黄浦江の境界
第六章 桜の咲く国で
一
明治三十二年、四月。
東京・神田の街は、桜の季節を終え、青葉が輝く初夏の陽射しに包まれていた。
狭い路地に面した小さな出版社「光琳社」の二階で、御厨馨は窓辺に立ち、街の風景を静かに見つめていた。通りには学生たちが闊歩し、書店の前では新刊を待つ人々が行列を作っている。遠くで、鉄道馬車の鈴の音が響き、活版印刷の機械の音が規則正しく聞こえてくる。
「馨さん、もうすぐですよ」
声がして振り返ると、皐月が立っていた。薄紫色の訪問着に身を包み、髪は後ろでひとつにまとめている。上海で出会った頃より少し大人びたが、その瞳の輝きは変わらない。
「ああ、わかっている」
馨は机に戻り、一冊の本を手に取った。
『黄浦江の夜明け』——。
深緑色の表紙に、金箔押しの題字。頁を開くと、活字のインクの香りがかすかに漂う。一頁、また一頁とめくっていくと、そこには三年間の歳月をかけて紡いできた詩の数々が収められていた。
「ついに、この日が来たな」
馨の声は静かだが、その奥には抑えきれない感情が込められていた。
「ええ。あなたが本名で初めて出す詩集です」
皐月は馨の隣に立ち、そっと彼の腕に手を置いた。
「黄瀛としてではなく——御厨馨として」
「黄瀛——」
馨は遠くを見るような目で呟いた。
「あの名前があったから、私は詩を続けられた。匿名でなければ書けなかった詩があった。だが、これからは違う。自分の名前で、自分の詩を書く。それが、私が上海で誓ったことだから」
馨は机の引き出しから一通の古い封筒を取り出した。黄ばんだ便箋には、震えた文字で詩が綴られている——かつて馨が「絶筆」として発表した最後の詩の草稿である。
『筆を折る』
『黄浦江の濁りよ さらば』
『瓦斯灯の霧よ さらば』
『——流れよ 流れよ 海へ 海へ』
「あのとき、私は本当に詩を捨てるつもりだった」
馨は静かに語り始めた。
「自分の詩が原因で商会が傾き、取引先からは信用を失い、父にも心配をかけた。私の詩は、誰にも必要とされていない——そう思い込んでいた。むしろ、詩など書かなければよかったのだと」
「でも——」
「でも、君が違うと言ってくれた」
馨は皐月の顔を見つめた。
「君が私の詩を読み解き、その価値を証明してくれた。黄瀛の詩に救われたと言ってくれた。そして何より——君自身が詩を書き、私に届けてくれた。あの『黄浦江の夜明け——馨に』という詩は、私が生まれて初めて、自分宛てに書かれた詩だった」
皐月の目に、涙が浮かんだ。
「私も——あの時は必死でした。あなたが詩を捨てると聞いて、何とかしなければと思って。でも、詩を書くことでしか、私の想いは伝えられなかった」
「君の詩は、私の心の壁を破った。私が自分で築き上げた絶望の壁を、君の言葉が打ち砕いた。それで私は——もう一度、生きようと思えた。詩人として、そしてひとりの人間として」
馨は封筒をしまい、そっと皐月の肩を抱き寄せた。
「ありがとう、皐月。君がいなければ、この詩集は存在しなかった」
「いいえ、馨さん。この詩集は、あなた自身が勝ち取ったものです。私はただ——あなたの詩を信じただけ」
二人はしばらく、黙って寄り添っていた。窓の外では、神田の街が新しい一日を始めている。印刷所から聞こえる活版の音が、まるで新しい時代の鼓動のように響いていた。
二
光琳社は、馨が東京に移り住んでから一年後に設立した小さな出版社だった。
上海での経験を経て、馨は貿易業と出版業の両立を志した。貿易は番頭に上海を任せ、自分は東京で新しい事業を始めたのである。出版社の名前「光琳」には、「光の輪」——人と人を結ぶ輪、詩と言葉が光り輝く場所——という意味が込められていた。
最初は神田の小さな借家から始めた。馨が上海で培った貿易のノウハウを活かして洋紙や印刷機械を輸入し、一方で文学の知識を活かして詩集や文芸書の出版を手がけた。
社員は当初、馨を含めて三人だけだった。元書店員の若者と、上海から呼び寄せた中国人の植字工、そして馨自身である。編集、営業、経理——すべてを兼ねながらの船出だった。
「本当にやっていけるのでしょうか」
創業当初、皐月が心配そうに尋ねたことがある。
「わからない」馨は正直に答えた。「でも、やってみなければ何も始まらない。上海で学んだことだ——リスクを取らなければ、新しいものは生まれない」
光琳社の最初の出版物は、馨自身が翻訳した中国現代詩のアンソロジーだった。上海で出会った若い中国人詩人たちの作品を集め、日本語に訳したものである。それは商業的には成功しなかったが、文学界の一部で注目を集めた。
「黄瀛の詩を愛読していた者です。上海から帰って、こんな出版社を始めました」
馨は自分から黄瀛の正体を明かすことはしなかった。しかし、文学仲間の間では次第に噂が広がり、森田や周文英をはじめ、かつて上海で馨を支えた仲間たちが、原稿を持ち込むようになった。
「黄瀛先生——いや、御厨さん。僕たちも、上海でのような文学の場を東京で作りたいんです」
森田は上海の新聞社を辞めて東京に戻り、光琳社の編集者として加わった。
「上海で黄瀛の詩に出会った衝撃を、今度は僕たちが次の世代に伝えていく番です」
こうして光琳社は、新しい詩の出版社として、少しずつ地歩を固めていった。
そして、創業から三年目にして、満を持して刊行されるのが、馨の第一詩集『黄浦江の夜明け』だったのである。
三
発売日は四月十五日と決まった。
その日が近づくにつれて、馨と皐月、そして光琳社の社員たちは準備に追われた。印刷所との校正のやり取り、取次店への営業、書店への宣伝——小さな出版社にとって、一冊の詩集を世に出すことは、それだけで大仕事だった。
「装丁は、やはりこの色で」
皐月は表紙の色見本を馨に見せた。深緑色——黄浦江の濁った水の色であり、同時に、新しい命が芽吹く若葉の色でもある。
「題字は、誰に頼みましょうか」
「陳老師に——と頼みたかったが、上海にいては難しいな」
馨は少し考えてから言った。
「ならば、私が書こう。毛筆で。漢詩の教養を活かして——」
「あなたが?」
「ああ。私の詩集だ。私の手で題を書く。それもまた、詩人の仕事だろう」
馨は数日かけて、何枚も何枚も題字を書いた。墨を擦り、筆を執り、一文字一文字に魂を込める。出来上がった題字は、力強く、それでいて繊細で——まさに馨の詩そのもののような字だった。
帯の文章は皐月が考えた。
『かの「黄瀛」が、本名で世に問う第一詩集。東洋と西洋の狭間で苦悩し、ひとりの女性との運命の出会いを経て、新しい詩の地平を切り拓いた若き詩人の、魂の記録。』
「ひとりの女性、とは——私のことですか」
皐月が少し照れながら尋ねた。
「君以外に誰がいる」
馨は真顔で答えた。
「でも、目立ちすぎませんか。私はまだ何も成し遂げていない——」
「君は私を救った。それだけで、十分に意味のある人生だ。そして君はこれから、もっと大きなものを成し遂げるだろう。この帯の文章は、未来の君への賛辞でもあるんだ」
「馨さん——」
皐月は帯の文章をじっと見つめてから、静かに頷いた。
「わかりました。でもいつか、私も自分の詩集を出したときには、帯に『御厨馨の妻』ではなく『橘皐月』とだけ書いてください」
「もちろんだ」
馨は微笑んだ。
詩集に収める詩の選定は、馨と皐月が二人で行った。
黄瀛時代の詩も、数篇だけ収録することにした。ただし、それらは「参考作品」として、本名で書かれた詩とは区別して掲載される。その選定作業を通じて、馨は自分の過去と改めて向き合うことになった。
「この詩は——」
皐月が指さしたのは、「租界の夜に」だった。
『瓦斯灯のにじむ霧の街 東洋の月は煤けて沈み 西洋の星は嘘をささやく——』
「この詩が、すべての始まりでした。私があなたの詩を初めて読んだのも、この詩でした。文学サロンで、森田さんたちが熱心に語り合っていて——」
「あの詩は、私が最も苦しかった時期に書いたものだ」
馨は遠い目をした。
「自分が何者なのかわからなかった。日本人でも中国人でもなく、詩人でも商人でもない——。ただ、境界の上で立ち尽くしているだけの自分が、情けなかった」
「でも、その詩があったから、私はあなたに近づきたいと思った。あなたの詩の中にある苦しみが、私自身の苦しみと響き合う気がして——」
「そうか——」
馨はしばらく黙ってから、静かに言った。
「この詩は、収録しよう。黄瀛としての最後の詩と、御厨馨としての最初の詩を、同じ本に収める。それが、私の誠実さだと思う」
最終的に収録された詩は、全部で三十二篇。黄瀛時代の七篇と、本名で新たに書いた二十五篇。それらは時系列に並べられ、馨の内面の変化が読者に伝わるように構成された。
最後に収められたのは、「桜の国で」と題された一篇だった。
黄浦江の濁りを越え
東シナ海の碧を越え
私はついに ここに立つ
君が生まれ育った この国に
桜は散り また咲き
人生は過ぎ また始まる
境界の上でなく
君の隣で生きることを
私は選んだ
これからも書き続ける
君が教えてくれたから
詩には力があると
言葉は心を救うと
桜の国で
私はもう一度 詩人になる
この詩を清書した夜、馨は皐月に言った。
「この詩は、君への手紙だ。上海で君がくれた詩への、三年越しの返事でもある」
皐月は声を詰まらせた。
「返事——」
「ああ。君が『黄浦江の夜明け』をくれたとき、私はまだ返事を書けなかった。あの時は、自分自身を取り戻すことで精一杯だったから。でも今なら書ける。君への感謝と、未来への誓いを——」
「馨さん——」
「君と生きることを選んだ。境界の上ではなく、君の隣で。それが、私の答えだ」
二人は、神田の小さな部屋で、固く抱きしめ合った。
窓の外では、初夏の風が通りを抜け、どこからか植木の青葉がさやさやと音を立てていた。
四
発売日の朝は、快晴だった。
皐月は早くに目を覚まし、神田の街に出た。書店の前には、開店前からすでに人だかりができている。若い文学青年たち、袴姿の女学生、中国人留学生らしき若者——。彼らは皆、待ちかねたように店の前に集まっていた。
「『黄浦江の夜明け』はまだですか」
「黄瀛先生の正体がついに明かされるんだって」
「黄瀛じゃない、御厨馨だ。本名で出す初めての詩集だぞ」
人々のざわめきが、朝の街に満ちている。皐月はその光景を少し離れたところから見守りながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
——馨の詩が、こんなにも待たれている。
上海で匿名で発表されていた詩が、海を越え、国を越え、これほど多くの人の心に届いていたのだ。その事実が、皐月には何よりも嬉しかった。
開店と同時に、人々は書店に雪崩れ込んだ。店員が用意していた初版五百部は、またたく間に売れていった。店の前では、買えなかった人々が次の入荷を待って列を作っている。
その中に、見知った顔があった。
「森田さん!」
皐月が声をかけると、森田は嬉しそうに手を振った。
