある場所。そこには、日本とは違う世界が広がっている——
「何か、見つかるかもしれない」
そう思った。詩人としての自分自身が。
皐月は立ち上がり、再び甲板へ向かった。
夕暮れが近づいていた。空が茜色に染まり始め、海面に長い光の帯を落としている。甲板には昼間より人が少なく、静かな空気が流れていた。
——また、あの青年がいる。
皐月は、思わず足を止めた。
青年は昼間と同じ場所に立ち、やはりひとりで海を見つめていた。夕陽を背に受けたその姿は、一枚の絵のように美しい。
近づいてみたい。話しかけてみたい。
だが、なんと言って?
皐月は逡巡した。女学校では「はしたない」と教えられた。見知らぬ男性に、自分から声をかけるなど——
しかし、ここはもう日本ではない。船の中は、いわば無国籍の空間だ。
皐月は意を決して、青年に近づいた。
「あの……」
声をかけると、青年はゆっくりと振り返った。切れ長の目が、皐月をまっすぐに見つめる。その瞳は黒く深く、底知れない何かを秘めているようだった。
「何か?」
声は低く、落ち着いていた。
「ずっと海を見ていらっしゃいますね。何か、お考え事ですか?」
青年はわずかに眉を動かした。それから、ふっと表情を和らげる。
「ただ、眺めているだけです」
「そうですか。私、邪魔をしてしまいましたか」
「いや」
青年は小さく首を振った。
「あなたは、日本人ですか」と皐月は尋ねた。
「ええ。上海で仕事をしています。あなたは?」
「私は……旅行です。上海には初めて行きます」
「ひとりで?」
「はい」
青年は意外そうな表情を浮かべた。
「女性のひとり旅は、まだ珍しい時代ですよ」
「そうかもしれません」
皐月は少しだけ口調を強くした。そう言われることに、慣れていたからだ。
「でも、見てみたいのです。自分の目で、広い世界を」
青年は、しばらく皐月の顔を見つめていた。何かを探るような、あるいは試すような目つきだった。
やがて、彼は言った。
「あなたは、詩人ですか」
皐月は目を見開いた。
「なぜ、そうお思いに?」
「言葉の選び方が、詩人のそれだからです」
青年の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。それは、この船の中で初めて見せた、人間らしい表情だった。
「ええ」皐月はこくりと頷いた。「詩人になりたいと、思っています。まだ、何も成し遂げてはいませんが」
「成し遂げるかどうかは、問題ではないのかもしれません」
青年は海へと視線を戻した。
「詩を書くということは、ただ、書き続けることです。誰に認められなくとも」
その言葉に、皐月は胸を衝かれた。
「あなたも、詩をお書きになるのですか?」
青年は答えなかった。ただ、水平線の彼方を見つめている。その横顔には、再びあの物憂げな翳りが浮かんでいた。
夕陽が、海に沈もうとしていた。
三
その夜、皐月はなかなか寝つけなかった。
同室の女性たちの寝息を聞きながら、昼間の青年の言葉を反芻する。
『詩を書くということは、ただ、書き続けることです。誰に認められなくとも』
あの人は、何者なのだろう。上海で仕事をしていると言っていた。商人だろうか。それとも、役人か。
しかし、あの言葉を紡げる人は、ただの商人ではない。詩を、知っている人だ。
皐月は暗闇の中で目を開けた。
名前を、聞きそびれてしまった。
翌朝、皐月は早くに目覚め、甲板に出た。
空は曇り、海は昨日より少し荒れていた。波が船体を叩く音が、規則正しく響いている。水平線は灰色の雲に覆われ、どこまでが海でどこからが空なのか、判然としない。
あの青年は、今日もまた同じ場所に立っていた。
皐月は今度は躊躇わずに近づいた。
「おはようございます」
「おはよう」
青年は軽く会釈した。今日は、どことなく話しやすい雰囲気がある。
「昨日、お名前を伺いそびれました。私は、橘皐月といいます」
「皐月……」
青年はその名を口の中で転がすように繰り返した。
「五月の、さつきですか」
「はい。五月に生まれたものですから」
「いい名前だ」
青年は言った。それは世辞ではなく、本当にそう思っているような口調だった。
「私は、御厨馨といいます」
「みくりや、かおる……様ですか」
「様はいらない。ただの商人ですから」
御厨馨。皐月は心の中でその名を繰り返した。馨——香り、かおり。彼にふさわしい名前だと思った。
「上海では、どのようなお仕事を?」
「貿易商です。小さな商会を営んでいます」
