黄浦江の境界

第二章 租界の迷宮

   一
 上海に降り立ってから、三日が過ぎた。
 皐月が滞在しているのは、共同租界のはずれにある日本人居留民の家だった。父の古い取引先である田村という貿易商の邸宅で、赤煉瓦造りの二階建て、小さいながらも庭には手入れの行き届いた松の木が植えられている。どこか日本を思い出させるその佇まいに、皐月は安堵と同時に、かすかな違和感も覚えていた。ここは上海なのに、まるで日本の一部を切り取って貼り付けたような空間だ。
 「おはようございます、皐月さん」
 田村の妻、節子が声をかけてきた。年の頃は四十半ば、優しげな顔立ちの女性である。
 「よく眠れまして?」
 「はい、おかげさまで」
 皐月は微笑んで答えたが、実際のところ、上海の夜は騒がしかった。通りを行き交う馬車の音、夜遅くまで続く物売りの声、時折聞こえる外国語の怒鳴り声。長崎の静かな夜に慣れた耳には、それらすべてが異様に響いた。
 「今日はどちらへ?」
 「少し、街を見てこようかと」
 「お気をつけて。租界の中はまだ安全ですが、一歩外に出ると、何があるかわかりませんから」
 節子のその言葉には、租界に住む日本人特有の警戒心が滲んでいた。租界という檻の中で守られているという意識。それは皐月にとって、少し息苦しくもあった。
 朝食を済ませ、皐月は外出の支度を整えた。萌黄色の小紋の着物に、紺の袴。女学校時代に着ていた袴姿は、動きやすく、かつ新しい時代の女性らしい装いだった。上海の街を歩くには、これが一番いいと判断したのである。
 玄関を出ると、湿気を含んだ生暖かい風が頬を撫でた。空は白く霞み、すでに日は高く昇っている。四月も半ばだというのに、上海の陽気は長崎の初夏に近い。
 皐月は通りに出た。
 途端に、世界が一変した。
 南京路——租界の中心を東西に貫く大通りである。両側には西洋式の壮大な建物が軒を連ね、その一階部分はみな商店になっている。絹織物、陶磁器、茶、香料、宝石——陳列された商品はどれも目を見張るばかりで、通りを埋め尽くす人々の人種も服装も、千差万別だった。
 白いスーツに山高帽の西洋人。長い辮髪を垂らした中国人男性。絹の旗袍に身を包んだ中国女性。ターバンを巻いたインド人の巡査。アラビア風の衣装をまとった商人。そして、皐月と同じ日本人もちらほらと見かける。
 行き交う言語もまた混沌としていた。英語、中国語、日本語、フランス語——それらが渾然一体となって、街全体が巨大な喧騒を作り出している。
 人力車が鈴を鳴らしながら走り抜け、二階建ての馬車が優雅に通り過ぎる。物売りの少年が、新聞や花や果物を手に、声を嗄らして客を呼んでいる。
 皐月はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
 圧倒的——。
 そうとしか言いようのない光景だった。長崎も異国情緒のある港町だが、上海のそれは比べ物にならない。ここでは、世界中のあらゆるものが混ざり合い、ぶつかり合い、新しい何かを生み出そうとしている。
 「これが、上海……」
 皐月は呟き、一歩を踏み出した。
 まず目指したのは、福州路だった。通称「文化街」。書店や出版社、新聞社が集中している通りだと、船の中で読んだ旅行記に書いてあった。詩人を志す者として、まず訪れるべき場所だと思ったのである。
 南京路から南へ下り、いくつかの横道を通り抜ける。租界の街路は碁盤の目のように整然と区画されていて、比較的歩きやすい。だが、一歩裏通りに入ると、そこはもう別の世界だった。
 狭い路地に無数の屋台がひしめき、湯気と油の匂いが立ち込めている。饅頭、麺、炒め物——見たこともない料理の数々。籠に入れられた生きた鶏。路上で棋を指す老人たち。洗濯物を干す女たち。すべてがむき出しで、生々しい。
 皐月はその熱気に当てられながらも、目を輝かせて歩き続けた。これこそが見たかったものだ。絵葉書のような綺麗な風景ではない、本物の人間の暮らし。そこには、詩の種になるような何かが、無数に転がっている気がした。