「皐月さん! すごい人気だ。初版だけではとても足りない。増刷の手配を急がないと」
「ええ、馨さんに伝えます」
「それから——」
森田は列の後ろを指さした。
「あそこにいるのは、誰だと思います?」
皐月が目を凝らすと、人混みの中に異国の風貌の紳士が立っていた。金髪、長身、きちんと整えられた口髭——。
「デュボワさん!」
ポール・デュボワは皐月に気づくと、にこやかに近づいてきた。
「マダム御厨、お久しぶりです」
フランス語訛りの日本語で、彼は挨拶した。
「デュボワさん、日本にいらしていたのですか」
「ええ、馨の詩集が出ると聞いて、どうしても手に入れたくて。上海から船で参りました」
「そんな——わざわざ上海から?」
「当然です。黄瀛——いや、御厨馨は、現代東洋の最も重要な詩人のひとりです。彼の初めての本名詩集を見逃すわけにはいかない」
デュボワは手にしたばかりの『黄浦江の夜明け』を大切そうに抱えていた。
「それに、私の友人たちからも頼まれていましてね。上海の文学サロンでも、この詩集の話題で持ちきりです。『ノースチャイナ・スター・ニュース』ですら、今では黄瀛の詩を真剣に論じる記事を載せている。あのアーサー・ウィリアムズは、編集部から外されましたよ」
「そうだったのですか——」
皐月は感慨深く呟いた。
「歴史は、真の詩人に味方するものです」
デュボワはそう言って微笑んだ。
五
昼過ぎ、書店の二階で小さな祝賀会が開かれた。
集まったのは、馨と皐月、森田、そして光琳社の社員たち。それに、上海から駆けつけた周文英や、東京の文学仲間たちも加わった。狭い部屋は人で溢れ、笑い声とお祝いの言葉が飛び交っている。
「黄瀛先生——いや、御厨先生」
周文英がグラスを手に立ち上がった。
「私は、上海であなたの詩に出会い、どれほど励まされたかわかりません。今日、こうしてあなたが本名で詩集を出されたこと——それは私たち中国人の文学者にとっても、大きな希望です」
「ありがとう、周さん」
馨は深く頷いた。
「私の詩は、漢詩の伝統がなければ生まれませんでした。その意味で、私は中国の文化にも大きな恩義があります。これからは、自分の詩を通じて、日本と中国の架け橋になれれば——そう願っています」
「架け橋——」
「ええ。詩には、国境を越える力がある。言葉は、海を越え、人の心を繋ぐ。上海で教わったことです」
馨の言葉に、周文英は深く感銘を受けたように頷いた。
「私も上海に戻ったら、あなたの詩を中国語に訳して広めます。そして、中国の若い詩人たちの作品を、光琳社から出版してもらえませんか」
「もちろんです。それが私の夢でもある。東洋の新しい詩を、共に作り上げていきたい」
二人は固く握手を交わした。
その様子を、皐月は少し離れた場所から見守っていた。
上海で出会った頃の馨は、どこか孤独で、閉じこもっていて、自分自身を偽らなければ生きていけない人だった。しかし今は違う。彼は、自分の詩を信じ、自分の名前で世界と向き合い、そして多くの仲間たちと共に歩こうとしている。
「馨さん——」
皐月が近づくと、馨は振り返って微笑んだ。
「どうした、皐月。涙ぐんでいるのか」
「嬉しくて——」
皐月はハンカチで目元を押さえた。
「あなたが、こんなにたくさんの人に囲まれている。あなたの詩が、こんなに多くの人に待たれていた。それが——本当に、嬉しくて」
「これは、君のおかげでもある」
馨は皐月の手を取った。
「君が私の詩を信じてくれなければ、私はここにいなかった。君が私の詩を救ってくれなければ、この詩集も生まれなかった。だから——ありがとう、皐月」
二人は、仲間たちの温かい眼差しの中で、そっと抱きしめ合った。
六
夕暮れが近づき、祝賀会が終わると、馨と皐月は二人で神田の街を歩いた。
書店の明かりがぽつりぽつりと灯り始め、学生たちが下宿へと帰っていく。遠くで、鐘の音が鳴り響いた。
「少し、歩かないか」
馨が言った。
「どこへ?」
「神田川のほとりだ。桜の季節は終わったが、あのあたりは静かで、話をするのにちょうどいい」
二人は神田川沿いの小道を歩いた。川面には夕陽が映り、柳の枝が風に揺れている。桜の木々はすでに青葉に覆われ、その下を人々が思い思いに散策していた。
「ねえ、皐月」
馨が立ち止まった。
「今日、詩集が出て、ひとつの区切りがついた。だから——今日、君に話したいことがある」
「何でしょう」
馨はしばらく沈黙し、それから静かに語り始めた。
「私はこれまで、詩を書くことで生きてきた。詩がなければ、私はとっくに壊れていただろう。でも——」
馨は皐月の目をまっすぐに見つめた。
「今は違う。詩を書くことは、苦しみから逃れる手段ではない。誰かのために、未来のために、そして——君のために書くことが、私の生きる意味になった」
「馨さん——」
「皐月、私は君と結婚して、本当によかったと思っている。君は私の詩を理解し、私自身を受け入れてくれた。君がいてくれるだけで、私はどんなに辛くても前に進める」
「私もです。馨さんがいてくれるから、私は詩を書き続けられる。あなたに教わったことを胸に、自分の言葉を紡いでいける——」
「それで、今日、改めて誓いたいんだ」
馨は皐月の両手を取った。
「私はこれからも詩を書き続ける。御厨馨として——黄瀛の遺産を受け継ぎながら、新しい詩を生み出していく。そして、君の詩も、これからもずっと応援し続ける。君が詩人として成長し、いつか自分の詩集を出す日まで——いや、その先もずっと」
「馨さん——」
「そして、いつか——」
馨は少し言い淀んでから、続けた。
「いつか、私たちの子供が生まれたら、その子にも伝えたい。言葉の力を。詩の美しさを。そして、国を越え、時代を越えて、人の心を繋ぐものの尊さを——」
皐月の目から涙がこぼれ落ちた。
「はい——はい、馨さん。私も、そう願っています」
二人は神田川のほとりで、夕陽を浴びながら、固く抱きしめ合った。
遠くで汽笛が鳴る。船が、新しい航海に出る合図だ。
あの上海の船の上で初めて出会った日から、三年——。境界の上で立ち尽くしていた二人は、今、確かな場所に立っている。
それは、詩の力と、愛の力が導いてくれた場所だった。
七
その夜、光琳社の二階で、馨と皐月は静かに過ごした。
書斎の机には、刷り上がったばかりの『黄浦江の夜明け』が積まれている。インクの香りが部屋に満ち、開いた頁からは馨の言葉の数々が立ち上ってくるようだった。
「今日、デュボワさんが言っていたこと——」
皐月が窓辺に座りながら言った。
「アーサー・ウィリアムズが編集部を外されたって。あの時は、彼の記事のせいでどれだけ苦しんだか——。でも今となっては、あれも必要な試練だったのかもしれませんね」
「そうかもしれないな」
馨は茶を啜りながら答えた。
「もし彼がいなければ、私の詩がこれほど注目されることもなかったかもしれない。秘密が暴かれ、窮地に追い込まれ、そして君や仲間たちが立ち上がってくれた——そのすべてがあったから、今の私がある」
「でも、もうあんな思いはしたくないですね」
「ああ。だからこそ、私はもう秘密を作らない。すべてを明かして生きていく。詩人であることも、商人であることも、すべてが私自身だと——胸を張って言える」
馨は立ち上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。
「これを見てくれ」
「何ですか?」
「次の詩集のための草稿だ」
皐月は驚いてノートを受け取った。頁を開くと、そこには新しい詩の断片がいくつも書き留められている。
「もう次を考えているのですか」
「ああ。『黄浦江の夜明け』は、過去の清算の詩集だった。黄瀛から御厨馨への移行——それは必要な作業だったが、いわば過去との対話だ。これからは、未来に向けて詩を書きたい」
「未来、ですか」
「東京での生活、君との日々、そして——」
馨は少し恥ずかしそうに言った。
「これから生まれてくるかもしれない、新しい命のこと。それを詩にしたい」
皐月は胸が熱くなった。
「馨さん——」
「まだわからないけれど。でも、もし子供ができたら、その子に伝えたいことがたくさんある。詩のこと、言葉のこと、上海で学んだこと——そして、君と出会って私が変わったこと」
馨は皐月の隣に座り、そっと彼女の肩を抱いた。
「私はこれまで、自分が親になるなんて想像したこともなかった。自分のことで精一杯で、誰かを育てる自信なんてなかった。でも——今は違う」
「違う、とは?」
「君がいるからだ。君と一緒なら、どんな未来も怖くない。子供ができたら、きっと楽しいだろう。詩を教えたり、上海の話を聞かせたり——。君が母親で、私が父親だ。それだけで、世界は素晴らしいものになる気がする」
皐月は馨の胸に顔を埋めた。
「私も——私も、あなたとの子供に、たくさんのことを伝えたいです。言葉の力、詩の美しさ、そして——」
「そして?」
「境界を越えて、人を愛することの素晴らしさを」
馨は皐月を抱きしめる腕に力を込めた。
「ああ。それが、私たちが上海で見つけた答えだ」
二人はしばらく、黙って寄り添っていた。窓の外では、神田の夜が静かに更けていく。瓦斯灯の灯りが街を照らし、遠くで汽笛が鳴る——あの上海の夜のように。
八
それから数週間が過ぎ、『黄浦江の夜明け』の評判はますます高まっていった。
新聞や文芸誌には次々と書評が掲載され、文学者たちの間で馨の詩が真剣に論じられるようになった。とくに、「黄瀛」から「御厨馨」への移行をテーマにした評論が多く、匿名詩人が本名で世に出ることの意味が様々な角度から考察された。
「詩集の第二版の準備を急がないと」
森田が光琳社に駆け込んできたのは、発売から二週間が経った頃だった。
「初版は完売です。地方の書店からも注文が殺到しています。少なくとも千部は増刷しないと——」
「そんなに?」
馨は目を丸くした。
「ええ。とくに長崎や上海からの注文が多い。黄瀛時代からの読者が、本名での詩集を待ちかねていたんですよ」
皐月はそれを聞きながら、長崎の実家に手紙を書いた。父に、そして上海の陳老師に、詩集の成功を報告する手紙である。
陳老師へ
お元気でいらっしゃいますか。上海はもう梅雨の季節でしょうか。
おかげさまで、馨の詩集『黄浦江の夜明け』は大きな反響をいただいております。書店には長い行列ができ、初版はすぐに完売いたしました。
この成功は、老師が長年にわたって馨の詩を支えてくださったおかげです。老師のご指導がなければ、馨は詩を続けることも、本名で世に出ることもできなかったでしょう。心よりお礼を申し上げます。
私もまた、自分の詩集を出す準備を始めました。まだまだ未熟ですが、老師に教わったことを胸に、一歩ずつ進んでまいります。
いつか、東京か上海で、再びお会いできる日を楽しみにしております。
手紙を書き終え、皐月は窓の外を見つめた。夏が近づき、空は高く、雲は白く輝いている。