馨は簡潔に答えた。それ以上、自分のことを語ろうとはしない。だが、皐月はそれ以上、踏み込んで尋ねることを遠慮した。
しばらくふたりは、無言で海を眺めていた。
波が高くなってきた。船が大きく揺れる。皐月は手すりにしっかりと掴まった。
「船は、お好きですか」
皐月が尋ねると、馨は少し考えてから答えた。
「嫌いではありません。境界の上にいるような気分になる」
「境界?」
「国と国のあいだ。現実と夢のあいだ。過去と未来のあいだ。船というのは、そのどちらにも属さない、曖昧な場所です。私は、そういう場所が性に合っているのかもしれない」
馨の声には、どこか自嘲めいた響きがあった。
「あなたは、どちらにも属せないと?」
皐月がそう問うと、馨は答えなかった。ただ、口元にかすかな笑みを浮かべただけだった。
そのとき、突然、船が大きく傾いた。
「きゃっ」
皐月はバランスを崩し、思わず馨の方へ倒れ込んだ。馨はとっさに彼女の肩を支える。
「大丈夫ですか」
「は、はい……」
皐月の顔が、馨の胸元に近づく。ほのかに、外国製の石鹸の香りがした。心臓が、また早鐘を打ち始める。
「波が高くなってきました。中に入りましょう」
馨は皐月の肩から手を離し、先に立って歩き出した。
皐月は少し残念な気持ちを抱えながら、その背中を追った。
船室に戻る途中、ふと廊下の掲示板に貼られた紙が目に入った。船内新聞のようなものだ。乗客の消息や、船の現在位置、ちょっとした読み物が印刷されている。
その片隅に、短い詩が掲載されていた。
『海は眠り 空は目覚める そのあわいに 我はあり』
署名はなかった。だが、その文字を見た瞬間、皐月ははっとした。
この詩を書いたのは——。
馨の姿は、もう廊下の向こうに消えていた。
四
船旅の二日目。天候はさらに悪化した。
朝から強い雨が降り、甲板に出ることはできなかった。皐月は船内のラウンジで過ごすことにした。ここには書物を読んだり、お茶を飲んだりできるスペースがあり、数人の乗客が思い思いに時間を過ごしている。
馨もそこにいた。
窓際の席に腰を下ろし、何やら書き物をしている。その姿を見つけた皐月は、しばらく迷った末に、近づいていった。
「お隣、よろしいですか」
馨は顔を上げ、ほんの少し驚いた表情を見せてから、静かに頷いた。
皐月は彼の向かいの席に座り、自分もノートを取り出した。だが、なかなか筆が進まない。馨の存在が気になって、集中できないのだ。
馨の方は、せっせとペンを走らせている。帳面のようなものに、細かい字で何かを書いている。英語のようだった。数字も混ざっているから、詩ではなく、仕事の書類なのだろう。
しばらくして、馨が顔を上げた。
「詩は、書けましたか」
「いいえ」皐月は苦笑した。「どうも、うまくいきません。書きたいことはあるのに、言葉が追いつかないのです」
「それでいいのではないですか」
馨はペンを置き、窓の外に目をやった。雨がガラスを叩いている。
「書きたいことと、書けることのあいだにある溝。それこそが、詩の生まれる場所だと思います」
「溝、ですか」
「ええ。埋まらない溝を前にして、人はもがく。そのもがきが、言葉になる。簡単に書けてしまう詩など、たいていは浅いものです」
皐月は、その言葉をじっくりと噛みしめた。
「御厨さんは、やはり詩を——」
「ただの商人ですよ」
馨は遮るように言った。
「詩人を気取るつもりはない。ただ、詩を読むことは好きです」
「どんな詩を?」
「漢詩。西洋の詩。それから、日本の和歌、新体詩」
馨の口調が、少しだけ熱を帯びた。
「最近は、とくに面白い試みが生まれています。西洋の形式を取り入れつつ、日本人の感性で新しい詩を作ろうという動きです。たとえば——」
馨は言葉を切り、少し恥ずかしそうに笑った。
「すみません。つい、熱くなってしまった」
「いいえ」皐月は身を乗り出した。「もっと聞かせてください。私、そういう話が聞きたくて、上海へ行くのです。新しいものに出会いたくて」
馨は皐月の目をじっと見つめた。そのまなざしは、何かを探るようでもあり、懐かしむようでもあった。
「上海には、そういうものが確かにあります。良いものも、悪いものも。あなたがそれに出会って、どう感じるかは、あなた次第ですが」
「私は——」
皐月は言葉に詰まった。
「私は、日本の詩をもっと広い世界に開きたいのです。女だからとか、若いからとか、そういうことで諦めたくない。誰かの心に届く言葉を、私自身の言葉を、見つけたい」