 福州路に着くと、なるほど書店が立ち並んでいた。漢籍を扱う老舗、洋書を扱う新興の書店、日本の書籍を置く店まである。皐月はまず、日本語の書店に入ってみた。
 店内は薄暗く、紙と墨の匂いが満ちている。棚には日本の新聞や雑誌、文芸書が並べられていた。東京で見かけるものと変わらない。だが、値段を見て驚いた。どれも日本の二倍近い値がついている。海を越えて運ばれてくる書籍は、それだけで贅沢品なのだ。
 「何かお探しですか」
 店主らしき初老の男性が声をかけてきた。眼鏡の奥の目が、好奇心を隠そうともせず皐月を見つめている。袴姿の若い女性がひとりで書店にいるのは、たしかに珍しいのだろう。
 「詩の本を探しています。新しいものを」
 皐月が答えると、店主はしばらく考えてから、棚の奥から二、三冊の雑誌を取り出してきた。
 「これなぞ、いかがでしょう。東京で出ている新しい文芸誌ですが、なかなか刺激的ですよ」
 皐月は一冊を手に取った。『明星』——東京で話題の文芸誌である。パラパラと頁を繰ってみると、与謝野晶子の短歌が目に飛び込んできた。

 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 皐月は息を呑んだ。この歌は知っている。女の情熱をこれほど率直に詠んだ歌が、かつてあっただろうか。世間からは非難も浴びたが、それでも晶子は詠み続けた。女として、ひとりの人間として、自分の想いを偽らなかった。
 「これ、いただきます」
 皐月は『明星』を数冊購入した。
 「お嬢さん、もし詩にご興味がおありなら」店主が声を潜めて言った。「面白い集まりがありますよ。今度の土曜日、虹口の辺りで、若い文学者たちが集まって詩を読み合う会があるそうです。日本人が中心ですが、中国人の参加者もいるとか」
 「文学サロン、でしょうか」
 「ええ、まあそんなところです。興味がおありなら、紹介状を書きましょう」
 皐月は迷わず頷いた。
   二
 虹口は、共同租界の北に広がる日本人居留民の多い地区だった。
 かつてはアメリカ租界だったが、今は日本領事館も置かれ、多くの日本人が暮らしている。日本料理屋、呉服屋、書店、そして日本人向けの医院まで揃っていて、まるで日本の地方都市をそのまま上海に移したかのような街並みである。
 土曜日の午後、皐月は教えられた住所を頼りに、その文学サロンが開かれるという家を訪ねた。
 四川北路から少し入った静かな通りに、その家はあった。中華風の門構えに、西洋風の窓を組み合わせた、上海らしい折衷様式の建物である。
 表札には『森田』と書かれていた。
 皐月が呼び鈴を鳴らすと、すぐに若い女中が現れ、奥の客間へと案内された。
 部屋にはすでに十人ほどの男女が集まっていた。年齢は二十代から三十代半ばといったところか。ほとんどが日本人だが、ひとりだけ明らかに中国の顔立ちをした女性が混ざっている。服装もさまざまで、和服の者もいれば、洋装の者もいる。
 「いらっしゃい。あなたが田村さんのところの?」
 主催者らしい男が近づいてきた。三十歳前後、眼鏡をかけた痩せ型の人物で、森田と名乗った。東京帝国大学を出て、今は上海で新聞社に勤めているという。
 「橘皐月と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
 皐月が丁寧に頭を下げると、森田はにこやかに手を振った。
 「硬くならないでください。ここではみんな、身分も肩書きも関係ない。ただ詩を愛する者同士、気楽にやりましょう」
 そう言われても、皐月は少し緊張していた。見渡す限り、自分が一番若く、しかも女性は彼女を含めて三人だけだ。文学の世界に女性が進出し始めているとはいえ、まだまだ少数派なのである。
 「どうぞ、おかけになって」
 声をかけてきたのは、あの中国の女性だった。年の頃は二十五、六。鮮やかな藍色の旗袍を着こなし、髪は後ろでひとつにまとめている。知的な輝きをたたえた瞳が印象的だった。
 「ありがとうございます」
 皐月がその隣に腰を下ろすと、女性は流暢な日本語で話しかけてきた。