あの上海の霧の日々が、遠い過去のようにも、つい昨日のことのようにも感じられた。
「皐月、ちょっと来てくれないか」
階下から馨の声がした。
降りていくと、馨は机の上に数枚の紙を広げていた。
「君の詩集の企画だ。光琳社の第二詩集として、秋までに出したい」
「本当ですか?」
「ああ。君が上海で書いた詩と、東京に来てから書いた詩をまとめよう。題は——君が言っていた『長崎の桜』でどうだ」
「でも、私はまだ——」
「まだ、何だ」
馨は皐月の言葉を遮った。
「君の詩は、すでに多くの人の心を打っている。上海の文学サロンで君が発表した詩を覚えているか? あの時、参加者たちがどれほど感動していたか。そして——何より、君の詩は私を救った。それは、誰にでもできることじゃない」
「馨さん——」
「自信を持て、皐月。君はすでに詩人だ。あとは、それを世に示すだけだ」
馨は皐月の肩に手を置いた。
「私が光琳社を始めたのは、君のような詩人を世に出すためでもあるんだ。東洋の新しい詩——女性の詩人の声を、もっと多くの人に届けたい」
皐月は深く息を吸い、それから静かに頷いた。
「わかりました。やります。『長崎の桜』——私の第一詩集です」
「よし。では、さっそく詩の選定を始めよう。収録する詩は、君が決めていい。私はただ、それを支えるだけだ」
その日から、皐月の詩集作りの日々が始まった。
九
皐月の詩集『長崎の桜』の準備は、馨の詩集以上に丁寧に進められた。
「君の詩は、私の詩とは違う魅力がある」
馨は皐月の原稿を読みながら言った。
「私の詩が苦悩や葛藤から生まれているのに対して、君の詩は——観察と共感から生まれている。上海の路地裏で見た風景、船の上で感じた風、人々の暮らしの中にある小さな喜びや悲しみ——君はそれらを、優しく掬い上げて詩にしている」
「でも、私はまだ——もっと深く、人の心の闇のようなものを書けていません」
「それは、これから書けばいい。詩人は一生未熟なものだと、陳老師も言っていただろう。大切なのは、今の君にしか書けない詩を、今書くことだ」
皐月は自分の原稿を見つめ直した。
上海で書いた詩——租界の風景、文学サロンでの出会い、そして馨への想いを綴った詩。
東京に来てから書いた詩——神田の街、結婚生活、そして新しい未来への希望。
それらはどれも、皐月自身の人生そのものだった。
「私、やっぱりこの詩を入れたいんです」
皐月が差し出したのは、「黄浦江の夜明け——馨に」だった。
「あの時、あなたに届けるために必死で書いた詩です。私の詩人としての原点であり、そして——私たちの愛の原点でもある」
「もちろんだ。あの詩がなければ、今の私はいない」
馨はその詩を読み返し、しみじみと言った。
「これを読むたびに、あの日のことを思い出す。病床で、君の詩を読んで、涙が止まらなかった。自分がこんなに必要とされているとは、夢にも思わなかった——」
「私も、あなたに届くとは思っていませんでした。でも、届けるしかなかった。言葉が、境界を越えると信じていたから」
「君の信じた通りだ。言葉は、境界を越えた。黄浦江を越え、海を越え、私の心の壁さえも越えて——」
馨は皐月の詩を、そっと胸に抱いた。
「この詩は、私たちの宝だ。そしてこれからは、世界中の読者の宝になる」
『長崎の桜』の装丁は、馨が自ら手がけることになった。
「題字は、今度は私が書こう」
馨は筆を執り、一文字一文字に想いを込めて「長崎の桜」と記した。
「馨さんの字は、力強いですね。私の詩にふさわしい——立派すぎるくらいです」
「そんなことはない。君の詩には、静かな強さがある。見かけは優しいが、芯は強い——まるで桜の木のように」
「桜の木——」
「ああ。桜は美しい花を咲かせるが、その根は地中深く張っている。風雨に耐え、冬を越え、それでも春になれば必ず花を咲かせる。君の詩も、そうあってほしい」
皐月は馨の言葉を胸に刻んだ。
詩集の最後には、馨の詩集に収められた「桜の国で」への応えとして、皐月が新たに書いた一篇が収められることになった。
題は「境界を越えて」。
あなたが海を越えて来たように
私もまた 境界を越える
女であることの境界
若さの境界
すべての「できない」という境界を
あなたが教えてくれた
詩には力があると
言葉は心を救うと
ならば私も 書くだろう
誰かの心に届く日まで
桜の国で
私はもう一度 詩人になる
あなたの隣で
私の言葉で
私の人生を紡ぐために——
「素晴らしい詩だ」
馨は読み終えて、深く息を吐いた。
「君はもう、私の教え子ではない。一人前の詩人だ」
「馨さん——」
「私はこれからも君を支える。しかしそれは、師としてではなく、人生の伴侶としてだ。君の詩は君だけのものだ。それを、誰よりも近くで見守っていける——それが私の幸せだ」
二人は見つめ合い、そっと微笑み合った。
十
夏が過ぎ、秋が訪れた。
十月、神田の書店で、橘皐月の第一詩集『長崎の桜』が発売された。
表紙は淡い桜色。題字は馨の手による力強い毛筆。帯には「『黄浦江の夜明け』の詩人・御厨馨が最も信頼する若き女性詩人、待望の第一詩集」と記されている。
発売日、皐月は書店の二階から、その光景を見守っていた。
『黄浦江の夜明け』のときほどの行列ではない。しかし、確かに人々は皐月の詩集を手に取り、頁を開き、言葉を読み始めている。若い女性たち、学生たち、そして——皐月と同じように詩人を志す者たち。
「売れているな」
馨が隣に立った。
「私の詩集のときより、女性の読者が多い。君の詩は、とくに女性の心に響くものがあるのだろう」
「でも、まだ——こんなに緊張するなんて」
皐月は胸に手を当てた。
「自分の言葉が、知らない誰かに読まれる。それが、これほど怖いものだとは——」
「その怖さを感じるのは、君が本気で詩を書いている証拠だ」
馨はそっと皐月の手を握った。
「自分の言葉に責任を持つこと。それが詩人としての第一歩だ。君はもう、その一歩を踏み出した」
「馨さん——」
「私はこれからも、君の詩を見守り続ける。君がどんな詩を書いても、私は君の一番の読者であり続ける。だから——自信を持って、書き続けてくれ」
皐月は馨の手を握り返した。
「はい。私は書きます。これからもずっと——あなたと共に」
午後、皐月は書店を訪れた読者たちと直接話す機会を得た。
若い女学生が、おずおずと近づいてくる。
「あの——橘皐月先生ですか」
「はい、橘です。でも、先生だなんて——」
「私、『境界を越えて』という詩に、とても勇気をもらいました。私も詩を書きたいと思っているのですが、家族に反対されていて——」
皐月は少女の手を取った。
「私も同じでした。女だから、若いからと——何度も諦めそうになりました。でも——」
皐月は馨の方を見た。
「私を信じてくれた人がいました。私の詩を待っていてくれる人がいました。だから今、こうして詩集を出すことができた」
「私にも、そんな日が来るでしょうか」
「来ます。あなたが書き続ける限り、必ず。私が証拠です」
少女は涙を浮かべて何度も頷き、詩集を胸に抱いて帰っていった。
その後も、多くの読者が皐月のもとを訪れた。上海で黄瀛の詩を愛読していたという老紳士。長崎からわざわざ上京したという若い詩人。そして——。
「皐月さん」
聞き覚えのある声がした。
「翠蘭さん!」
振り返ると、劉翠蘭が立っていた。藍色の旗袍ではなく、洋装に身を包んでいる。しかし、その瞳の輝きは上海で出会った頃と変わらない。
「翠蘭さん、なぜ東京に——」
「あなたの詩集が出ると聞いて、いてもたってもいられなくなったの。父に頼んで、東京行きの船に乗せてもらったわ」
翠蘭は皐月の手を握りしめた。
「上海から、ずっとあなたの活躍を聞いていた。馨さんの詩集も、上海で大きな話題になっているわ。『ノースチャイナ・スター・ニュース』も、今では御厨馨を現代東洋の代表的詩人と評している。あのアーサー・ウィリアムズがいた新聞とは思えないでしょう?」
「翠蘭さんが、フランス租界のデュボワさんたちに声をかけてくれたおかげです」
「私はきっかけを作っただけよ。あなたたちの詩が、本物だったから——それだけのこと」
翠蘭はそう言って、にこりと笑った。
「それより、今日はお祝いよ。馨さんも一緒に、東京の美味しいものを食べに連れて行ってくれない?」
三人は連れ立って、神田の街を歩いた。
秋の陽が柔らかく降り注ぎ、街路樹の銀杏が黄金色に輝いている。遠くで、汽笛が鳴る——かつて上海で聞いたのと同じ、船の出航を知らせる音。
「ねえ、翠蘭さん」
皐月が言った。
「上海は、変わりましたか」
「変わるものもあれば、変わらないものもあるわ。黄浦江の濁りは相変わらずだし、租界の瓦斯灯もまだ煤けている。でも——」
翠蘭は少し間を置いてから続けた。
「文学サロンには、あなたたちの詩を読んで詩人を志す若者が増えた。日本人も中国人も関係なく、新しい詩を作ろうとしている。それって、すごいことだと思わない?」
「新しい詩——」
「そう。東洋と西洋の狭間で苦しむだけじゃない、その先にある希望を詠う詩。あなたたちが上海で見つけたものが、今、ゆっくりと広がっている」
馨が深く頷いた。
「私たちだけではできなかった。翠蘭さん、あなたの力がなければ——」
「それはお互い様よ。私もまた、あなたたちの詩に救われた人間のひとりだから」
三人は、神田川にかかる橋の上で立ち止まった。
川面には秋の雲が映り、柳の枝が風に揺れている。あの黄浦江のほとりで見た風景とはまったく違う——しかし、どこか通じ合うものがあった。
「言葉は、境界を越える」
皐月が呟いた。
「上海で、馨さんが教えてくれたことです。でも今は、それが本当にわかる。私たちの詩が、上海から東京へ、日本から中国へ——そして、これからもっと遠くへ」
「そうだな」馨が続けた。「詩の力は、国境も時代も越える。私たちが書いた詩は、私たちの手を離れて、誰かの心の中で生き続ける。それが——詩人としての、一番の幸せかもしれない」
「じゃあ、私たちはずっと幸せね」
翠蘭が笑った。
「あなたたちの詩は、もうたくさんの人の心に届いている。これからも、もっとたくさんの人のもとへ——」
夕暮れが近づき、街に灯りがぽつりぽつりと灯り始める。
三人は橋の上で、いつまでも語り合っていた。
十一
十一月、長崎。
皐月と馨は、久しぶりに皐月の実家を訪れていた。
皐月の父は、すっかり老け込んだが、それでも矍鑠としている。庭の松の木の手入れをしながら、二人を迎えてくれた。
「馨くん、皐月の詩集はどうだ。売れているのか」
「はい、お義父様。おかげさまで、第二版の準備を進めているところです」
「そうか。皐月が詩人になるなど——あの子が上海へ行くと言い出したときは、反対したものだ。だが——」
父は皐月を見た。
「今は、よかったと思っている。お前は、自分で道を見つけた。親としては、それだけで十分だ」
「お父様——」
皐月は父の手を取った。
「私、これからも書き続けます。お父様が許してくれたから——ここまで来られました」