言い切ってから、少し気恥ずかしくなった。こんな熱い想いを、知り合ったばかりの人にぶつけるなど。
だが、馨は軽蔑するでもなく、ただ静かに聞いていた。
「立派な志だと思います」彼は言った。「だが——」
「だが?」
「女性が、詩人として立つことは、まだ難しい時代です。それは上海でも同じだ。現実を見なければ、傷つくのはあなた自身です」
その言葉は、冷たく響いた。
皐月は思わず立ち上がっていた。
「現実を見ろとおっしゃるのですか。ならば、私はその現実を変えたいと思います。諦めることだけが、現実を見ることではないはずです」
馨は驚いたように皐月を見上げた。その目に、かすかな動揺が走る。
「失礼なことを言ったなら、謝ります」馨は言った。「だが、私が言いたいのは——」
「けっこうです」
皐月はノートを手に取り、くるりと背を向けた。
「私、これで失礼します」
足早にラウンジを出ていく皐月の背中を、馨は複雑な表情で見送っていた。
五
雨は、夕方には上がった。
だが、皐月の心の中のわだかまりは、まだ消えていなかった。
船室に戻ってからも、馨の言葉が頭の中で繰り返し響いている。
『女性が、詩人として立つことは、まだ難しい時代です』
そんなことは、言われなくてもわかっている。女学校でも、家でも、何度も言われてきた。女には学問はいらない。詩など書いて何になる。早く良家に嫁いで、子を産み、家庭を守れ——
でも、それでいいのか。
皐月はノートを開き、ペンを手に取った。
『なぜ、女が詩を書いてはいけないのか。なぜ、世界を見てはいけないのか。私は、私自身の目で見たい。私自身の言葉で語りたい。その権利が、私にはあるはずだ——』
ペンが走る。言葉が溢れ出る。怒りが、文字となって紙の上に広がっていく。
書き終えて、皐月は我に返った。
これは詩ではない。ただの、叫びだ。
だが、悪くない、と思った。これもまた、自分の言葉なのだから。
夕食の時間が近づき、皐月は食堂へ向かった。
広い食堂には、長いテーブルがいくつも並べられている。すでに多くの乗客が席につき、思い思いに夕食をとっていた。賑やかな話し声。食器のぶつかる音。異国の料理の匂い。
皐月が席を探していると、不意に声をかけられた。
「橘さん」
馨だった。ひとりで隅のテーブルについている。
皐月は一瞬迷ったが、意を決して近づいた。
「先ほどは、申し訳ありませんでした」
馨は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「私の言い方が、あまりに無神経でした。あなたの志を、否定するつもりはなかった」
「いえ、私こそ、感情的になってしまって」
皐月も頭を下げた。
「よろしければ、ご一緒にいかがですか」
馨が席を勧める。皐月は素直にそれに従った。
給仕が夕食を運んでくる。洋食だった。スープ、魚料理、肉料理。皐月にとっては珍しい献立だ。馨は慣れた手つきでナイフとフォークを扱いながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私は、かつて詩人になりたいと思ったことがあります」
皐月は顔を上げた。
「若い頃、日本に留学していた時期がありましてね。その時に、文学に夢中になった。とくに詩に。自分でも書いてみた。でも——」
馨は少し自嘲的な笑みを浮かべた。
「現実というものに、ぶつかった。詩を書いても、食べていけない。家族は商人の道を継げと言う。結局、私はそちらを選んだ。だから、あなたの志を聞いて、羨ましくなったのかもしれない。そして、その羨ましさが、あんな言葉になってしまった」
「羨ましい?」
「ええ。あなたは、まだ戦っている。私は、もう諦めてしまったから」
馨の声には深い諦念が滲んでいた。
皐月は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「御厨さんは、今でも詩を書いてはいるのではありませんか」
馨は答えなかった。ただ、窓の外を見つめている。雨上がりの空には、かすかな星が見え始めていた。
「船の中だけの話にしておきましょう」
馨は言った。
「上海に着けば、私はただの商人です。あなたは旅行者。それぞれの現実に戻る。この船という境界を降りれば、また別の人生が始まる」
「でも——」
「これ以上は、やめておきませんか」
馨は穏やかに、しかし断固とした口調で言った。
皐月は口をつぐんだ。
夕食のあと、ふたりは甲板に出た。
