黄浦江の境界
第五章 黄浦江の誓い
一
馨からの「決別の手紙」と「筆を折る」詩を受け取った夜、皐月は一睡もできなかった。
田村家の自室の窓辺に座り、彼女は馨の最後の詩を何度も何度も読み返した。手紙の文字は震え、詩の言葉は絶望に満ちている。それなのに——いや、だからこそ——皐月の胸の奥では、かすかな確信が芽生え始めていた。
『黄浦江に沈めるは この筆と 使い古した我が心』
馨は確かにそう書いた。筆を捨て、詩を捨て、すべてを諦めると宣言した。
だが——。
皐月は、詩の最後の連に目を留めた。
『流れよ 流れよ 海へ 海へ 名もなき詩人の最期を 誰も知らず 誰も悼まず 濁りの中に消えゆくのみ』
この悲痛なまでの叫び。本当に詩を捨てる覚悟があるなら、なぜこれほどまでに激しく「流れよ」と繰り返すのか。なぜ「誰も知らず 誰も悼まず」と、自らの消滅をこれほど痛切に嘆くのか。
「これは——訣別の詩ではない」
皐月は呟いた。
「これは、叫びだ。助けを求める声だ」
本当に詩を捨てるつもりなら、こんな詩は書かない。書けるはずがない。黙ってペンを置き、黙って去っていくはずだ。それを、これほどまでに心を削るような詩を最後に残すということは——馨はまだ、詩にすがっている。誰かに読んでほしいと願っている。自分の言葉が、誰かの心に届くことを、心の奥底で信じている。
そして、もうひとつ。
『流れよ 流れよ 海へ 海へ』
この「海」とは何か。黄浦江の先にある海——東シナ海。その海の向こうにあるのは日本だ。馨がいつか帰らなければならないと言っていた日本。そして、皐月の故郷でもある日本。
「もしかして——」
皐月の胸が、大きく脈打った。
この詩は、馨なりの「呼びかけ」ではないのか。直接は言えない。言ってはいけない。だから詩の中に隠した。黄浦江の流れが海へと向かうように、自分もまた、いつか海を越えて——。
「そうだ。この詩には、かすかな希望が込められている」
皐月は確信した。
馨はまだ、完全には諦めていない。詩を捨てると言いながら、詩の力にすがっている。皐月に会わないと言いながら、詩を通して呼びかけている。それは矛盾している。しかし、その矛盾こそが、馨の本当の心なのだ。
「ならば、私も詩で応えなければ」
皐月は机に向かった。
馨が最後の詩を書いたのなら、自分もまた、詩を書こう。馨の絶望を受け止め、その奥にあるかすかな希望を照らし出すような詩を。
ペンを執る。窓の外では、上海の夜が更けていく。瓦斯灯の灯りが滲み、遠くで汽笛が鳴る。すべては、馨と出会った船の上から始まった。あのときも、こんな夜だった——。
皐月の手が動き始める。言葉が次々と溢れてくる。それは彼女が今まで書いてきたどんな詩とも違っていた。技巧を凝らす余裕も、言葉を選ぶ余裕もない。ただ、心の底から絞り出すような、祈りのような言葉——。
朝が近づく頃、一篇の詩が完成した。
題は「黄浦江の夜明け——馨に」。
清書した詩を封筒に入れ、皐月は立ち上がった。夜明けの光が、窓の外に射し始めている。
「これを、必ず届ける」
二
しかし、皐月はすぐには動かなかった。
馨に詩を届ける前に、なすべきことがあった。馨の「絶筆」の詩と、それに対する自分の応えを、より多くの人に届けること——。馨が詩の力をまだ信じているのなら、自分もまた詩の力を信じて行動すべきだ。
皐月はまず、翠蘭に手紙を書いた。
『翠蘭様
緊急のお願いがございます。御厨馨さんが、詩を捨てると宣言されました。しかし私は、彼の最後の詩に、かすかな希望が込められていると信じています。
そのことを、多くの人に伝えたいのです。馨さんの詩が、どれほど多くの人の心を動かしてきたか。彼の詩を必要としている人が、どれほどいるか——。
お力をお貸しいただけないでしょうか。』
それから、森田をはじめとする文学サロンの仲間たちにも手紙を出した。陳老師にも相談に行こう。そして——。
皐月は決意した。アーサー・ウィリアムズの記事に対抗するだけでなく、馨の「絶筆」に対する返答として、自分たちの言葉を発表するのだ。日本語と中国語の両方で。馨の詩が決して無駄ではなかったこと、彼の言葉が確かに誰かの心に届いていること——それを、目に見える形で示したかった。
翌日、皐月は聚珍書店を訪れた。
カランカラン、と鈴の音が鳴り、陳老師が書棚の陰から姿を現す。皐月の顔を見るなり、老師は深い溜息をついた。
「馨から手紙が来たよ。詩を捨てると。まったく、馬鹿な奴だ」
「老師もご存知だったのですか」
「ああ。だが、私は馨には返事を出していない。なぜだかわかるかね」
皐月は少し考えてから答えた。
「老師は、馨さんが本当に詩を捨てられるとは思っていらっしゃらないから——」
「そうだ」陳老師は破顔した。「馨の最後の詩を読んだかね。あれを読めば、誰だってわかる。あれは詩を捨てる人間の詩ではない。詩にすがる人間の詩だ。あれだけの詩を書いておきながら、筆を折るなどできるものか」
「私もそう思います。そして——」
皐月は自分の詩を取り出した。
「これを馨さんに届けたいのです。でもその前に、もっと多くの人に、馨さんの詩の真価を伝えたい。彼がこれまで書いてきた詩が、どれほど多くの人の心を動かし、救ってきたかを——」