「許すも何も——お前が自分で勝ち取った道だ。私はただ、見守っているだけさ」
父は少し照れくさそうに言って、庭の松に向き直った。
「来年の春には、この松もまた新芽を出す。人生も同じだ。冬があっても、必ず春は来る。お前たちも——これから先、何があっても、諦めずに進みなさい」
「はい、お義父様」
馨が深く頭を下げた。
「私も、皐月と共に歩み続けます。詩人として、そして夫として——必ず」
夜、皐月と馨は、皐月が子供の頃に使っていた離れの部屋で過ごした。
窓を開けると、庭の松の向こうに長崎の港が見える。無数の船の灯りが、闇の中で揺らめいていた。
「ここが、君の原点か」
馨が言った。
「この部屋で、君は詩を書き始めたのか」
「ええ。まだ稚拙なものばかりでしたが——。窓から港を見ながら、海の向こうに何があるのだろうと想像していました。いつか自分も、この海を越えて——」
「そして君は、本当に海を越えた。上海へ行き、私と出会い、詩人になった」
「馨さんも、海を越えましたね。上海から日本へ——」
「ああ。でもそれは、君がいたからだ」
馨は皐月の肩を抱き寄せた。
「君がいなければ、私は海を越える勇気を持てなかった。上海でずっと、境界の上に立ち尽くしたままだっただろう」
「でも今は——」
「ああ。今は、君の隣が私の居場所だ」
二人は窓辺に座り、港の灯りをいつまでも見つめていた。
「ねえ、馨さん」
皐月が静かに口を開いた。
「いつか——私たちに子供ができたら、この部屋に連れてきたいです」
「この部屋に?」
「ええ。私が詩を始めた場所です。そして——あなたと私が、これからも詩を書き続けることを誓う場所にもなった」
馨は皐月の手を握った。
「そうだな。そして、その子にも教えよう。詩の力を。言葉の美しさを。そして——」
「境界を越えることの、素晴らしさを」
「ああ。私たちが上海で学んだすべてを——次の世代に伝えていこう」
二人は固く誓い合った。
窓の外では、長崎の港を出港する船の汽笛が、長く尾を引いて響いていた。それは別れの音ではなく、新しい旅立ちを祝う音だった。
十二
年が明け、明治三十三年が始まった。
東京の光琳社は、これまでにない忙しさに包まれていた。馨の詩集は第三版を数え、皐月の詩集も順調に売れている。さらに、上海から送られてくる中国人詩人の作品や、森田たちが発掘した若い日本人詩人の原稿が、次々と出版の機会を待っていた。
「御厨さん、もう社員を増やさないと回りませんよ」
森田が笑いながら言った。
「ああ、考えている。出版社として、もっと多くの詩集を世に出したい。東洋の新しい詩の拠点として——」
馨の夢は、少しずつ形になり始めていた。
一方、皐月は第二詩集の準備を始めていた。
題はあえて決めていなかったが、テーマは自然と決まっていた。「家族」——生まれ育った長崎、父との関係、そして馨との新しい生活。前作『長崎の桜』が過去と現在を詠ったものなら、次は未来を詠いたい——皐月はそう考えていた。
「ねえ、馨さん」
ある夜、皐月は馨に言った。
「次の詩集に、『桜の国で』の応えとして書いた詩を入れたいんです」
「応え、とは?」
「あなたが『桜の国で』という詩で、私への想いを書いてくれたでしょう。だから今度は私が——あなたへの想いを詩にする番です」
皐月は机に向かい、ペンを執った。
しばらくして出来上がった詩を、馨は黙って読んだ。
あなたと生きる
境界の上に立っていた私を
あなたは見つけてくれた
黄浦江の霧の中で
あなたの言葉が光だった
今 私はここに立つ
あなたが選んだこの国で
あなたと共に生きることを
私もまた 選んだ
これからも書き続ける
あなたが教えてくれたから
詩には力があると
言葉は心を救うと
二人で紡ぐこの日々が
いつか誰かの詩になる
そんな未来を信じて——
「素晴らしい」
馨は読み終えて、皐月を抱きしめた。
「私はなんて幸せな男だろう。自分の詩が、君に届いて、そして君の詩となって返ってくる——」
「私の詩は、すべてあなたから始まっています。上海で、船の上で、あなたに出会わなければ——私は詩人になれなかったかもしれない」
「いや、君はどんな道を選んでも詩人になっていた。君には、生まれつき詩人としての魂があった。私はただ、その魂に出会うことができた——それだけだ」
二人は神田の小さな部屋で、いつまでも語り合った。
詩のこと、これからのこと、そして——未来に生まれるかもしれない新しい命のこと。
十三
二月、長崎の港に一隻の船が着いた。
上海からの汽船である。タラップを降りてくる乗客の中に、ひとりの老人の姿があった。白いあごひげ、丸い眼鏡、藍色の長衫——。
「陳老師!」
皐月は叫んだ。
陳老師はゆっくりと近づき、皐月と馨の顔を見比べて、にっこりと笑った。
「二人とも、元気そうだな」
「老師、なぜ日本に——?」
「馨の詩集と、皐月の詩集が上海に届いてな。読んでいて、どうしても本人たちに会いたくなった。それで、思い立って船に乗ったというわけだ」
陳老師は鞄から二冊の詩集を取り出した。『黄浦江の夜明け』と『長崎の桜』。どちらも何度も読み返したのか、表紙は少し擦り切れている。
「馨、お前の詩は格段に進歩した。以前は苦悩ばかりを詠んでいたが、今は——希望がある。未来がある。それは、お前が自分自身を見つけた証拠だ」
「ありがとうございます、老師」
「それから、皐月」
陳老師は皐月に向き直った。
「君の詩は——素晴らしい。馨とは違う美しさがある。観察の目が確かで、日常の小さな輝きを掬い上げる力がある。これからも書き続けなさい。君は必ず、大きな詩人になる」
「老師——ありがとうございます」
皐月の目から涙がこぼれた。
陳老師は、上海で出会った頃と変わらぬ温かい目で、二人を見つめていた。
「二人の詩を読んで、私は安心した。私が上海で教えたことが、確かに生きている。東洋の詩の伝統が、新しい形で受け継がれている——それを確認できただけで、私の人生にも意味があったというものだ」
「老師、そんな——」
「いや、老人の繰り言だ。気にするな。それより——」
陳老師は鞄からもう一冊の本を取り出した。中国語で書かれた詩集である。
「上海で出た、新しい詩集だ。私が編集を手伝った。若い中国人詩人たちの作品を集めたものだ。その中には、馨の詩の中国語訳も収められている」
「私の詩が——」
「ああ。黄瀛の詩も、御厨馨の詩も、上海ではずっと読み継がれている。これからも、そうあり続けるだろう」
馨は詩集を受け取り、頁を開いた。そこには、見慣れた自分の詩が、漢字の響きに包まれて、新しく生まれ変わっていた。
「言葉は、境界を越える——」
馨が呟いた。
「老師、私たちはこれからも書き続けます。日本で、東京で——しかし、私たちの詩は、海を越えて、上海にも届き続ける」
「そうだ。それが、詩の力だ」
陳老師は深く頷いた。
三人は長崎の港を歩きながら、いつまでも話し続けた。上海での思い出、詩の未来、そして——次の世代に伝えるべきこと。
「ねえ、老師」
皐月が言った。
「いつか、私たちに子供ができたら——その子に、老師からも詩を教えてくださいませんか」
「私が?」
陳老師は目を丸くし、それから大きな声で笑った。
「それは面白い。馨と皐月の子供か——きっと、素晴らしい詩人になるだろうな。よかろう。そのときは、上海から駆けつけよう」
「約束ですよ、老師」
「ああ、約束だ」
三人は固く握手を交わした。
長崎の空には、早咲きの桜がほころび始めていた。
十四
三月、東京に戻った馨と皐月は、光琳社の新しい仕事に追われていた。
森田が持ち込んだ若い詩人の原稿、上海から送られてくる中国語の詩の翻訳、そして自分たちの次の詩集の準備——。出版社は順調に成長し、神田の小さなビルは手狭になるほどだった。
「隣のビルを借り増ししようか」
馨が言った。
「詩集だけではなく、文芸誌も出したい。東京と上海を結ぶ、新しい文学の雑誌を——」
「素敵です。タイトルは何にしますか」
「そうだな——」
馨は少し考えてから言った。
「『境界』というのはどうだろう」
「境界——」
「ああ。私たちがずっと向き合ってきたテーマだ。東洋と西洋の境界。日本と中国の境界。男と女の境界。現実と夢の境界——。しかし、その境界を越えることこそが、新しい詩を生む。そんな思いを込めて——」
「いいタイトルだと思います」
皐月は深く頷いた。
「私たちの経験が、次の世代の詩人たちの道しるべになれば——」
「ああ。それが私たちの役目だ。上海で学び、苦しみ、そして乗り越えてきた者として——」
こうして、光琳社から文芸誌『境界』が創刊された。
創刊号には、馨と皐月の新作詩のほか、上海の若い詩人たちの作品、森田たちの評論、そして陳老師からの寄稿が掲載された。それはまさに、国境を越えた文学の結晶だった。
十五
四月、桜の季節が再び訪れた。
馨と皐月は、上野の公園に花見に出かけた。満開の桜の下には、無数の人々が集い、笑い声が溢れている。
二人は少し離れた丘の上に座り、桜吹雪を見上げていた。
「上海から帰って、三年——」
馨が呟いた。
「あの時は、まさか自分が東京で詩集を出し、結婚し、出版社を経営するとは——夢にも思わなかった」
「私もです。上海へ行く船の上で、あなたに出会わなければ——今の私はいなかった」
「そう考えると、人生は不思議だな」
馨は皐月の手を取った。
「ひとつの出会いが、これほどまでに人生を変える。あの船の中で、君が甲板に立っていなければ——私は今頃、上海でひとり、仮面をかぶったまま生きていたかもしれない」
「馨さん——」
「皐月、ありがとう。君に出会えて、本当によかった」
「私もです。馨さんに出会えて、詩の力を信じられるようになった。自分の言葉を信じられるようになった。そして——」
皐月は馨の目を見つめた。
「あなたを愛することを通じて、世界の広さを知りました。境界を越える勇気を得ました」
二人は桜の下で、そっと唇を重ねた。
桜吹雪が舞い、春の陽が二人を包み込む。
遠くで、汽笛が鳴る。新しい航海の、新しい旅立ちの合図。
「さあ、帰ろう」
馨が立ち上がった。
「これからもやることはたくさんある。詩集の準備、雑誌の編集、そして——」
馨は皐月の手を引いて歩き出した。
「私たちの未来を作っていくこと」
「はい、馨さん。どこまでも——一緒に」
二人は桜並木の下を、手を繋いで歩いていく。
その足取りは、かつて境界の上で立ち尽くしていた二人のものではなかった。確かな場所に立ち、確かな未来を見つめ、共に歩む者たちの足取りだった。
言葉は境界を越える。
海を越え、国を越え、人の心を越えていく。
それは、詩の力。
そして——愛の力。
黄浦江の霧の夜から始まった二人の物語は、ここに一つの結びを迎える。
しかし、これは終わりではない。
新しい詩の始まりであり、新しい人生の始まりであり——そして、新しい愛の始まりなのだ。
これからもずっと、二人は共に歩いていく。