 「はじめまして。劉翠蘭と申します」
 「日本語がお上手ですね」
 「日本に四年ほど留学していましたから。東京の女子高等師範学校です」
 翠蘭はそう言って、にこりと笑った。皐月は驚いた。女子高等師範といえば、日本の女子教育の最高峰である。そこに留学していたということは、彼女がよほどの才女だということだ。
 「私は橘皐月と申します。長崎から参りました」
 「長崎。いい街ですね。私も一度だけ訪れたことがあります」
 ふたりがそんな会話を交わしているうちに、サロンが始まった。
 まずは森田が最近読んだ詩集の感想を述べ、それから数人が自作の詩を朗読する。短歌あり、新体詩あり、翻訳詩あり。東京の文壇の動向や、西洋の新しい文学思潮についての議論も飛び交う。
 皐月は熱心に聞き入った。東京を離れてからというもの、こんなに濃密な文学の話に触れる機会はなかった。一つ一つの言葉が、乾いた土に染み込む水のように、心に沁みていく。
 「今日は新しい方もいらっしゃっているので」森田が皐月を見た。「何かお持ちでしたら、ぜひ」
 皐月は心臓が跳ねるのを感じた。自作を披露する度胸はなかったが、せっかくの機会を無駄にもできない。
 「では、最近読んだ詩について、少しお話しさせてください」
 皐月は立ち上がり、船の中で馨と交わした会話の断片を思い出しながら話し始めた。
 「新しい詩の形について考えています。西洋の形式を取り入れつつ、私たち日本人の感性で、あるいは東洋の心で、新しい表現を生み出せないかと」
 参加者たちが興味深そうに耳を傾ける。
 「たとえば漢詩の伝統と、西洋の自由詩の融合です。定型に縛られない自由なリズムと、東洋的な自然観や無常観を組み合わせることで、これまでにない詩が生まれるのではないか——」
 皐月がそう言いかけたとき、部屋の隅から声が上がった。
 「それなら、『黄瀛』の詩を読むべきだ」
 皐月は声の方を向いた。まだ若い、学生風の男性だった。
 「黄瀛……?」
 「知らないのか? 今、日本の文学青年の間で一番熱い話題だ。あんたが言ったことを、まさに体現している詩人だよ」
 「でも、匿名の詩人ですよね」別の男が口を挟んだ。「誰も正体を知らない。上海で書かれているらしいが、本当のところはわからない」
 黄瀛——。
 皐月は初めて聞く名だった。
 「その方の詩を、読んでみたいのですが」
 皐月がそう言うと、学生は嬉しそうに鞄から一枚の紙を取り出した。手書きで書き写したものらしい。広げてみると、こう書かれていた。

 租界の夜に
 瓦斯灯のにじむ霧の街
 東洋の月は煤けて沈み
 西洋の星は嘘をささやく
 我は誰ぞ
 黄浦江の濁りに映る影は
 中国でも日本でもなく
 ただひとりの人間の形

 皐月は、声に出して読んでいた。読み終えたとき、全身が震えているのに気づいた。
 衝撃だった。
 この詩には、観念ではない、本物の痛みがあった。西洋化するアジアの中で引き裂かれる自己。どちらにもなれない苦悩。それでもなお、「ただひとりの人間」であろうとする意志——。
 それは、皐月が感じていた漠然とした違和感を、鋭い言葉で抉り出したものだった。女であること、日本人であること、詩人になりたいと思うこと。そのすべての狭間で揺れる自分の姿が、この詩の中に見える気がした。
 「すごい……」
 皐月は声を絞り出した。
 「すごいだろう」学生は満足げに言った。「黄瀛の詩は、どれもこれもこんな調子だ。西洋かぶれでもなく、国粋でもない。本当の意味で、新しい詩だ」
 「黄瀛という名は、もちろん偽名でしょうね」森田が言った。「『黄』は中国の黄河や黄帝を思わせる。『瀛』は大海、とくに東シナ海の古い呼び名だ。つまり『中国と海』——アジアそのものを象徴するような筆名だ」
 「上海で書かれているというのは、本当なのですか」
 皐月が尋ねると、森田は肩をすくめた。
 「さあ。ただ、掲載されているのは上海で発行されている小さな同人誌でね。版元も編集者も、すべて匿名。ただ、詩だけがそこにある」