「それで、何か考えがあるのかね」
「はい。馨さんの最後の詩と、私の応えの詩を、日本語と中国語の両方で発表したいのです。『亜細東時報』の林さんにも、もう一度お願いできないかと——」
陳老師はしばらく考え込んでいたが、やがて深く頷いた。
「いいだろう。私も協力しよう。馨の最後の詩を中国語に訳し、それに対する君の応えも訳そう。そして、それに私の解説を付ける。黄瀛という詩人が、東洋の近代詩にとってどれほどの存在であったか——私が最後にできることだ」
「ありがとうございます、老師」
「礼はまだ早い。問題は、これが本当に馨の心を動かすかどうかだ。彼は今、自分が築いた壁の中に閉じこもっている。その壁を破るには、理性の言葉ではなく、心の言葉が必要だ」
陳老師は皐月の目をじっと見つめた。
「君の詩だ、皐月。君の詩が、馨の心の壁を破る。私はそう信じている」
皐月は深く頷いた。
三
翠蘭からの返事は、驚くほど早かった。
手紙を受け取ったその日の夕方には、彼女が田村家を訪ねてきたのである。相変わらず美しい旗袍姿だが、その表情は真剣そのものだった。
「話はわかったわ。私にできることは何でもする」
翠蘭は皐月の部屋に上がるなり、そう言い切った。
「私の父は、光亜商会との取引を続けることをすでに宣言している。でも、それだけでは足りない。もっと多くの人に、黄瀛の詩の価値を伝えなければ」
「ありがとうございます。実は——」
皐月は自分が書いた詩と、これからやろうとしている計画を翠蘭に打ち明けた。
翠蘭は黙って聞いていたが、話が終わると、テーブルを叩いて立ち上がった。
「素晴らしいわ。なら、私も動く。うちの商館には、租界中の中国人商人や文化人が集まる。そのネットワークを使って、黄瀛の詩を広める。それから——」
翠蘭はいたずらっぽく笑った。
「あのアーサー・ウィリアムズって記者に、一泡吹かせるのも面白いわね。彼は黄瀛の詩が『反西洋的』だと言った。でも実際には、黄瀛は西洋の詩も深く理解した上で、東洋の心を詠っている。そのことを、彼の新聞の読者にもわからせてやればいいのよ」
「でも、どうやって——」
「『ノースチャイナ・スター・ニュース』には、投書欄があるわ。あそこに、黄瀛を擁護する投書を送りつけるの。ただし、差出人は——イギリス人、フランス人、アメリカ人。租界に住む西洋人たちの名前でね」
皐月は目を見開いた。
「そんなこと、できるのですか」
「私の知り合いに、黄瀛の詩を愛読している西洋人が何人かいるの。とくに、フランス租界に住む文学愛好家たち——彼らはボードレールやヴェルレーヌを愛読しているから、黄瀛の詩の西洋的な要素をよく理解している。彼らに頼んで、投書を書いてもらうわ」
翠蘭の行動力には、いつもながら驚かされる。皐月は心から感謝した。
「翠蘭さん、本当にありがとうございます。あなたのような方がいてくれて——」
「いいのよ。私もまた、黄瀛の詩に救われたひとりだから」
翠蘭は少し目を伏せた。
「日本に留学していたとき、私はずっと孤独だった。言葉の壁、文化の壁、そして時には人種の壁——。黄瀛の詩は、そんな私の心を代弁してくれているようだった。『東洋の月は煤けて沈み 西洋の星は嘘をささやく』——あの詩を読んだとき、私は泣いたわ。自分だけじゃないんだって、初めて思えた」
翠蘭の告白に、皐月もまた胸が熱くなった。
「だから、彼には詩を続けてほしい。例えそれが匿名でも、黄瀛という名前ででも——彼が詩を書いているという事実だけで、救われる人がいる。そのことを、彼自身に知ってほしいの」
「必ず、知らせます」
皐月は固く誓った。
四
森田をはじめとする文学サロンの仲間たちも、すぐに動いてくれた。
皐月が手紙を出した翌々日には、森田の家で緊急の集会が開かれた。集まったのは二十人近い文学青年たち——日本人だけでなく、中国人、さらには日本語を解する朝鮮人留学生も混ざっていた。黄瀛の詩は、国境を越えて読者の心を掴んでいたのである。
「黄瀛先生が筆を折る——そんなこと、絶対に許せない」
森田が声を上げると、参加者たちが一斉に頷いた。
「僕たちは、黄瀛の詩にどれほど励まされてきたか」
「西洋かぶれの詩が多い中で、本当の意味で新しい詩を書いているのは黄瀛だけだ」
「匿名であろうと、彼の詩は確かに存在している。その事実だけで、僕は詩を書き続けられている」
皐月は、仲間たちの熱い想いを聞きながら、馨の顔を思い浮かべていた。馨は、自分の詩がこれほどまでに人々の心を動かしていることを、おそらく知らない。いや、知ろうとしてこなかった。自分の詩を「諦めの証」としか見なさず、その価値を過小評価し続けてきた。
「皆さん、お願いがあります」
皐月は立ち上がり、集まった仲間たちに向かって深く頭を下げた。
「黄瀛先生——御厨馨さんの詩を、これからも読み継いでほしいのです。そして、彼の詩に励まされた経験を、文章にしてほしい。それを一冊の本にまとめたいのです」
「本に?」