詩と共に。
愛と共に。
桜咲く国で——。
明治三十二年、四月。
東京・神田の街は、桜の季節を終え、青葉が輝く初夏の陽射しに包まれていた。
狭い路地に面した小さな出版社「光琳社」の二階で、御厨馨は窓辺に立ち、街の風景を静かに見つめていた。通りには学生たちが闊歩し、書店の前では新刊を待つ人々が行列を作っている。遠くで、鉄道馬車の鈴の音が響き、活版印刷の機械の音が規則正しく聞こえてくる。
「馨さん、もうすぐですよ」
声がして振り返ると、皐月が立っていた。薄紫色の訪問着に身を包み、髪は後ろでひとつにまとめている。上海で出会った頃より少し大人びたが、その瞳の輝きは変わらない。
「ああ、わかっている」
馨は机に戻り、一冊の本を手に取った。
『黄浦江の夜明け』——。
深緑色の表紙に、金箔押しの題字。頁を開くと、活字のインクの香りがかすかに漂う。一頁、また一頁とめくっていくと、そこには三年間の歳月をかけて紡いできた詩の数々が収められていた。
「ついに、この日が来たな」
馨の声は静かだが、その奥には抑えきれない感情が込められていた。
「ええ。あなたが本名で初めて出す詩集です」
皐月は馨の隣に立ち、そっと彼の腕に手を置いた。
「黄瀛としてではなく——御厨馨として」
「黄瀛——」
馨は遠くを見るような目で呟いた。
「あの名前があったから、私は詩を続けられた。匿名でなければ書けなかった詩があった。だが、これからは違う。自分の名前で、自分の詩を書く。それが、私が上海で誓ったことだから」
馨は机の引き出しから一通の古い封筒を取り出した。黄ばんだ便箋には、震えた文字で詩が綴られている——かつて馨が「絶筆」として発表した最後の詩の草稿である。
『筆を折る』
『黄浦江の濁りよ さらば』
『瓦斯灯の霧よ さらば』
『——流れよ 流れよ 海へ 海へ』
「あのとき、私は本当に詩を捨てるつもりだった」
馨は静かに語り始めた。
「自分の詩が原因で商会が傾き、取引先からは信用を失い、父にも心配をかけた。私の詩は、誰にも必要とされていない——そう思い込んでいた。むしろ、詩など書かなければよかったのだと」
「でも——」
「でも、君が違うと言ってくれた」
馨は皐月の顔を見つめた。
「君が私の詩を読み解き、その価値を証明してくれた。黄瀛の詩に救われたと言ってくれた。そして何より——君自身が詩を書き、私に届けてくれた。あの『黄浦江の夜明け——馨に』という詩は、私が生まれて初めて、自分宛てに書かれた詩だった」
皐月の目に、涙が浮かんだ。
「私も——あの時は必死でした。あなたが詩を捨てると聞いて、何とかしなければと思って。でも、詩を書くことでしか、私の想いは伝えられなかった」
「君の詩は、私の心の壁を破った。私が自分で築き上げた絶望の壁を、君の言葉が打ち砕いた。それで私は——もう一度、生きようと思えた。詩人として、そしてひとりの人間として」
馨は封筒をしまい、そっと皐月の肩を抱き寄せた。
「ありがとう、皐月。君がいなければ、この詩集は存在しなかった」
「いいえ、馨さん。この詩集は、あなた自身が勝ち取ったものです。私はただ——あなたの詩を信じただけ」
二人はしばらく、黙って寄り添っていた。窓の外では、神田の街が新しい一日を始めている。印刷所から聞こえる活版の音が、まるで新しい時代の鼓動のように響いていた。
二
光琳社は、馨が東京に移り住んでから一年後に設立した小さな出版社だった。
上海での経験を経て、馨は貿易業と出版業の両立を志した。貿易は番頭に上海を任せ、自分は東京で新しい事業を始めたのである。出版社の名前「光琳」には、「光の輪」——人と人を結ぶ輪、詩と言葉が光り輝く場所——という意味が込められていた。
最初は神田の小さな借家から始めた。馨が上海で培った貿易のノウハウを活かして洋紙や印刷機械を輸入し、一方で文学の知識を活かして詩集や文芸書の出版を手がけた。
社員は当初、馨を含めて三人だけだった。元書店員の若者と、上海から呼び寄せた中国人の植字工、そして馨自身である。編集、営業、経理——すべてを兼ねながらの船出だった。
「本当にやっていけるのでしょうか」
創業当初、皐月が心配そうに尋ねたことがある。
「わからない」馨は正直に答えた。「でも、やってみなければ何も始まらない。上海で学んだことだ——リスクを取らなければ、新しいものは生まれない」
光琳社の最初の出版物は、馨自身が翻訳した中国現代詩のアンソロジーだった。上海で出会った若い中国人詩人たちの作品を集め、日本語に訳したものである。それは商業的には成功しなかったが、文学界の一部で注目を集めた。
「黄瀛の詩を愛読していた者です。上海から帰って、こんな出版社を始めました」
馨は自分から黄瀛の正体を明かすことはしなかった。しかし、文学仲間の間では次第に噂が広がり、森田や周文英をはじめ、かつて上海で馨を支えた仲間たちが、原稿を持ち込むようになった。
「黄瀛先生——いや、御厨さん。僕たちも、上海でのような文学の場を東京で作りたいんです」
森田は上海の新聞社を辞めて東京に戻り、光琳社の編集者として加わった。
「上海で黄瀛の詩に出会った衝撃を、今度は僕たちが次の世代に伝えていく番です」
こうして光琳社は、新しい詩の出版社として、少しずつ地歩を固めていった。
そして、創業から三年目にして、満を持して刊行されるのが、馨の第一詩集『黄浦江の夜明け』だったのである。
三
発売日は四月十五日と決まった。
その日が近づくにつれて、馨と皐月、そして光琳社の社員たちは準備に追われた。印刷所との校正のやり取り、取次店への営業、書店への宣伝——小さな出版社にとって、一冊の詩集を世に出すことは、それだけで大仕事だった。
「装丁は、やはりこの色で」
皐月は表紙の色見本を馨に見せた。深緑色——黄浦江の濁った水の色であり、同時に、新しい命が芽吹く若葉の色でもある。
「題字は、誰に頼みましょうか」
「陳老師に——と頼みたかったが、上海にいては難しいな」
馨は少し考えてから言った。
「ならば、私が書こう。毛筆で。漢詩の教養を活かして——」
「あなたが?」
「ああ。私の詩集だ。私の手で題を書く。それもまた、詩人の仕事だろう」
馨は数日かけて、何枚も何枚も題字を書いた。墨を擦り、筆を執り、一文字一文字に魂を込める。出来上がった題字は、力強く、それでいて繊細で——まさに馨の詩そのもののような字だった。
帯の文章は皐月が考えた。
『かの「黄瀛」が、本名で世に問う第一詩集。東洋と西洋の狭間で苦悩し、ひとりの女性との運命の出会いを経て、新しい詩の地平を切り拓いた若き詩人の、魂の記録。』
「ひとりの女性、とは——私のことですか」
皐月が少し照れながら尋ねた。
「君以外に誰がいる」
馨は真顔で答えた。
「でも、目立ちすぎませんか。私はまだ何も成し遂げていない——」
「君は私を救った。それだけで、十分に意味のある人生だ。そして君はこれから、もっと大きなものを成し遂げるだろう。この帯の文章は、未来の君への賛辞でもあるんだ」
「馨さん——」
皐月は帯の文章をじっと見つめてから、静かに頷いた。
「わかりました。でもいつか、私も自分の詩集を出したときには、帯に『御厨馨の妻』ではなく『橘皐月』とだけ書いてください」
「もちろんだ」
馨は微笑んだ。
詩集に収める詩の選定は、馨と皐月が二人で行った。
黄瀛時代の詩も、数篇だけ収録することにした。ただし、それらは「参考作品」として、本名で書かれた詩とは区別して掲載される。その選定作業を通じて、馨は自分の過去と改めて向き合うことになった。
「この詩は——」
皐月が指さしたのは、「租界の夜に」だった。
『瓦斯灯のにじむ霧の街 東洋の月は煤けて沈み 西洋の星は嘘をささやく——』
「この詩が、すべての始まりでした。私があなたの詩を初めて読んだのも、この詩でした。文学サロンで、森田さんたちが熱心に語り合っていて——」
「あの詩は、私が最も苦しかった時期に書いたものだ」
馨は遠い目をした。
「自分が何者なのかわからなかった。日本人でも中国人でもなく、詩人でも商人でもない——。ただ、境界の上で立ち尽くしているだけの自分が、情けなかった」
「でも、その詩があったから、私はあなたに近づきたいと思った。あなたの詩の中にある苦しみが、私自身の苦しみと響き合う気がして——」
「そうか——」
馨はしばらく黙ってから、静かに言った。
「この詩は、収録しよう。黄瀛としての最後の詩と、御厨馨としての最初の詩を、同じ本に収める。それが、私の誠実さだと思う」
最終的に収録された詩は、全部で三十二篇。黄瀛時代の七篇と、本名で新たに書いた二十五篇。それらは時系列に並べられ、馨の内面の変化が読者に伝わるように構成された。
最後に収められたのは、「桜の国で」と題された一篇だった。
黄浦江の濁りを越え
東シナ海の碧を越え
私はついに ここに立つ
君が生まれ育った この国に
桜は散り また咲き
人生は過ぎ また始まる
境界の上でなく
君の隣で生きることを
私は選んだ
これからも書き続ける
君が教えてくれたから
詩には力があると
言葉は心を救うと
桜の国で
私はもう一度 詩人になる
この詩を清書した夜、馨は皐月に言った。
「この詩は、君への手紙だ。上海で君がくれた詩への、三年越しの返事でもある」
皐月は声を詰まらせた。
「返事——」
「ああ。君が『黄浦江の夜明け』をくれたとき、私はまだ返事を書けなかった。あの時は、自分自身を取り戻すことで精一杯だったから。でも今なら書ける。君への感謝と、未来への誓いを——」
「馨さん——」
「君と生きることを選んだ。境界の上ではなく、君の隣で。それが、私の答えだ」
二人は、神田の小さな部屋で、固く抱きしめ合った。
窓の外では、初夏の風が通りを抜け、どこからか植木の青葉がさやさやと音を立てていた。
四
発売日の朝は、快晴だった。
皐月は早くに目を覚まし、神田の街に出た。書店の前には、開店前からすでに人だかりができている。若い文学青年たち、袴姿の女学生、中国人留学生らしき若者——。彼らは皆、待ちかねたように店の前に集まっていた。
「『黄浦江の夜明け』はまだですか」
「黄瀛先生の正体がついに明かされるんだって」
「黄瀛じゃない、御厨馨だ。本名で出す初めての詩集だぞ」
人々のざわめきが、朝の街に満ちている。皐月はその光景を少し離れたところから見守りながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
——馨の詩が、こんなにも待たれている。
上海で匿名で発表されていた詩が、海を越え、国を越え、これほど多くの人の心に届いていたのだ。その事実が、皐月には何よりも嬉しかった。
開店と同時に、人々は書店に雪崩れ込んだ。店員が用意していた初版五百部は、またたく間に売れていった。店の前では、買えなかった人々が次の入荷を待って列を作っている。
その中に、見知った顔があった。
「森田さん!」