 「私は、この人が実在するのかさえ怪しいと思っています」翠蘭が静かに口を開いた。「もしかすると、複数の人間が書いているのかもしれない。あるいは——」
 彼女は言葉を切り、かすかに笑った。
 「誰かの、夢かもしれませんね」
 その言葉に、皐月はなぜか、船の上での馨の横顔を思い出していた。
 物憂げに海を見つめていた、あの目。
 『詩を書くということは、ただ、書き続けることです。誰に認められなくとも』
 胸の奥で、何かが音を立てて動いた。
 黄瀛——。
 あの詩を書いたのは、もしや——。
 だが、すぐに首を振る。馨は「ただの商人だ」と言っていた。詩を書くことを諦めたと。それに、これほどまでに成熟した詩を書ける人間が、なぜ匿名でいなければならないのか。
 「他にも、黄瀛の詩はあるのですか」
 皐月が尋ねると、学生はさらに数枚の紙を取り出した。
 「これが今のところ見つかっている全部だ。全部で八篇。どれも短いが、どれもすごい」
 皐月は夢中で読みふけった。
 租界の風景を詠んだもの。アジアの古代文明を思わせる壮大な一篇。失われた恋を暗示する哀切な調べ。そして、未来への希望をかすかに滲ませた断章——。
 どれも、同じ人物が書いたとは思えないほど多様でありながら、一本の芯が通っている。それは「自分とは何か」という問いだった。東洋と西洋、過去と未来、現実と理想——そのあらゆる裂け目の中で、それでも「私」であろうとする苦闘。
 皐月は、気がつくと涙をこぼしていた。
 「大丈夫?」
 翠蘭がそっとハンカチを差し出す。
 「すみません。でも、この詩は——」
 「わかるわ」翠蘭は優しく微笑んだ。「私も初めて読んだとき、同じだった。まるで自分のために書かれた詩のように感じた。自分の中にある言葉にならない何かを、誰かが言葉にしてくれた——そんな気持ち」
 皐月はハンカチで目元を押さえながら、もう一度、最初の詩を読み返した。

 黄浦江の濁りに映る影は
 中国でも日本でもなく
 ただひとりの人間の形

 この「黄浦江」という言葉——。
 馨は上海で働いていると言った。それも、貿易商だと。船の上で馨は、アジアの現状や女性の社会進出について冷めた口調で語りながら、文学の話になると人が変わったように熱を帯びた。そして、あの一言——。
 『境界の上にいるような気分になる』
 船は国と国の境界だと言った馨。どちらにも属せないと言った馨。その言葉と、黄瀛の詩があまりにも響き合う。
 もし、馨が黄瀛だとしたら——。
 なぜ匿名なのか。なぜ詩人であることを隠すのか。
 皐月の中で、馨の名刺に記された「光亜商会 御厨馨」の文字と、「黄瀛」という謎めいた筆名が、少しずつ重なり始めていた。
   三
 サロンが終わったのは、夕方近くになってからだった。
 参加者たちが三々五々帰っていく中、翠蘭が皐月を呼び止めた。
 「橘さん、よろしければ、今度お茶でもいかが? もう少し、あなたと話してみたいわ」
 皐月は嬉しくて、すぐに頷いた。上海に来てまだ数日、同年代の女性と親しくなる機会はこれが初めてだったからだ。
 「ぜひ、ご一緒させてください」
 「それじゃあ、明日、どうかしら。外灘の近くに、いい茶館があるの」
 「外灘?」
 「黄浦江沿いの遊歩道のことよ。租界の顔とも言われている場所。まだ見ていないなら、ぜひ案内するわ」
 翌日、皐月は約束の場所へと向かった。
 外灘は、租界の東端、黄浦江に面した一帯だった。前日、翠蘭に教えられた通りの場所に行くと、なるほど広い遊歩道が川沿いに続いている。右手には黄浦江の濁った流れ、左手にはギリシャ風の列柱を持つ銀行や商館の壮麗な建物群——それは、上海という街の本質を凝縮したような光景だった。
 「橘さん、こっちよ」
 翠蘭の声がした。遊歩道に面した瀟洒な茶館のテラス席に、彼女は座っていた。今日は薄紫の旗袍姿で、髪には真珠の飾りが揺れている。
 「素敵な場所ですね」
 皐月が向かいの席に座ると、翠蘭は嬉しそうに笑った。
 「ここから見る黄浦江が、私は一番好きなの。濁っているけれど、その濁りの中に、すべてが映っている気がする」