「はい。黄瀛の詩と、それに寄せる読者の声を集めた小さな本です。それが、彼の詩が無駄ではなかったことの、何よりの証拠になると思うのです」
森田が最初に手を挙げた。
「賛成だ。私も書こう。黄瀛の詩に初めて出会ったときの衝撃を」
「僕も書く」
「私も」
次々と手が挙がる。皐月の胸は、感謝と感動でいっぱいだった。
「ありがとうございます。それから、もうひとつ——」
皐月は息を吸い、一気に言った。
「黄瀛先生に、私たちの声を直接届けたいのです。彼は今、光亜商会にこもりきりで、誰にも会おうとしません。でも、私たちの声が彼に届けば——彼の詩を待っている人たちがいることを、彼自身に知ってもらえれば——」
「それなら、私に案がある」
声を上げたのは、中国人の文学青年、周文英だった。彼は上海の印刷所で働きながら、詩を書いている。
「私たちの文章をまとめた小冊子を作りましょう。そしてそれを、光亜商会に届けるのです。彼が私たちの声を無視できないように——」
「でも、どうやって届けるの? 直接行っても、会ってもらえないかもしれない」
「ならば、彼が必ず目にする形で届ければいい」
周文英はにやりと笑った。
「黄瀛先生は、毎朝、江西路を通って商会に出勤される。その道すがら、私たちが小冊子を手渡すのです。大勢で待ち伏せて、一人ひとりが手紙を渡す——それなら彼も、無視はできないでしょう」
「それは——」
「押しつけがましいでしょうか」と別の青年が心配そうに言った。
皐月は首を振った。
「いいえ。むしろ、それくらいしなければ、馨さんの心には届かない。彼は自分を過小評価しすぎている。自分には詩を書く価値がないと思い込んでいる。だから、私たちがその思い込みを打ち破らなければ——」
「決まりだな」森田が立ち上がった。「では、さっそく準備を始めよう。小冊子の編集は私が引き受ける。原稿は三日以内に集めるぞ」
こうして、文学サロンの仲間たちによる「黄瀛を救え」作戦が始まった。
五
一方、翠蘭の動きも素早かった。
彼女はさっそく、フランス租界に住む文学愛好家たちに声をかけた。その中には、上海で最も権威ある文学サロンの主宰者であるポール・デュボワというフランス人もいた。デュボワは若い頃に象徴派の詩人たちと交流があり、ボードレールやマラルメの研究者としても知られている。
「黄瀛の詩ですか。もちろん読んでいます」
デュボワは流暢な中国語で答えた。彼は上海に二十年近く住み、東洋文化の深い理解者でもあった。
「彼の詩は、たしかにボードレールの影響を受けています。『瓦斯灯のにじむ霧の街』というのは、パリの霧を詠んだボードレールへのオマージュでしょう。しかし、それでいて彼の詩は完全に東洋的だ。霧の中に東洋の月を配し、自己喪失の感覚を漢詩の無常観と結びつける——これは西洋の詩人には決して書けないものです」
「それならば」翠蘭が身を乗り出した。「『ノースチャイナ・スター・ニュース』の記事に反論を書いてくださいませんか。黄瀛の詩は『反西洋的』でも『趣味の産物』でもない、真の文学であると——」
デュボワは少し考えてから、にこりと笑った。
「いいでしょう。あの記事を書いたウィリアムズという男は、詩の何たるかをまるでわかっていない。ゴシップと批評の区別もつかない人間に、文学を語る資格はありません」
デュボワの反論文は、三日後に『ノースチャイナ・スター・ニュース』の投書欄に掲載された。題は「黄瀛の詩——東洋と西洋の真の融合」。
その中でデュボワは、黄瀛の詩を一篇ずつ具体的に分析し、それが西洋詩の単なる模倣ではなく、東西の詩の伝統を深く理解した上での創造的な融合であることを論証した。とくに、ボードレールの都市詠と漢詩の自然詠を組み合わせた手法は、世界文学史的に見ても画期的な試みであると絶賛した。
この投書は、租界の知識人社会に大きな衝撃を与えた。ポール・デュボワと言えば、上海で最も尊敬されている西洋人文学者のひとりである。その彼が、黄瀛を擁護した——それだけで、アーサー・ウィリアムズの記事の信憑性は大きく揺らいだ。
続いて、イギリス人の詩人、アメリカ人のジャーナリストからも投書が寄せられた。いずれも黄瀛の詩を高く評価し、ウィリアムズの記事を「文学への冒涜」と断じる内容だった。
アーサー・ウィリアムズは、これに反論することができなかった。彼の記事が拠って立っていたのは「匿名で詩を書くことは欺瞞である」という道徳論と、「東洋人が西洋の形式で詩を書くのは模倣に過ぎない」という偏見だけだったからだ。デュボワたちの本格的な文学批評の前に、彼の主張はもろくも崩れ去ったのである。
六
五月の最終週、馨の「絶筆」の詩と、皐月の応えの詩が、『亜細東時報』に掲載された。
陳老師の翻訳と解説が付されたそれは、大きな反響を呼んだ。とくに、馨の最後の詩の悲しみと、皐月の応えの詩の優しさは、読む者の心を深く打った。新聞社には、黄瀛の詩を惜しむ声、復活を願う声が、日本人・中国人を問わず多数寄せられた。
皐月の詩は、こうだった。
黄浦江の夜明け——馨に
あなたが流した涙の一滴が
黄浦江の濁りの中で
確かに光っているのを
私は見た
瓦斯灯の霧が晴れる朝
東洋の月は沈まず
静かに空のどこかに
息をひそめているだけ