皐月が声をかけると、森田は嬉しそうに手を振った。
「皐月さん! すごい人気だ。初版だけではとても足りない。増刷の手配を急がないと」
「ええ、馨さんに伝えます」
「それから——」
森田は列の後ろを指さした。
「あそこにいるのは、誰だと思います?」
皐月が目を凝らすと、人混みの中に異国の風貌の紳士が立っていた。金髪、長身、きちんと整えられた口髭——。
「デュボワさん!」
ポール・デュボワは皐月に気づくと、にこやかに近づいてきた。
「マダム御厨、お久しぶりです」
フランス語訛りの日本語で、彼は挨拶した。
「デュボワさん、日本にいらしていたのですか」
「ええ、馨の詩集が出ると聞いて、どうしても手に入れたくて。上海から船で参りました」
「そんな——わざわざ上海から?」
「当然です。黄瀛——いや、御厨馨は、現代東洋の最も重要な詩人のひとりです。彼の初めての本名詩集を見逃すわけにはいかない」
デュボワは手にしたばかりの『黄浦江の夜明け』を大切そうに抱えていた。
「それに、私の友人たちからも頼まれていましてね。上海の文学サロンでも、この詩集の話題で持ちきりです。『ノースチャイナ・スター・ニュース』ですら、今では黄瀛の詩を真剣に論じる記事を載せている。あのアーサー・ウィリアムズは、編集部から外されましたよ」
「そうだったのですか——」
皐月は感慨深く呟いた。
「歴史は、真の詩人に味方するものです」
デュボワはそう言って微笑んだ。
五
昼過ぎ、書店の二階で小さな祝賀会が開かれた。
集まったのは、馨と皐月、森田、そして光琳社の社員たち。それに、上海から駆けつけた周文英や、東京の文学仲間たちも加わった。狭い部屋は人で溢れ、笑い声とお祝いの言葉が飛び交っている。
「黄瀛先生——いや、御厨先生」
周文英がグラスを手に立ち上がった。
「私は、上海であなたの詩に出会い、どれほど励まされたかわかりません。今日、こうしてあなたが本名で詩集を出されたこと——それは私たち中国人の文学者にとっても、大きな希望です」
「ありがとう、周さん」
馨は深く頷いた。
「私の詩は、漢詩の伝統がなければ生まれませんでした。その意味で、私は中国の文化にも大きな恩義があります。これからは、自分の詩を通じて、日本と中国の架け橋になれれば——そう願っています」
「架け橋——」
「ええ。詩には、国境を越える力がある。言葉は、海を越え、人の心を繋ぐ。上海で教わったことです」
馨の言葉に、周文英は深く感銘を受けたように頷いた。
「私も上海に戻ったら、あなたの詩を中国語に訳して広めます。そして、中国の若い詩人たちの作品を、光琳社から出版してもらえませんか」
「もちろんです。それが私の夢でもある。東洋の新しい詩を、共に作り上げていきたい」
二人は固く握手を交わした。
その様子を、皐月は少し離れた場所から見守っていた。
上海で出会った頃の馨は、どこか孤独で、閉じこもっていて、自分自身を偽らなければ生きていけない人だった。しかし今は違う。彼は、自分の詩を信じ、自分の名前で世界と向き合い、そして多くの仲間たちと共に歩こうとしている。
「馨さん——」
皐月が近づくと、馨は振り返って微笑んだ。
「どうした、皐月。涙ぐんでいるのか」
「嬉しくて——」
皐月はハンカチで目元を押さえた。
「あなたが、こんなにたくさんの人に囲まれている。あなたの詩が、こんなに多くの人に待たれていた。それが——本当に、嬉しくて」
「これは、君のおかげでもある」
馨は皐月の手を取った。
「君が私の詩を信じてくれなければ、私はここにいなかった。君が私の詩を救ってくれなければ、この詩集も生まれなかった。だから——ありがとう、皐月」
二人は、仲間たちの温かい眼差しの中で、そっと抱きしめ合った。
六
夕暮れが近づき、祝賀会が終わると、馨と皐月は二人で神田の街を歩いた。
書店の明かりがぽつりぽつりと灯り始め、学生たちが下宿へと帰っていく。遠くで、鐘の音が鳴り響いた。
「少し、歩かないか」
馨が言った。
「どこへ?」
「神田川のほとりだ。桜の季節は終わったが、あのあたりは静かで、話をするのにちょうどいい」
二人は神田川沿いの小道を歩いた。川面には夕陽が映り、柳の枝が風に揺れている。桜の木々はすでに青葉に覆われ、その下を人々が思い思いに散策していた。
「ねえ、皐月」
馨が立ち止まった。
「今日、詩集が出て、ひとつの区切りがついた。だから——今日、君に話したいことがある」
「何でしょう」
馨はしばらく沈黙し、それから静かに語り始めた。
「私はこれまで、詩を書くことで生きてきた。詩がなければ、私はとっくに壊れていただろう。でも——」
馨は皐月の目をまっすぐに見つめた。
「今は違う。詩を書くことは、苦しみから逃れる手段ではない。誰かのために、未来のために、そして——君のために書くことが、私の生きる意味になった」
「馨さん——」
「皐月、私は君と結婚して、本当によかったと思っている。君は私の詩を理解し、私自身を受け入れてくれた。君がいてくれるだけで、私はどんなに辛くても前に進める」
「私もです。馨さんがいてくれるから、私は詩を書き続けられる。あなたに教わったことを胸に、自分の言葉を紡いでいける——」
「それで、今日、改めて誓いたいんだ」
馨は皐月の両手を取った。
「私はこれからも詩を書き続ける。御厨馨として——黄瀛の遺産を受け継ぎながら、新しい詩を生み出していく。そして、君の詩も、これからもずっと応援し続ける。君が詩人として成長し、いつか自分の詩集を出す日まで——いや、その先もずっと」
「馨さん——」
「そして、いつか——」
馨は少し言い淀んでから、続けた。
「いつか、私たちの子供が生まれたら、その子にも伝えたい。言葉の力を。詩の美しさを。そして、国を越え、時代を越えて、人の心を繋ぐものの尊さを——」
皐月の目から涙がこぼれ落ちた。
「はい——はい、馨さん。私も、そう願っています」
二人は神田川のほとりで、夕陽を浴びながら、固く抱きしめ合った。
遠くで汽笛が鳴る。船が、新しい航海に出る合図だ。
あの上海の船の上で初めて出会った日から、三年——。境界の上で立ち尽くしていた二人は、今、確かな場所に立っている。
それは、詩の力と、愛の力が導いてくれた場所だった。
七
その夜、光琳社の二階で、馨と皐月は静かに過ごした。
書斎の机には、刷り上がったばかりの『黄浦江の夜明け』が積まれている。インクの香りが部屋に満ち、開いた頁からは馨の言葉の数々が立ち上ってくるようだった。
「今日、デュボワさんが言っていたこと——」
皐月が窓辺に座りながら言った。
「アーサー・ウィリアムズが編集部を外されたって。あの時は、彼の記事のせいでどれだけ苦しんだか——。でも今となっては、あれも必要な試練だったのかもしれませんね」
「そうかもしれないな」
馨は茶を啜りながら答えた。
「もし彼がいなければ、私の詩がこれほど注目されることもなかったかもしれない。秘密が暴かれ、窮地に追い込まれ、そして君や仲間たちが立ち上がってくれた——そのすべてがあったから、今の私がある」
「でも、もうあんな思いはしたくないですね」
「ああ。だからこそ、私はもう秘密を作らない。すべてを明かして生きていく。詩人であることも、商人であることも、すべてが私自身だと——胸を張って言える」
馨は立ち上がり、本棚から一冊のノートを取り出した。
「これを見てくれ」
「何ですか?」
「次の詩集のための草稿だ」
皐月は驚いてノートを受け取った。頁を開くと、そこには新しい詩の断片がいくつも書き留められている。
「もう次を考えているのですか」
「ああ。『黄浦江の夜明け』は、過去の清算の詩集だった。黄瀛から御厨馨への移行——それは必要な作業だったが、いわば過去との対話だ。これからは、未来に向けて詩を書きたい」
「未来、ですか」
「東京での生活、君との日々、そして——」
馨は少し恥ずかしそうに言った。
「これから生まれてくるかもしれない、新しい命のこと。それを詩にしたい」
皐月は胸が熱くなった。
「馨さん——」
「まだわからないけれど。でも、もし子供ができたら、その子に伝えたいことがたくさんある。詩のこと、言葉のこと、上海で学んだこと——そして、君と出会って私が変わったこと」
馨は皐月の隣に座り、そっと彼女の肩を抱いた。
「私はこれまで、自分が親になるなんて想像したこともなかった。自分のことで精一杯で、誰かを育てる自信なんてなかった。でも——今は違う」
「違う、とは?」
「君がいるからだ。君と一緒なら、どんな未来も怖くない。子供ができたら、きっと楽しいだろう。詩を教えたり、上海の話を聞かせたり——。君が母親で、私が父親だ。それだけで、世界は素晴らしいものになる気がする」
皐月は馨の胸に顔を埋めた。
「私も——私も、あなたとの子供に、たくさんのことを伝えたいです。言葉の力、詩の美しさ、そして——」
「そして?」
「境界を越えて、人を愛することの素晴らしさを」
馨は皐月を抱きしめる腕に力を込めた。
「ああ。それが、私たちが上海で見つけた答えだ」
二人はしばらく、黙って寄り添っていた。窓の外では、神田の夜が静かに更けていく。瓦斯灯の灯りが街を照らし、遠くで汽笛が鳴る——あの上海の夜のように。
八
それから数週間が過ぎ、『黄浦江の夜明け』の評判はますます高まっていった。
新聞や文芸誌には次々と書評が掲載され、文学者たちの間で馨の詩が真剣に論じられるようになった。とくに、「黄瀛」から「御厨馨」への移行をテーマにした評論が多く、匿名詩人が本名で世に出ることの意味が様々な角度から考察された。
「詩集の第二版の準備を急がないと」
森田が光琳社に駆け込んできたのは、発売から二週間が経った頃だった。
「初版は完売です。地方の書店からも注文が殺到しています。少なくとも千部は増刷しないと——」
「そんなに?」
馨は目を丸くした。
「ええ。とくに長崎や上海からの注文が多い。黄瀛時代からの読者が、本名での詩集を待ちかねていたんですよ」
皐月はそれを聞きながら、長崎の実家に手紙を書いた。父に、そして上海の陳老師に、詩集の成功を報告する手紙である。
陳老師へ
お元気でいらっしゃいますか。上海はもう梅雨の季節でしょうか。
おかげさまで、馨の詩集『黄浦江の夜明け』は大きな反響をいただいております。書店には長い行列ができ、初版はすぐに完売いたしました。
この成功は、老師が長年にわたって馨の詩を支えてくださったおかげです。老師のご指導がなければ、馨は詩を続けることも、本名で世に出ることもできなかったでしょう。心よりお礼を申し上げます。
私もまた、自分の詩集を出す準備を始めました。まだまだ未熟ですが、老師に教わったことを胸に、一歩ずつ進んでまいります。
いつか、東京か上海で、再びお会いできる日を楽しみにしております。
手紙を書き終え、皐月は窓の外を見つめた。夏が近づき、空は高く、雲は白く輝いている。
あの上海の霧の日々が、遠い過去のようにも、つい昨日のことのようにも感じられた。