雨はすっかり上がり、雲の切れ間から月が顔を覗かせている。海はまだ少し荒れていたが、昼間よりはずいぶん穏やかになっていた。波の音が、闇の中から規則正しく聞こえてくる。
月明かりが、海面に銀色の道を作っていた。
「明日の朝には、上海に着きます」
馨が言った。
「長いようで、短い船旅でした」
「はい」
皐月は頷いた。この船の上での時間が、もうすぐ終わる。そう思うと、不思議な寂しさがこみ上げてきた。
「橘さん」
馨が皐月の名前を呼んだ。
「あなたは、きっと良い詩人になれる。そう思います」
「どうして、そう思われるのですか」
「あなたの言葉には、力がある。自分の言葉を信じる力が。それは、何よりも大切なことです」
馨の声は、真摯だった。
「ありがとうございます」
皐月は素直に礼を言った。
「御厨さんこそ、もう一度、詩を書いてみてはいかがですか。私は、あなたの言葉を読んでみたい」
馨は、かすかに笑っただけだった。
「風が冷たくなってきました。そろそろ戻りましょう」
馨はそう言うと、皐月の返事を待たずに歩き出した。
皐月はその背中を見送りながら、心の中で呟いた。
——きっと、あなたは誰よりも詩を愛しているのに。
六
船は、翌朝、上海に到着した。
皐月は夜明けとともに目覚め、甲板に出た。
視界に飛び込んできた光景に、彼女は息を呑んだ。
黄浦江——。
黄土色に濁った広大な川の両岸には、まるで別の世界が広がっていた。
右岸には、西洋式の壮大な建物が立ち並んでいる。ギリシャ風の柱、ドーム状の屋根、ゴシック様式の尖塔。銀行、商館、ホテル、クラブ——それらは威圧的とも言えるほどの存在感で、朝陽を浴びて輝いていた。租界。西洋列強が清朝から奪い取った、もうひとつの世界。
左岸には、無数の中国式の家屋がひしめき合っていた。黒い瓦屋根、赤い提灯、細い路地。煙突からは朝食の支度をする煙が立ち上り、川岸には無数の小舟が停泊している。まさしく東洋の、古い中国の姿。
その対比は、あまりにも鮮やかだった。
西洋と東洋。富と貧困。新しいものと古いもの。それらが、一本の川を挟んで、渾然と存在している。
「これが、上海……」
皐月は手すりに掴まったまま、しばらく言葉を失っていた。
汽笛が鳴る。船がゆっくりと岸壁に近づいていく。水夫たちが慌ただしく動き回り、タラップの準備を始めた。
波止場には、すでに大勢の人々が集まっていた。荷物を運ぶ苦力たち。客待ちの馬車や人力車。出迎えの人々。様々な言語が入り混じり、耳をつんざくような喧騒が聞こえてくる。
「すごい……」
皐月の口から、思わず声が漏れた。
「初めて見る景色ですか」
背後から声がした。振り返ると、馨が立っていた。今日は濃紺のスーツではなく、やや略式のジャケット姿だ。手には革製の鞄を持っている。
「はい。これが、上海……」
「あなたがこれから見るものは、もっとすごい。良いものも、悪いものも。すべてが混ざり合って、混沌としている。それが上海です」
馨は静かに言った。
「気をつけて。この街は、時に人を飲み込みます」
「御厨さんは、これからどちらへ?」
「まずは商館へ戻ります。あなたは?」
「父の知人のところへ。租界に家があるそうです」
「そうですか」
馨は少し間を置いてから、胸のポケットから一枚の名刺を取り出した。
「何か困ったことがあれば、ここへ連絡を。微力ながら、お力になれるかもしれません」
皐月は名刺を受け取った。
『光亜商会 御厨馨』
そこには、それだけが印刷されていた。
「ありがとうございます。でも、本当によろしいのですか?」
「あなたには、借りがありますから」
「借り?」
「ええ。船の中で、忘れかけていた何かを、思い出させてもらいました」
馨はそう言うと、軽く帽子を上げて挨拶した。
「では、お元気で」
「御厨さん——」
皐月が呼び止めようとしたときには、馨はすでに人混みの中へと歩き出していた。
タラップが降ろされ、乗客たちが次々と船を降りていく。
皐月もトランクを手に、人の流れに乗った。
波止場に降り立つと、むっとするような熱気と、様々な匂いが押し寄せてきた。潮の香り、石炭の煙、香辛料、食べ物、人いきれ——
これが、上海。
皐月は、しっかりと地面を踏みしめた。
名刺を大切に鞄にしまい、彼女は新しい街への第一歩を踏み出した。
遠くで、馨の姿が人混みに消えていくのが見えた。
黄浦江の上を、汽笛の音が、いつまでもこだましていた。
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