あなたは書く
「誰も知らず 誰も悼まず」と
けれど私は知っている
悼む者はここにいると
黄浦江の流れは
いつか海へとたどり着く
海は隔てるものではなく
繋ぐものだと教えたのは
ほかならぬあなただった
だから流れよ 流れよ
その流れの先で
もう一度 筆を執るあなたに
私は必ず会いに行く
——あなたの詩を待つ者のひとりより
この詩は、馨の絶望を否定せず、受け止めた上で、その奥にあるかすかな希望を掬い上げようとするものだった。陳老師は解説の中で、この詩を「一人の読者から詩人への、最も美しい返礼」と評した。
そして、馨の詩を愛する者たちの声を集めた小冊子『黄瀛詩集 読者の声』も完成した。森田の編集により、二十三名の読者からの手紙や短文が収められた手作りの一冊である。表紙には、馨の詩「租界の夜に」の一節が、毛筆で記されていた。
『中国でも日本でもなく ただひとりの人間の形』
皐月はこの小冊子を手に、光亜商会へと向かった。
七
六月一日。
早朝の江西路は、まだ人通りもまばらだった。皐月は光亜商会の前に立ち、深呼吸をした。手には『黄瀛詩集 読者の声』と、自分が書いた詩の清書、そして——これからの未来への願いを込めた手紙。
裏口に回ると、例の中国人の事務員が待っていた。皐月は彼に、自分の来訪をあらかじめ知らせてあったのである。
「御厨は、二階の自室です。今日は体調が優れず、商館には出られないと——」
「お願いします。通してください」
「しかし——」
「今日が、最後の機会なのです」
皐月の真剣な眼差しに、事務員は観念したように頷いた。
「わかりました。ですが、短時間でお願いします」
馨は、あの日と同じ寝台にいた。
顔色は以前よりさらに青白く、頬はこけ、手は痩せ細っていた。しかし、皐月が部屋に入ると、その目にかすかな光が戻った。驚きと、そしてかすかな喜び——。
「橘さん——なぜ——」
「手紙を読みました。詩も」
皐月は馨の枕元に歩み寄った。
「どうしても、お伝えしたいことがあって」
「私は、もう君に会わないと決めたはずだ」
「ええ。でも、私は諦めません。あなたが諦めない限り——いいえ、あなたが諦めても、私は諦めません」
皐月は、小冊子を馨の手に渡した。
「これを、読んでください。あなたの詩を愛する人たちの声です」
馨は震える手で頁を開いた。
最初に目に飛び込んだのは、森田の文章だった。
『黄瀛先生の詩は、私たちが言葉にできなかった想いを、代わりに言葉にしてくれた。西洋化の波の中で、東洋人としての誇りを思い出させてくれた。あなたが詩を書くことをやめない限り、私たちもまた書き続けられる——』
次は、周文英の手紙。
『私は中国人です。でも、黄瀛先生の詩は、私の心にも深く響きます。漢詩の心をこれほど深く理解している日本人がいる。その事実だけで、私は救われる思いがしました——』
さらに、次々と綴られた読者の声。
留学先のロンドンで黄瀛の詩を読んだ青年。病床で何度も読み返したという女性。詩を志すようになったきっかけだという学生——。
馨の目から、涙がこぼれ落ちた。
「こんなに——こんなに多くの人が——」
「そうです。あなたの詩は、確かに届いていたのです。匿名でも、名前がなくても、言葉は人の心に届いていた」
皐月は続けた。
「ポール・デュボワというフランスの文学者が、あなたの詩を絶賛する投書を新聞に寄せました。『ノースチャイナ・スター・ニュース』は今、あなたの詩を巡る論争で持ちきりです。そしてその論争は、あなたの詩の価値をますます明らかにしています」
「しかし——商会は——」
「劉明徳さんが、光亜商会との取引継続を明言されました。他の中国人商人たちも続いています。銀行も、融資の継続を検討しているそうです。失った信用は、確実に回復しつつあります」
馨は小冊子を胸に抱きしめ、声を詰まらせた。
「それでも——私は——」
「まだ、自分を許せませんか」
馨は黙って頷いた。
「私は、父の期待を裏切った。自分の我が儘で、商会を危うくした。詩を書くということが、これほどまでに人を傷つけ、苦しめるものだとは——」
「でも、それと同じだけ、人を救ってもいるのです」
皐月は、馨の手をそっと握った。
「私は、あなたの詩に救われました。森田さんも、周さんも、デュボワさんも、そしてここに手紙を寄せたすべての人たちが——あなたの詩に救われた。あなたの詩は、この世界に必要なものです」
馨は皐月の手を、今度はしっかりと握り返した。その手はまだ震えていたが、そこには確かな温もりがあった。
「皐月さん——」
馨が、初めて皐月の名前を呼んだ。橘さん、ではなく——皐月さん、と。
「私は——私は、どうすればいいのでしょうか」
「まずは、体を治してください。そして——」
皐月は、自分の詩を差し出した。
「もう一度、詩を書いてください。黄瀛としてではなく——御厨馨として」
馨は詩を読み始めた。
黄浦江の夜明け——馨に
読み終えたとき、馨は声を上げて泣いていた。
それは、悲しみの涙ではなかった。悔しさの涙でもなかった。長い間凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていくような——そんな、解放の涙だった。