 茶館の給仕が近づき、翠蘭は慣れた様子で烏龍茶を注文した。ほどなく運ばれてきた小さな茶壺から、芳醇な香りが立ち上る。
 「上海にはもう慣れた?」
 「まだ全然。毎日が驚きの連続です」
 「そうでしょうね」翠蘭は茶を注ぎながら言った。「私も初めて日本に行ったときは、驚きの連続だった。畳の部屋、味噌汁、正座——何もかもが珍しくて。でも、カルチャーショックって、詩人にとっては宝物よね。見慣れたものが違って見える瞬間が、新しい言葉を生むのだから」
 「劉さんも詩を?」
 「私は批評の方が好き。でも、書く人の気持ちは理解しているつもり。私の周りには、詩を書く人が多いから」
 「ご家族が?」
 「いいえ」翠蘭は少し笑った。「私の家は、代々の商人。詩や文学とは無縁の世界よ。でも、上海にはいろんな人が集まるから、自然と文学の友人ができるの。商売の関係者の子弟にも、案外、文学志望が多いのよ」
 皐月は、ふと馨のことを思い出した。彼もまた、商人でありながら、詩を愛していた。
 「そういえば」皐月は慎重に言葉を選んだ。「上海には、光亜商会という商館があるそうですね」
 「光亜商会? ええ、知っているわ。うちの父も取引がある。たしか、若い御曹司が切り盛りしているはずよ。御厨さんといったかしら」
 皐月の心臓が跳ねた。
 「その方、ご存知ですか」
 「直接お会いしたことはないけれど、評判は聞いているわ。若いのに商才があって、租界の日本人社会では将来を嘱望されているって。でも——」
 翠蘭はそこで言葉を切り、少し首をかしげた。
 「ちょっと、謎めいた人でもあるらしいの。あまり社交の場には顔を出さないし、商売以外の話はほとんどしない。噂では、若い頃に日本で何かあったとか、文学に夢中になっていた時期があるとか——」
 「文学に?」
 「ええ、でも詳しいことは誰も知らないの。御厨さん自身が、過去のことを一切話さないから」
 皐月は、ますます確信を深めていた。馨が黄瀛なのではないか。彼が詩人であることを隠し、匿名で発表し続けているのは、過去に何かがあったからではないのか。
 「どうして光亜商会のことなんて?」翠蘭が不思議そうに尋ねた。
 「上海に来る船で、御厨さんとご一緒したのです。そのときに名刺をいただいて——」
 「まあ、そうだったの」翠蘭の目が輝いた。「それは面白い偶然ね。ねえ、来週、私の家で小さなパーティーがあるの。父が取引先の人たちを招くんだけど、光亜商会も招待しているはずよ。よかったら、あなたもいらっしゃらない?」
 「私が、ですか? でも、私はただの旅行者で——」
 「そんなの関係ないわ。上海では、人と人との繋がりこそが何より大切。それに、御厨さんともう一度お会いできるかもしれないでしょう?」
 翠蘭の瞳が、いたずらっぽく光った。
 皐月は少し迷ったが、結局、招待を受けることにした。馨に再会できるかもしれない——そう思うと、なぜか胸の奥が温かくなった。
   四
 劉家の邸宅は、共同租界の中心部、バンド(外灘)からほど近い場所にあった。
 赤煉瓦と白い石を組み合わせた三階建ての洋館で、門には中国式の石獅子が置かれ、庭には西洋式の噴水がある。まさに上海らしい折衷様式だ。劉家は代々、生糸と茶の貿易を手がける大商人で、租界の中国人社会でも屈指の名家だった。
 パーティーの夜、皐月は田村の妻・節子に手伝ってもらいながら、一張羅の訪問着に身を包んだ。淡い桜色の地に、流水と梅の花が描かれた着物である。髪は結い上げ、かんざしを挿した。鏡に映る自分の姿は、いつもより大人びて見える。
 「まあ、お美しい」
 節子が目を細めた。
 「きっと、お眼鏡にかなう殿方がいらっしゃいますよ」
 「からかわないでください」
 皐月は顔を赤らめたが、心のどこかで、馨の視線を意識している自分に気づいていた。
 夕刻、皐月は人力車で劉家へと向かった。
 門をくぐると、すでに多くの招待客が集まっていた。庭には色とりどりの提灯が灯され、テラスでは小さな楽団が西洋音楽を演奏している。客たちの服装も様々だ。燕尾服の西洋人、長衫の中国人紳士、和服の日本人、華やかなドレスに身を包んだ各国の女性たち——。