「皐月、ちょっと来てくれないか」
階下から馨の声がした。
降りていくと、馨は机の上に数枚の紙を広げていた。
「君の詩集の企画だ。光琳社の第二詩集として、秋までに出したい」
「本当ですか?」
「ああ。君が上海で書いた詩と、東京に来てから書いた詩をまとめよう。題は——君が言っていた『長崎の桜』でどうだ」
「でも、私はまだ——」
「まだ、何だ」
馨は皐月の言葉を遮った。
「君の詩は、すでに多くの人の心を打っている。上海の文学サロンで君が発表した詩を覚えているか? あの時、参加者たちがどれほど感動していたか。そして——何より、君の詩は私を救った。それは、誰にでもできることじゃない」
「馨さん——」
「自信を持て、皐月。君はすでに詩人だ。あとは、それを世に示すだけだ」
馨は皐月の肩に手を置いた。
「私が光琳社を始めたのは、君のような詩人を世に出すためでもあるんだ。東洋の新しい詩——女性の詩人の声を、もっと多くの人に届けたい」
皐月は深く息を吸い、それから静かに頷いた。
「わかりました。やります。『長崎の桜』——私の第一詩集です」
「よし。では、さっそく詩の選定を始めよう。収録する詩は、君が決めていい。私はただ、それを支えるだけだ」
その日から、皐月の詩集作りの日々が始まった。
九
皐月の詩集『長崎の桜』の準備は、馨の詩集以上に丁寧に進められた。
「君の詩は、私の詩とは違う魅力がある」
馨は皐月の原稿を読みながら言った。
「私の詩が苦悩や葛藤から生まれているのに対して、君の詩は——観察と共感から生まれている。上海の路地裏で見た風景、船の上で感じた風、人々の暮らしの中にある小さな喜びや悲しみ——君はそれらを、優しく掬い上げて詩にしている」
「でも、私はまだ——もっと深く、人の心の闇のようなものを書けていません」
「それは、これから書けばいい。詩人は一生未熟なものだと、陳老師も言っていただろう。大切なのは、今の君にしか書けない詩を、今書くことだ」
皐月は自分の原稿を見つめ直した。
上海で書いた詩——租界の風景、文学サロンでの出会い、そして馨への想いを綴った詩。
東京に来てから書いた詩——神田の街、結婚生活、そして新しい未来への希望。
それらはどれも、皐月自身の人生そのものだった。
「私、やっぱりこの詩を入れたいんです」
皐月が差し出したのは、「黄浦江の夜明け——馨に」だった。
「あの時、あなたに届けるために必死で書いた詩です。私の詩人としての原点であり、そして——私たちの愛の原点でもある」
「もちろんだ。あの詩がなければ、今の私はいない」
馨はその詩を読み返し、しみじみと言った。
「これを読むたびに、あの日のことを思い出す。病床で、君の詩を読んで、涙が止まらなかった。自分がこんなに必要とされているとは、夢にも思わなかった——」
「私も、あなたに届くとは思っていませんでした。でも、届けるしかなかった。言葉が、境界を越えると信じていたから」
「君の信じた通りだ。言葉は、境界を越えた。黄浦江を越え、海を越え、私の心の壁さえも越えて——」
馨は皐月の詩を、そっと胸に抱いた。
「この詩は、私たちの宝だ。そしてこれからは、世界中の読者の宝になる」
『長崎の桜』の装丁は、馨が自ら手がけることになった。
「題字は、今度は私が書こう」
馨は筆を執り、一文字一文字に想いを込めて「長崎の桜」と記した。
「馨さんの字は、力強いですね。私の詩にふさわしい——立派すぎるくらいです」
「そんなことはない。君の詩には、静かな強さがある。見かけは優しいが、芯は強い——まるで桜の木のように」
「桜の木——」
「ああ。桜は美しい花を咲かせるが、その根は地中深く張っている。風雨に耐え、冬を越え、それでも春になれば必ず花を咲かせる。君の詩も、そうあってほしい」
皐月は馨の言葉を胸に刻んだ。
詩集の最後には、馨の詩集に収められた「桜の国で」への応えとして、皐月が新たに書いた一篇が収められることになった。
題は「境界を越えて」。
あなたが海を越えて来たように
私もまた 境界を越える
女であることの境界
若さの境界
すべての「できない」という境界を
あなたが教えてくれた
詩には力があると
言葉は心を救うと
ならば私も 書くだろう
誰かの心に届く日まで
桜の国で
私はもう一度 詩人になる
あなたの隣で
私の言葉で
私の人生を紡ぐために——
「素晴らしい詩だ」
馨は読み終えて、深く息を吐いた。
「君はもう、私の教え子ではない。一人前の詩人だ」
「馨さん——」
「私はこれからも君を支える。しかしそれは、師としてではなく、人生の伴侶としてだ。君の詩は君だけのものだ。それを、誰よりも近くで見守っていける——それが私の幸せだ」
二人は見つめ合い、そっと微笑み合った。
十
夏が過ぎ、秋が訪れた。
十月、神田の書店で、橘皐月の第一詩集『長崎の桜』が発売された。
表紙は淡い桜色。題字は馨の手による力強い毛筆。帯には「『黄浦江の夜明け』の詩人・御厨馨が最も信頼する若き女性詩人、待望の第一詩集」と記されている。
発売日、皐月は書店の二階から、その光景を見守っていた。
『黄浦江の夜明け』のときほどの行列ではない。しかし、確かに人々は皐月の詩集を手に取り、頁を開き、言葉を読み始めている。若い女性たち、学生たち、そして——皐月と同じように詩人を志す者たち。
「売れているな」
馨が隣に立った。
「私の詩集のときより、女性の読者が多い。君の詩は、とくに女性の心に響くものがあるのだろう」
「でも、まだ——こんなに緊張するなんて」
皐月は胸に手を当てた。
「自分の言葉が、知らない誰かに読まれる。それが、これほど怖いものだとは——」
「その怖さを感じるのは、君が本気で詩を書いている証拠だ」
馨はそっと皐月の手を握った。
「自分の言葉に責任を持つこと。それが詩人としての第一歩だ。君はもう、その一歩を踏み出した」
「馨さん——」
「私はこれからも、君の詩を見守り続ける。君がどんな詩を書いても、私は君の一番の読者であり続ける。だから——自信を持って、書き続けてくれ」
皐月は馨の手を握り返した。
「はい。私は書きます。これからもずっと——あなたと共に」
午後、皐月は書店を訪れた読者たちと直接話す機会を得た。
若い女学生が、おずおずと近づいてくる。
「あの——橘皐月先生ですか」
「はい、橘です。でも、先生だなんて——」
「私、『境界を越えて』という詩に、とても勇気をもらいました。私も詩を書きたいと思っているのですが、家族に反対されていて——」
皐月は少女の手を取った。
「私も同じでした。女だから、若いからと——何度も諦めそうになりました。でも——」
皐月は馨の方を見た。
「私を信じてくれた人がいました。私の詩を待っていてくれる人がいました。だから今、こうして詩集を出すことができた」
「私にも、そんな日が来るでしょうか」
「来ます。あなたが書き続ける限り、必ず。私が証拠です」
少女は涙を浮かべて何度も頷き、詩集を胸に抱いて帰っていった。
その後も、多くの読者が皐月のもとを訪れた。上海で黄瀛の詩を愛読していたという老紳士。長崎からわざわざ上京したという若い詩人。そして——。
「皐月さん」
聞き覚えのある声がした。
「翠蘭さん!」
振り返ると、劉翠蘭が立っていた。藍色の旗袍ではなく、洋装に身を包んでいる。しかし、その瞳の輝きは上海で出会った頃と変わらない。
「翠蘭さん、なぜ東京に——」
「あなたの詩集が出ると聞いて、いてもたってもいられなくなったの。父に頼んで、東京行きの船に乗せてもらったわ」
翠蘭は皐月の手を握りしめた。
「上海から、ずっとあなたの活躍を聞いていた。馨さんの詩集も、上海で大きな話題になっているわ。『ノースチャイナ・スター・ニュース』も、今では御厨馨を現代東洋の代表的詩人と評している。あのアーサー・ウィリアムズがいた新聞とは思えないでしょう?」
「翠蘭さんが、フランス租界のデュボワさんたちに声をかけてくれたおかげです」
「私はきっかけを作っただけよ。あなたたちの詩が、本物だったから——それだけのこと」
翠蘭はそう言って、にこりと笑った。
「それより、今日はお祝いよ。馨さんも一緒に、東京の美味しいものを食べに連れて行ってくれない?」
三人は連れ立って、神田の街を歩いた。
秋の陽が柔らかく降り注ぎ、街路樹の銀杏が黄金色に輝いている。遠くで、汽笛が鳴る——かつて上海で聞いたのと同じ、船の出航を知らせる音。
「ねえ、翠蘭さん」
皐月が言った。
「上海は、変わりましたか」
「変わるものもあれば、変わらないものもあるわ。黄浦江の濁りは相変わらずだし、租界の瓦斯灯もまだ煤けている。でも——」
翠蘭は少し間を置いてから続けた。
「文学サロンには、あなたたちの詩を読んで詩人を志す若者が増えた。日本人も中国人も関係なく、新しい詩を作ろうとしている。それって、すごいことだと思わない?」
「新しい詩——」
「そう。東洋と西洋の狭間で苦しむだけじゃない、その先にある希望を詠う詩。あなたたちが上海で見つけたものが、今、ゆっくりと広がっている」
馨が深く頷いた。
「私たちだけではできなかった。翠蘭さん、あなたの力がなければ——」
「それはお互い様よ。私もまた、あなたたちの詩に救われた人間のひとりだから」
三人は、神田川にかかる橋の上で立ち止まった。
川面には秋の雲が映り、柳の枝が風に揺れている。あの黄浦江のほとりで見た風景とはまったく違う——しかし、どこか通じ合うものがあった。
「言葉は、境界を越える」
皐月が呟いた。
「上海で、馨さんが教えてくれたことです。でも今は、それが本当にわかる。私たちの詩が、上海から東京へ、日本から中国へ——そして、これからもっと遠くへ」
「そうだな」馨が続けた。「詩の力は、国境も時代も越える。私たちが書いた詩は、私たちの手を離れて、誰かの心の中で生き続ける。それが——詩人としての、一番の幸せかもしれない」
「じゃあ、私たちはずっと幸せね」
翠蘭が笑った。
「あなたたちの詩は、もうたくさんの人の心に届いている。これからも、もっとたくさんの人のもとへ——」
夕暮れが近づき、街に灯りがぽつりぽつりと灯り始める。
三人は橋の上で、いつまでも語り合っていた。
十一
十一月、長崎。
皐月と馨は、久しぶりに皐月の実家を訪れていた。
皐月の父は、すっかり老け込んだが、それでも矍鑠としている。庭の松の木の手入れをしながら、二人を迎えてくれた。
「馨くん、皐月の詩集はどうだ。売れているのか」
「はい、お義父様。おかげさまで、第二版の準備を進めているところです」
「そうか。皐月が詩人になるなど——あの子が上海へ行くと言い出したときは、反対したものだ。だが——」
父は皐月を見た。
「今は、よかったと思っている。お前は、自分で道を見つけた。親としては、それだけで十分だ」
「お父様——」
皐月は父の手を取った。
「私、これからも書き続けます。お父様が許してくれたから——ここまで来られました」