「ありがとう——ありがとう、皐月さん」
馨は涙を拭いながら、何度も繰り返した。
「私の詩を、こんなにも深く理解してくれて——。私が自分でも気づかなかった希望を、君は見つけてくれた」
「それは、あなたが詩の中に込めていたものです。私はただ、それを見つけただけ」
皐月もまた、涙をこぼしていた。
「馨さん。もう一度、お会いできますか。正式に——手紙ではなく、直接お話しできる日を、待っています」
馨は深く頷いた。
「約束する。必ず——必ず、君の前に立つ。詩人としてでも、商人としてでもなく——ただ、御厨馨として」
二人は、しっかりと手を握り合った。
窓の外では、朝陽が黄浦江の水面を金色に染めていた。
八
それからの一週間、馨は少しずつ回復に向かった。
皐月は毎日、光亜商会を訪れ、馨の世話を焼いた。といっても、大したことはできない。ただ、そばに座って話を聞いたり、詩の話をしたり、時には黙って寄り添ったり——。
「君が来てくれるようになってから、食事が美味くなった」
馨がそう言って笑ったのは、皐月が通い始めて五日目のことだった。
「よかった。少し、顔色も戻られたようです」
「ああ。医者も、もう大丈夫だろうと言ってくれた。あとは、体力を戻すだけだ」
馨は寝台から起き上がり、窓辺の椅子に座った。久しぶりに陽の光を浴びた彼の顔は、以前よりずっと穏やかだった。
「皐月さん、君に話したいことがある」
「何でしょう」
「私は——日本に帰ろうと思う」
皐月は、一瞬息を呑んだ。
「日本に、ですか」
「ああ。上海で商会を続けることも考えた。しかし、今回のことで痛感した。私は、自分を隠して生きることに疲れてしまった。もう二度と、仮面をかぶりたくない」
馨は皐月の目をじっと見つめた。
「日本に帰って、一からやり直したい。商売も、詩も——すべてを、本当の自分の名で」
「でも、それでは——」
「商会は、番頭に任せることにした。彼は有能だし、信用もある。父もようやく、私の意思を尊重してくれるようになった。『お前はお前の道を行け』と——」
馨は窓の外を見つめた。外灘の方向から、汽笛の音が聞こえてくる。
「私は、境界の上で生きてきた。商人と詩人の境界。日本と中国の境界。東洋と西洋の境界。でも、もう境界に留まるのはやめにしたい。どちらか一方を選ぶのではなく、どちらも引き受けて生きていく——」
「それが、本当のあなたなのですね」
「ああ。御厨馨であり、黄瀛であること——その両方を、私は引き受ける。もう隠したりしない。たとえ世間から何と言われても、私は私として生きていく」
馨の声には、以前のような迷いはなかった。
「それで——」馨は少し躊躇ってから言った。「君は、これからどうする? 上海に残るのか?」
皐月は少し考えてから答えた。
「私も、日本に帰ります。上海で学んだことは、たくさんあります。でも、詩人として立つためには、もう一度、日本で修業しなければ——。私の言葉で、私の詩を書きたい。あなたに教わったことを胸に刻んで」
「そうか——」
馨の顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。
「それなら——」
「え?」
「いや、それは——また、あとで話す」
馨はそう言って、照れたように笑った。その笑顔は、皐月が今まで見た中で、一番自然で、一番温かかった。
九
六月十五日。
馨が日本へ発つ日が決まった。
皐月もまた、同じ船に乗ることにした。長崎に戻り、しばらく実家で過ごした後、東京で本格的に詩の勉強を始めるつもりだった。
出発の前夜、皐月は馨を誘って、黄浦江の畔を歩いた。
「ここが——」
「ええ、私たちが初めて出会った場所です」
波止場には、あの日と同じように大きな汽船が停泊していた。明日、二人が乗る船である。夜の闇の中で、船の灯りが水面に揺らめき、あたりには潮の香りが満ちていた。
馨はしばらく、その船をじっと見つめていた。
「あの船の中で君に出会ったとき、何かが始まる予感がした。でも、まさかこんなことになるとは——」
「こんなこと、とは?」
「君が、私の人生を変えてしまうなんて」
馨は皐月の方を向き、真剣な表情で言った。
「皐月さん。私は、君に出会わなければ、今頃どうなっていたかわからない。おそらく、一生、仮面をかぶり続けて、自分を偽り続けて、そして最後には——心を殺していただろう」
「馨さん——」
「君は、私の詩を救ってくれた。私自身を救ってくれた。そして——」
馨は言葉を切り、深く息を吸った。
「君がいたから、私はもう一度、生きようと思えた」
馨の声は震えていた。しかし、それは悲しみではなく、溢れる想いを必死に抑えようとする震えだった。
「皐月さん——私は、君に伝えたいことがある」
皐月の心臓が、大きく跳ねた。
「私は——」
「待ってください」
皐月は、馨の言葉を遮った。
「その前に、私から言わせてください」
馨は驚いたように皐月を見つめた。
皐月は、何日も前から用意していた言葉を、ゆっくりと紡ぎ始めた。