 「まあ、素敵!」
 迎えてくれた翠蘭は、金糸の刺繍が施された豪華な旗袍姿だった。
 「よく来てくれたわね。さあ、中へ。お父様にも紹介するわ」
 皐月は翠蘭に導かれて、大広間へと進んだ。
 広間はさらに華やかだった。シャンデリアの灯りがクリスタルガラスに反射し、壁には西洋絵画と中国の山水画が交互に掛けられている。長いテーブルの上には、中華料理と西洋料理が所狭しと並べられ、給仕たちが次々と新しい料理を運んでくる。
 翠蘭の父、劉明徳は、五十代半ばの堂々たる紳士だった。英語も日本語も堪能で、皐月に対しても「娘が世話になっている」と丁寧に挨拶してくれた。
 「上海は初めてとか。どうか、ゆっくりしていってください。若いうちに広い世界を見るのは、とてもよいことです」
 「ありがとうございます」
 皐月がそう言ったとき、翠蘭がそっと彼女の腕に触れた。
 「ほら、あそこ」
 翠蘭が視線で示した先——。
 広間の入口に、馨が立っていた。
 今夜の馨は、船の上で見た姿よりもずっと洗練されていた。濃紺の燕尾服に身を包み、胸元には白いカーネーション。髪はきちんと整えられ、表情には余裕の微笑みが浮かんでいる。
 それは、船で見せた物憂げな姿とは、まったく別人のようだった。
 これが、光亜商会の若き御曹司——租界の社交界で噂される、有能な実業家としての御厨馨。
 馨は会場を見渡し、主催者である劉明徳に挨拶するために歩き出した。その足取りは自信に満ち、すれ違う客たちに軽く会釈をしながら進んでいく。何人かの西洋人紳士が声をかけると、馨は流暢な英語で何か答え、笑い声を上げた。
 皐月は息を呑んだ。
 あの船の上で、海をじっと見つめていた男と、本当に同じ人間なのだろうか。
 「驚いた?」
 翠蘭が耳元で囁いた。
 「彼がああいう顔を持っていることを、あまり知らない人も多いのよ」
 「すごい……まるで別人みたい」
 「商人の仮面、と私は呼んでいるの」翠蘭は少し皮肉っぽく言った。「でも、仮面をかぶり続けていると、本当の顔を忘れてしまうこともある。そんな気がするわ」
 皐月は、馨の姿を目で追い続けた。
 馨は劉明徳と挨拶を交わしたあと、何人かの商人たちと話し込み始めた。相場の話、為替の話、政情不安の話——どれも皐月には縁遠い話題だが、馨は実に手際よく、かつ愛想よく会話を進めている。
 ときおり、馨がふと顔を上げて、会場を見渡すことがあった。そのたびに皐月は、彼の視線が自分に向けられるのを期待した。
 しかし、馨の目は皐月を素通りしていく。
 ——気づいていないのか、それとも、わざと無視しているのか。
 「さあ、行きましょう」翠蘭が皐月の手を引いた。「紹介してあげる」
 「で、でも——」
 「大丈夫。船で会った仲なんでしょう?」
 翠蘭は有無を言わさず、皐月を馨の方へと連れて行った。
 馨が会話を終えたタイミングを見計らい、翠蘭が声をかけた。
 「御厨さん、お久しぶりです」
 馨は振り返り、にこやかに笑った。完璧な社交の微笑みだ。
 「劉さん、お招きいただきありがとうございます。お父様にはいつもお世話になっております」
 「こちらこそ。あ、そうだ、こちら——」
 翠蘭が皐月を前に押し出した。
 「長崎からいらっしゃった橘皐月さん。船で御厨さんとご一緒だったそうですよ」
 馨の視線が、皐月に向けられた。
 その瞬間、彼の目にほんの一瞬だけ、何かが走った。驚きか、動揺か、あるいは警戒か——。しかし、それもすぐに消え、再び穏やかな微笑みが戻ってくる。
 「これは、橘さん。お元気でしたか」
 声もまた、船の上とは違っていた。打てば響くような快活さで、あの時の低く落ち着いた声とは別人のようだ。
 「おかげさまで。名刺をいただき、ありがとうございました」
 「いえ、大したお役にも立てず」
 馨はそう言うと、すぐに翠蘭の方に向き直った。
 「そういえば劉さん、先日お送りした生糸の見本はご覧いただけましたか?」