「許すも何も——お前が自分で勝ち取った道だ。私はただ、見守っているだけさ」
父は少し照れくさそうに言って、庭の松に向き直った。
「来年の春には、この松もまた新芽を出す。人生も同じだ。冬があっても、必ず春は来る。お前たちも——これから先、何があっても、諦めずに進みなさい」
「はい、お義父様」
馨が深く頭を下げた。
「私も、皐月と共に歩み続けます。詩人として、そして夫として——必ず」
夜、皐月と馨は、皐月が子供の頃に使っていた離れの部屋で過ごした。
窓を開けると、庭の松の向こうに長崎の港が見える。無数の船の灯りが、闇の中で揺らめいていた。
「ここが、君の原点か」
馨が言った。
「この部屋で、君は詩を書き始めたのか」
「ええ。まだ稚拙なものばかりでしたが——。窓から港を見ながら、海の向こうに何があるのだろうと想像していました。いつか自分も、この海を越えて——」
「そして君は、本当に海を越えた。上海へ行き、私と出会い、詩人になった」
「馨さんも、海を越えましたね。上海から日本へ——」
「ああ。でもそれは、君がいたからだ」
馨は皐月の肩を抱き寄せた。
「君がいなければ、私は海を越える勇気を持てなかった。上海でずっと、境界の上に立ち尽くしたままだっただろう」
「でも今は——」
「ああ。今は、君の隣が私の居場所だ」
二人は窓辺に座り、港の灯りをいつまでも見つめていた。
「ねえ、馨さん」
皐月が静かに口を開いた。
「いつか——私たちに子供ができたら、この部屋に連れてきたいです」
「この部屋に?」
「ええ。私が詩を始めた場所です。そして——あなたと私が、これからも詩を書き続けることを誓う場所にもなった」
馨は皐月の手を握った。
「そうだな。そして、その子にも教えよう。詩の力を。言葉の美しさを。そして——」
「境界を越えることの、素晴らしさを」
「ああ。私たちが上海で学んだすべてを——次の世代に伝えていこう」
二人は固く誓い合った。
窓の外では、長崎の港を出港する船の汽笛が、長く尾を引いて響いていた。それは別れの音ではなく、新しい旅立ちを祝う音だった。
十二
年が明け、明治三十三年が始まった。
東京の光琳社は、これまでにない忙しさに包まれていた。馨の詩集は第三版を数え、皐月の詩集も順調に売れている。さらに、上海から送られてくる中国人詩人の作品や、森田たちが発掘した若い日本人詩人の原稿が、次々と出版の機会を待っていた。
「御厨さん、もう社員を増やさないと回りませんよ」
森田が笑いながら言った。
「ああ、考えている。出版社として、もっと多くの詩集を世に出したい。東洋の新しい詩の拠点として——」
馨の夢は、少しずつ形になり始めていた。
一方、皐月は第二詩集の準備を始めていた。
題はあえて決めていなかったが、テーマは自然と決まっていた。「家族」——生まれ育った長崎、父との関係、そして馨との新しい生活。前作『長崎の桜』が過去と現在を詠ったものなら、次は未来を詠いたい——皐月はそう考えていた。
「ねえ、馨さん」
ある夜、皐月は馨に言った。
「次の詩集に、『桜の国で』の応えとして書いた詩を入れたいんです」
「応え、とは?」
「あなたが『桜の国で』という詩で、私への想いを書いてくれたでしょう。だから今度は私が——あなたへの想いを詩にする番です」
皐月は机に向かい、ペンを執った。
しばらくして出来上がった詩を、馨は黙って読んだ。
あなたと生きる
境界の上に立っていた私を
あなたは見つけてくれた
黄浦江の霧の中で
あなたの言葉が光だった
今 私はここに立つ
あなたが選んだこの国で
あなたと共に生きることを
私もまた 選んだ
これからも書き続ける
あなたが教えてくれたから
詩には力があると
言葉は心を救うと
二人で紡ぐこの日々が
いつか誰かの詩になる
そんな未来を信じて——
「素晴らしい」
馨は読み終えて、皐月を抱きしめた。
「私はなんて幸せな男だろう。自分の詩が、君に届いて、そして君の詩となって返ってくる——」
「私の詩は、すべてあなたから始まっています。上海で、船の上で、あなたに出会わなければ——私は詩人になれなかったかもしれない」
「いや、君はどんな道を選んでも詩人になっていた。君には、生まれつき詩人としての魂があった。私はただ、その魂に出会うことができた——それだけだ」
二人は神田の小さな部屋で、いつまでも語り合った。
詩のこと、これからのこと、そして——未来に生まれるかもしれない新しい命のこと。
十三
二月、長崎の港に一隻の船が着いた。
上海からの汽船である。タラップを降りてくる乗客の中に、ひとりの老人の姿があった。白いあごひげ、丸い眼鏡、藍色の長衫——。
「陳老師!」
皐月は叫んだ。
陳老師はゆっくりと近づき、皐月と馨の顔を見比べて、にっこりと笑った。
「二人とも、元気そうだな」
「老師、なぜ日本に——?」
「馨の詩集と、皐月の詩集が上海に届いてな。読んでいて、どうしても本人たちに会いたくなった。それで、思い立って船に乗ったというわけだ」
陳老師は鞄から二冊の詩集を取り出した。『黄浦江の夜明け』と『長崎の桜』。どちらも何度も読み返したのか、表紙は少し擦り切れている。
「馨、お前の詩は格段に進歩した。以前は苦悩ばかりを詠んでいたが、今は——希望がある。未来がある。それは、お前が自分自身を見つけた証拠だ」
「ありがとうございます、老師」
「それから、皐月」
陳老師は皐月に向き直った。
「君の詩は——素晴らしい。馨とは違う美しさがある。観察の目が確かで、日常の小さな輝きを掬い上げる力がある。これからも書き続けなさい。君は必ず、大きな詩人になる」
「老師——ありがとうございます」
皐月の目から涙がこぼれた。
陳老師は、上海で出会った頃と変わらぬ温かい目で、二人を見つめていた。
「二人の詩を読んで、私は安心した。私が上海で教えたことが、確かに生きている。東洋の詩の伝統が、新しい形で受け継がれている——それを確認できただけで、私の人生にも意味があったというものだ」
「老師、そんな——」
「いや、老人の繰り言だ。気にするな。それより——」
陳老師は鞄からもう一冊の本を取り出した。中国語で書かれた詩集である。
「上海で出た、新しい詩集だ。私が編集を手伝った。若い中国人詩人たちの作品を集めたものだ。その中には、馨の詩の中国語訳も収められている」
「私の詩が——」
「ああ。黄瀛の詩も、御厨馨の詩も、上海ではずっと読み継がれている。これからも、そうあり続けるだろう」
馨は詩集を受け取り、頁を開いた。そこには、見慣れた自分の詩が、漢字の響きに包まれて、新しく生まれ変わっていた。
「言葉は、境界を越える——」
馨が呟いた。
「老師、私たちはこれからも書き続けます。日本で、東京で——しかし、私たちの詩は、海を越えて、上海にも届き続ける」
「そうだ。それが、詩の力だ」
陳老師は深く頷いた。
三人は長崎の港を歩きながら、いつまでも話し続けた。上海での思い出、詩の未来、そして——次の世代に伝えるべきこと。
「ねえ、老師」
皐月が言った。
「いつか、私たちに子供ができたら——その子に、老師からも詩を教えてくださいませんか」
「私が?」
陳老師は目を丸くし、それから大きな声で笑った。
「それは面白い。馨と皐月の子供か——きっと、素晴らしい詩人になるだろうな。よかろう。そのときは、上海から駆けつけよう」
「約束ですよ、老師」
「ああ、約束だ」
三人は固く握手を交わした。
長崎の空には、早咲きの桜がほころび始めていた。
十四
三月、東京に戻った馨と皐月は、光琳社の新しい仕事に追われていた。
森田が持ち込んだ若い詩人の原稿、上海から送られてくる中国語の詩の翻訳、そして自分たちの次の詩集の準備——。出版社は順調に成長し、神田の小さなビルは手狭になるほどだった。
「隣のビルを借り増ししようか」
馨が言った。
「詩集だけではなく、文芸誌も出したい。東京と上海を結ぶ、新しい文学の雑誌を——」
「素敵です。タイトルは何にしますか」
「そうだな——」
馨は少し考えてから言った。
「『境界』というのはどうだろう」
「境界——」
「ああ。私たちがずっと向き合ってきたテーマだ。東洋と西洋の境界。日本と中国の境界。男と女の境界。現実と夢の境界——。しかし、その境界を越えることこそが、新しい詩を生む。そんな思いを込めて——」
「いいタイトルだと思います」
皐月は深く頷いた。
「私たちの経験が、次の世代の詩人たちの道しるべになれば——」
「ああ。それが私たちの役目だ。上海で学び、苦しみ、そして乗り越えてきた者として——」
こうして、光琳社から文芸誌『境界』が創刊された。
創刊号には、馨と皐月の新作詩のほか、上海の若い詩人たちの作品、森田たちの評論、そして陳老師からの寄稿が掲載された。それはまさに、国境を越えた文学の結晶だった。
十五
四月、桜の季節が再び訪れた。
馨と皐月は、上野の公園に花見に出かけた。満開の桜の下には、無数の人々が集い、笑い声が溢れている。
二人は少し離れた丘の上に座り、桜吹雪を見上げていた。
「上海から帰って、三年——」
馨が呟いた。
「あの時は、まさか自分が東京で詩集を出し、結婚し、出版社を経営するとは——夢にも思わなかった」
「私もです。上海へ行く船の上で、あなたに出会わなければ——今の私はいなかった」
「そう考えると、人生は不思議だな」
馨は皐月の手を取った。
「ひとつの出会いが、これほどまでに人生を変える。あの船の中で、君が甲板に立っていなければ——私は今頃、上海でひとり、仮面をかぶったまま生きていたかもしれない」
「馨さん——」
「皐月、ありがとう。君に出会えて、本当によかった」
「私もです。馨さんに出会えて、詩の力を信じられるようになった。自分の言葉を信じられるようになった。そして——」
皐月は馨の目を見つめた。
「あなたを愛することを通じて、世界の広さを知りました。境界を越える勇気を得ました」
二人は桜の下で、そっと唇を重ねた。
桜吹雪が舞い、春の陽が二人を包み込む。
遠くで、汽笛が鳴る。新しい航海の、新しい旅立ちの合図。
「さあ、帰ろう」
馨が立ち上がった。
「これからもやることはたくさんある。詩集の準備、雑誌の編集、そして——」
馨は皐月の手を引いて歩き出した。
「私たちの未来を作っていくこと」
「はい、馨さん。どこまでも——一緒に」
二人は桜並木の下を、手を繋いで歩いていく。
その足取りは、かつて境界の上で立ち尽くしていた二人のものではなかった。確かな場所に立ち、確かな未来を見つめ、共に歩む者たちの足取りだった。
言葉は境界を越える。
海を越え、国を越え、人の心を越えていく。
それは、詩の力。
そして——愛の力。
黄浦江の霧の夜から始まった二人の物語は、ここに一つの結びを迎える。
しかし、これは終わりではない。
新しい詩の始まりであり、新しい人生の始まりであり——そして、新しい愛の始まりなのだ。
これからもずっと、二人は共に歩いていく。
詩と共に。
愛と共に。
桜咲く国で——。