「馨さん。私は、船の上であなたに出会ってから、ずっと考えてきました。あなたが黄瀛であることも、御厨馨であることも——私は、そのすべてを知った上で、あなたの本当の名前を呼びたい」
「本当の名前——」
「黄瀛は、あなたが匿名で詩を書くための名前でした。御厨馨は、あなたが商人として生きるための名前でした。でも——あなたは、そのどちらも本当のあなたです。詩人であり、商人であり、そしてひとりの——」
皐月は一歩、馨に近づいた。
「ただひとりの、人間です。私は、そのあなたを——どちらの仮面も必要としない、ありのままのあなたを、愛しています」
言葉が、夜の闇に溶けていった。
馨は、しばらく黙っていた。黄浦江の波音だけが、二人の間に響いている。
やがて——。
馨は、ゆっくりと皐月の両手を取った。
「皐月さん——いや、皐月」
初めて、名前を呼び捨てにされた。
「私は、君にふさわしい人間かどうか、まだ自信がない。詩人としても、商人としても、まだ道半ばだ。でも——」
馨は皐月の目をまっすぐに見つめた。その目には、涙が光っていた。
「君を愛している。この気持ちは、もう隠せない。隠したくない」
皐月の目から、涙がこぼれ落ちた。
「馨——」
二人は、黄浦江の畔で、固く抱きしめ合った。
船の汽笛が、別れを告げるように鳴り響く。しかしそれはもう、別れの汽笛ではなかった。新しい旅立ちを告げる、祝いの音だった。
十
翌朝。
長崎へ向かう汽船が、黄浦江の波止場に停泊していた。
空は晴れ渡り、初夏の陽光が水面にきらめいている。あの日、皐月が初めて上海に降り立ったときと、同じような天気だった。
波止場には、多くの見送りの人々が集まっていた。翠蘭、陳老師、森田、周文英——馨と皐月を支えてくれた人たちが、口々に別れの言葉をかけてくれる。
「馨さん、皐月さん、お元気で」
翠蘭が涙をこらえながら言った。
「必ず、また会いましょう。今度は、日本で」
「ありがとう、翠蘭さん。あなたがいてくれて、本当によかった」
皐月が手を握り返す。
陳老師は、馨の肩をぽんと叩いた。
「馨、お前はようやく、自分自身になれたようだな」
「老師のおかげです。あなたがいなければ、私はとうに詩を捨てていました」
「馬鹿を言え。お前は自分で道を見つけた。私は少し、手助けしただけだ」
陳老師は眼鏡の奥の目を細めた。
「日本に帰っても、詩を書き続けろ。お前の詩には、まだ書かれていない言葉がたくさんあるはずだ」
「はい。必ず」
「それから、皐月」陳老師は皐月に向き直った。「君は、馨の詩の一番の理解者だ。どうか、これからも彼を見守ってやってほしい」
「老師——」
皐月は深々と頭を下げた。
「老師から教わったことは、決して忘れません。私もまた、詩人として成長して、必ず老師に認めていただけるような詩を書きます」
「楽しみにしているよ」
森田や周文英をはじめ、文学サロンの仲間たちも、次々に馨の手を握った。
「黄瀛先生——いや、御厨先生。あなたの次の詩を、心待ちにしています」
「今度は、本名で発表してください。私たちは、黄瀛としてのあなたの詩も、御厨馨としてのあなたの詩も、どちらも愛していますから」
馨は一人ひとりの手を握り返し、深く礼をした。
「皆さん。本当に——本当にありがとうございました。私は、皆さんの期待に応えられる詩を書きます。これからは、匿名ではなく、御厨馨として」
汽笛が鳴った。
出航の時間だ。
馨と皐月は、タラップを上がった。振り返ると、波止場の人々が手を振っている。翠蘭はハンカチを振り、陳老師は静かに頷き、森田たちは歓声を上げている。
甲板に出ると、黄浦江の全景が広がった。左岸には租界の壮麗な建物群、右岸には古い中国の家並み——。あの日、皐月が初めて見た景色と、何も変わっていない。だが、皐月の心は、あの日とはまったく違っていた。
「皐月」
馨が隣に立った。
「君とこうして、同じ船に乗る日が来るとは——あの船の中では、想像もできなかった」
「私もです。でも——」
皐月は馨の手を取った。
「こうなることを、どこかで信じていました。あなたの詩が、私にそう教えてくれたから」
「私の詩が?」
「ええ。あなたの詩には、いつもかすかな希望があった。どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、それでも言葉を紡ぐことをやめなかった。それが——あなたの本当の姿だったのです」
馨は何も言わず、ただ皐月の手を強く握り返した。
船が、ゆっくりと岸壁を離れた。
黄浦江の濁った流れが、船体を揺らす。瓦斯灯の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。あの建物も、あの路地も、あの古書店も——すべてが、思い出の中に溶けていく。
「上海に、感謝しなければ」
馨が呟いた。
「この街があったから、私は詩を書けた。矛盾に満ち、混沌とし、すべてが混ざり合うこの街——境界の街があったから、私は私でいられた」
「ええ。私も、この街に感謝しています。上海があったから——あなたに出会えた」
皐月の言葉に、馨は微笑んだ。その笑顔には、かつての物憂げな翳りはもうなかった。あるのは、静かな決意と、未来への希望だけだった。