 話題を、明らかに変えようとしている。
 皐月は、胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。
 「御厨さん、船でお話ししたこと、覚えていらっしゃいますか?」
 皐月が口を挟むと、馨の目がかすかに揺れた。
 「ええ、もちろん。上海の見どころについて、少しばかりお話ししましたね」
 「そうではなく——詩の話です」
 馨の表情が、一瞬、凍りついた。
 「詩、でございますか」
 「ええ。船の中で、詩のお話をしました。新しい詩の形について。西洋と東洋の融合について。覚えていらっしゃいませんか」
 馨はしばらく皐月の目を見つめていた。その瞳の奥で、何かがせめぎ合っているように見える。
 「申し訳ありません」馨は静かに言った。「私はただの商人でして、詩のことはよくわかりません。何か人違いをされていませんか」
 「人違い——」
 「橘さん」馨の声が、ほんの少しだけ低くなった。「ここは上海です。租界というのは、そういう場所なのです。人はみな、何かを隠している」
 「それは——」
 「それでは、失礼します。劉さん、また後ほど」
 馨はそう言うと、くるりと背を向けて、別の客の群れの中へと消えていった。
 皐月は、その場に立ち尽くした。
 「ごめんなさい」翠蘭が心配そうに顔を覗き込む。「まさか、あんな反応をされるとは思わなくて。でも——」
 「いいえ、私の方こそ、突然変なことを言ってしまって」
 皐月は首を振ったが、心の中は混乱でいっぱいだった。
 どうしてあんなに否定するのか。どうして詩の話を避けるのか。隠している——馨は確かにそう言った。人はみな、何かを隠している、と。
 では、彼が隠しているのは、詩人「黄瀛」としての顔なのか。
   五
 パーティーの中盤、皐月はひとりで庭に出た。
 噴水のそばのベンチに腰を下ろし、深い溜息をつく。広間からは音楽と笑い声が聞こえてくるが、ここは静かだった。空には月がかかり、その光が噴水の水面に砕けて散っている。
 馨は、あれからずっと広間の奥で、さまざまな人々と会話を続けている。時折、その笑い声さえ聞こえてきた。皐月には、それがひどく遠い世界のことに思える。
 「なぜ、あんなことを——」
 呟いたときだった。
 「失礼、橘さんですね」
 英語だった。皐月が振り返ると、そこにはひとりの西洋人男性が立っていた。年の頃は三十代半ば、長身で金髪、鋭い目つきの男である。
 「はい、橘皐月ですが——」
 「私はアーサー・ウィリアムズ。『ノースチャイナ・スター・ニュース』の記者です」
 ウィリアムズはそう名乗ると、皐月の返事も待たずに隣に腰を下ろした。葉巻の煙が、風に流れてくる。
 「先ほど、御厨馨と話しているのを拝見しました。お知り合いで?」
 「船で、少しだけ」
 「そうですか」ウィリアムズは葉巻をくわえたまま、にやりと笑った。「彼は面白い男だ。有能な商人でありながら、どこか違う世界の住人のような雰囲気がある。あなたもそう思いませんか?」
 皐月は警戒しながらも、黙って頷いた。
 「私はね」ウィリアムズは声を潜めた。「彼には秘密があると思っている。商売以外の顔——たとえば、詩人としての顔がね」
 皐月は思わず声を上げそうになった。
 「ご存知なのですか」
 「調査中です」ウィリアムズは葉巻の灰を落とした。「『黄瀛』という匿名の詩人がいる。上海で活動しているらしい。日本人で、漢詩と西洋詩の両方に精通している。そして——」
 彼は皐月の目をじっと見つめた。
 「貿易商として、上海と長崎を頻繁に行き来している」
 皐月は、心臓が早鐘を打つのを感じた。この男は、馨の正体を暴こうとしている。それも、新聞記者として——。
 「なぜ、私にそんな話を?」
 「あなたもまた、何かを探しているように見えたからです」ウィリアムズは立ち上がった。「もし何か知っていることがあれば、いつでも訪ねてきてください。『ノースチャイナ・スター・ニュース』の編集部は、外灘の近くです」