「ねえ、皐月」
「何ですか」
「長崎に着いたら——君の両親に、挨拶に行ってもいいだろうか」
皐月は目を丸くした。
「私の両親に?」
「ああ。私はこれから、君の隣で生きていきたい。詩人として、商人として、そして——君を愛する者として。だから、きちんと筋を通したいんだ」
皐月の頬が、ぽっと赤く染まった。
「馨——」
「まだ、自信はない。私はこれから、一からやり直さなければならない。君にふさわしい男になれるかどうか——」
皐月は首を振った。
「あなたはもう、十分に——」
「いや、聞いてほしい」
馨は皐月の両肩に手を置いた。
「私はこれまで、自分を偽って生きてきた。でも、これからは違う。本当の自分で生きる。そして必ず、君が誇れるような詩人になる。君が愛した黄瀛の詩を超える詩を、御厨馨の名前で書いてみせる」
「馨——」
「約束する。君の信じた私の詩が、間違いではなかったことを証明する。君が私の詩に救われたと言ってくれた——その言葉に、私はこれからずっと支えられるだろう。そして今度は、私の詩で、君を——」
馨は言葉を切り、それからはにかむように笑った。
「いや、これはやはり、詩に書くことだな。言葉が多すぎると、陳老師に叱られる」
皐月は笑った。馨も笑った。二人の笑い声が、黄浦江の風に乗って、遠くへと流れていく。
十一 エピローグ ——桜の国へ
長崎への船旅は、あの上海へ向かったときとは、まったく違うものだった。
皐月と馨は、できる限りの時間を甲板で過ごした。海を見つめ、詩を語り合い、これからの人生について話し合った。
「東京で、小さな出版社を始めようと思う」
馨が言った。
「貿易の仕事も続けるが、それと同じくらい、新しい詩の出版に力を入れたい。僕たちが上海で夢見たような、東洋と西洋の融合した新しい詩——それを世に出す手伝いがしたいんだ」
「素敵です。私も、そこで詩を発表できますか」
「もちろん。君の詩集が、その出版社の第一号だ」
「でも、私はまだまだ未熟で——」
「未熟でいい。詩人は一生未熟なものだと、老師も言っていただろう。大切なのは、書き続けることだ」
船は東シナ海を渡り、長崎へと近づいていく。皐月は、甲板から見える海の色が、少しずつ変わっていくのを感じていた。黄浦江の濁りから、大海原の碧へ——。それはまるで、馨の心の変化を映しているようでもあった。
「馨、ひとつ聞いてもいいですか」
「何だい」
「黄瀛という名前は、これからどうするのですか」
馨は少し考えてから答えた。
「黄瀛は、僕の一部として、これからもずっと生き続ける。僕が匿名で詩を書いていたときの名前——あの名前があったから、僕は詩を続けられた。でも、これからは——」
馨は皐月の目を見つめた。
「御厨馨として書く。黄瀛が書いてきたものを、今度は本名で引き継ぐ。それは、僕の過去を否定することではなく、すべてを受け入れて前に進むことだと思う」
「そうですね。黄瀛の詩があったから、今のあなたがいる——」
「そして、君がいる」
馨は皐月の手を取った。
「皐月。君は、僕の詩の一番の読者であり、僕自身の一番の理解者だ。これからもずっと——僕の詩を、そして僕自身を、見守っていてほしい」
「もちろんです。私こそ——私の詩を、これからも見ていてください。あなたに教わったことを胸に、私は私の言葉を紡ぎ続ける。いつか、あなたの詩に並べるように——」
「並ぶ必要なんてない」馨は首を振った。「君の詩は、君だけのものだ。僕の模倣でも、誰かの模倣でもない。君自身の言葉を、君自身の声で——それが一番大切なことだ」
馨の言葉は、船の上で初めて詩の話をしたときと、何も変わっていなかった。でも今は、その言葉の重みが、皐月にもよくわかる。自分の言葉を信じること。書き続けること。そして、誰かの心に届く言葉を紡ぐこと——。
「あ、見えてきた」
皐月が指さす先に、長崎の港が近づいていた。段々畑のように斜面に張りついた家々。港に浮かぶ無数の帆船。そして、山の上に建つ白い洋館——皐月の生まれ育った街。
「君の故郷か」
馨が感慨深そうに呟いた。
「ええ。桜の季節はもう終わってしまいましたが——それでも、私の一番大切な場所です」
「桜か。来年は、一緒に見られるだろうか」
皐月は馨の顔を見上げた。
「ええ、きっと。東京にも、長崎にも、桜は咲きます。そして——」
「そして?」
「私たちの心にも、いつか桜が咲くといいですね」
馨は皐月の肩を抱き寄せた。
「君と出会ってから、僕の心にはずっと花が咲いている。黄浦江の霧の中で、君という光を見つけた——それだけで、僕の人生はもう、救われているんだ」
船が、ゆっくりと長崎の波止場に近づいていく。
かつて、馨が上海へ向かう皐月を見送った場所。今度は、二人でその場所に立つ——いや、これからは、二人でどこまでも歩いていくのだ。
「桜の国に、ようこそ」
皐月が微笑んだ。
馨もまた、心からの笑顔で応えた。
長崎の空は、高く澄み渡っていた。
船が岸壁に着き、タラップが降ろされる。
皐月は、馨の手を取って、第一歩を踏み出した。日本への第一歩。新しい人生への第一歩。そして——二人で歩む未来への第一歩。