 彼は名刺を差し出すと、軽く帽子を上げて、広間の方へと去っていった。
 皐月は名刺を手にしたまま、動けなかった。
 ウィリアムズの目は、獲物を見つけた狩人のそれだった。彼は、馨の秘密を嗅ぎつけている。そしてそれを新聞に書こうとしている——それが馨にとって、商会にとって、どれほどの打撃になるか、皐月にも想像がついた。
 詩人であることが、なぜスキャンダルになるのか。
 皐月には、それが悲しかった。馨の詩——もし彼が本当に黄瀛ならば——は、こんなにも美しいのに。人の心を打つ言葉を紡げることが、なぜ隠されなければならないのか。
 「やはり、あなたも気になっているのね」
 不意に、背後から声がした。
 翠蘭だった。
 「聞いていたの?」
 「少しだけ。あの記者は要注意よ。租界のゴシップを漁っては、面白おかしく書き立てる。とくに日本人社会のスキャンダルが大好きなの。『東洋人は野蛮だ』という記事を書きたいのよ」
 翠蘭は皐月の隣に腰を下ろした。
 「ねえ、橘さん。私はあなたに味方するわ。あなたが何を探しているのか、私は知っているつもり」
 「私が、何を?」
 「本当の詩を。本当の言葉を。そして、本当の——自分を」
 翠蘭の目は真剣だった。
 「御厨馨が黄瀛なのかどうか、私にはわからない。でも、あなたがそれを知りたいと思うなら、私はできる限り協力するわ」
 「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
 「あなたの目が、私に似ているから」
 翠蘭はそう言って、かすかに笑った。
 「私もかつて、日本で同じような目をしていた。自分が誰なのか、何者になれるのか、必死に探していた。そして今、上海に戻ってきて、あの記者のような人間を見ていると——守りたいものが出てくるの。言葉の力で、誰かが傷つけられるのを見るのは、耐えられない」
 皐月は、翠蘭の手を握った。
 「ありがとうございます。でも、私は——」
 「まずは、もう少し黄瀛の詩を集めてみましょう」翠蘭は立ち上がった。「私の知り合いに、あの同人誌の関係者がいるかもしれない。調べてみるわ」
 そう言うと、翠蘭は広間へと戻っていった。
 皐月はしばらく、噴水のそばに座り続けた。
 月が、少しだけ高く昇っている。
 広間の窓から、馨の姿がちらりと見えた。彼は相変わらず、完璧な商人の仮面をかぶって、客たちと談笑している。だが、その目はやはり、どこか遠くを見つめている——船の上で海を見つめていたときと同じように。
 人はみな、何かを隠している
 馨の言葉が、耳の奥で繰り返し響いた。
 皐月は決意を固めつつあった。馨の正体を暴くのではない。彼の本当の言葉を、詩を、この手で確かめたい。それが黄瀛の詩ならば、なおさらだ。
 彼がなぜ詩を隠すのか。なぜ匿名でなければならないのか。
 その理由を、知りたい。
 パーティーが終わりに近づいた頃、皐月は帰り支度を始めた。
 入口のホールで、偶然にも馨とすれ違った。
 「橘さん」
 馨が、低い声で呼びかけてきた。周囲に人がいないことを確認してから、彼は続けた。
 「先ほどは、失礼な言い方をしました。だが、これだけは言っておきます」
 「何でしょう」
 「深入りしない方がいい。あなたはまだ若い。詩人になりたいという夢があるなら、なおさらだ。この街の現実は、時に人を飲み込み、夢を粉々にする」
 「それは——ご自身の経験からですか」
 馨は答えなかった。ただ、その目に一瞬、深い痛みが走ったのを、皐月は見逃さなかった。
 「おやすみなさい、橘さん」
 馨はそれだけ言うと、早足で去っていった。
 皐月は、その背中をじっと見つめていた。
 彼の本当の声が、今、かすかに聞こえた気がした。仮面の下から漏れた、ほんの一瞬の本音——。
 それは、黄瀛の詩に通じる響きを持っていた。
 「必ず、見つけます」
 皐月は心の中で誓った。
 御厨馨が隠している真実を。そして、自分自身が本当に書きたい言葉を。
 上海の夜は、まだ始まったばかりだった。
< 2 / 6 >

この作品をシェア

pagetop