波止場には、皐月の父が立っていた。娘の手紙で事情を知り、迎えに来たのだ。その隣には、驚いたことに——馨の父の姿もあった。光亜商会の先代、御厨宗一郎である。
「馨——」
宗一郎が、震える声で息子の名を呼んだ。
「父上——なぜ、ここに」
「皐月さんから手紙をもらった。すべてを——これまでのことを、包み隠さず書いてあった。お前がなぜ詩を書いていたのか。なぜ匿名だったのか。そして——この先、どう生きようとしているのか」
宗一郎は、息子の前に歩み寄った。
「私は——お前に、つらい思いをさせていたのだな」
「父上——」
「お前が詩を書いていることは、薄々知っていた。だが、見て見ぬふりをしていた。商家の跡取りが詩など——そう思っていたのは、私の方だったのだ」
宗一郎は深く頭を下げた。
「許してくれ、馨」
「父上、お顔を上げてください」
馨は、父の手を取った。
「私は——私は、父上の期待に応えようとしながら、自分の夢も諦めきれずにいました。その結果が、あのような二重生活です。私は、誰よりも自分自身を欺いていた。だから、父上が謝ることなど何も——」
「しかし——」
「これからは、胸を張って生きます。御厨馨として、商人として、そして詩人として。どちらも偽らざる私自身です。父上が築かれた商会を守りながら、私の詩も育てていく——そんな生き方を、私は選びます」
宗一郎は、息子の顔をじっと見つめた。そこには、かつての弱々しい少年の面影はなかった。上海で苦しみ、もがき、そして自分自身を見つけた男の顔があった。
「大きくなったな、馨」
宗一郎の目に、涙が光った。
「ああ。お前はもう、一人前の男だ」
父子は固く抱き合った。長い歳月を隔てて、ようやく心が通い合った瞬間だった。
皐月の父もまた、娘の成長を感じていた。
「皐月——上海で、お前は何を見てきたのだ」
「お父様。私——」
皐月は、父の前に立った。
「私は、詩人になります。これから東京で勉強し、自分の言葉を磨き、いつか必ず、世に認められる詩人に——」
「よかろう」
父は、皐月の言葉を遮って言った。
「お前が上海へ行きたいと言ったとき、私は内心、反対だった。女がひとりで異国へ行くなど——そう思っていた。だが、今のお前の顔を見ればわかる。お前は、行くべきところに行き、会うべき人に会い、学ぶべきことを学んできたのだな」
「はい」
「ならば、もう何も言うまい。東京へ行きなさい。詩人になりなさい。ただし——」
父はちらりと馨を見た。
「たまには、長崎にも帰ってくるのだぞ」
皐月は笑った。
「もちろんです、お父様」
馨からの「決別の手紙」と「筆を折る」詩を受け取った夜、皐月は一睡もできなかった。
田村家の自室の窓辺に座り、彼女は馨の最後の詩を何度も何度も読み返した。手紙の文字は震え、詩の言葉は絶望に満ちている。それなのに——いや、だからこそ——皐月の胸の奥では、かすかな確信が芽生え始めていた。
『黄浦江に沈めるは この筆と 使い古した我が心』
馨は確かにそう書いた。筆を捨て、詩を捨て、すべてを諦めると宣言した。
だが——。
皐月は、詩の最後の連に目を留めた。
『流れよ 流れよ 海へ 海へ 名もなき詩人の最期を 誰も知らず 誰も悼まず 濁りの中に消えゆくのみ』
この悲痛なまでの叫び。本当に詩を捨てる覚悟があるなら、なぜこれほどまでに激しく「流れよ」と繰り返すのか。なぜ「誰も知らず 誰も悼まず」と、自らの消滅をこれほど痛切に嘆くのか。
「これは——訣別の詩ではない」
皐月は呟いた。
「これは、叫びだ。助けを求める声だ」
本当に詩を捨てるつもりなら、こんな詩は書かない。書けるはずがない。黙ってペンを置き、黙って去っていくはずだ。それを、これほどまでに心を削るような詩を最後に残すということは——馨はまだ、詩にすがっている。誰かに読んでほしいと願っている。自分の言葉が、誰かの心に届くことを、心の奥底で信じている。
そして、もうひとつ。
『流れよ 流れよ 海へ 海へ』
この「海」とは何か。黄浦江の先にある海——東シナ海。その海の向こうにあるのは日本だ。馨がいつか帰らなければならないと言っていた日本。そして、皐月の故郷でもある日本。
「もしかして——」
皐月の胸が、大きく脈打った。
この詩は、馨なりの「呼びかけ」ではないのか。直接は言えない。言ってはいけない。だから詩の中に隠した。黄浦江の流れが海へと向かうように、自分もまた、いつか海を越えて——。
「そうだ。この詩には、かすかな希望が込められている」
皐月は確信した。
馨はまだ、完全には諦めていない。詩を捨てると言いながら、詩の力にすがっている。皐月に会わないと言いながら、詩を通して呼びかけている。それは矛盾している。しかし、その矛盾こそが、馨の本当の心なのだ。
「ならば、私も詩で応えなければ」
皐月は机に向かった。
馨が最後の詩を書いたのなら、自分もまた、詩を書こう。馨の絶望を受け止め、その奥にあるかすかな希望を照らし出すような詩を。
ペンを執る。窓の外では、上海の夜が更けていく。瓦斯灯の灯りが滲み、遠くで汽笛が鳴る。すべては、馨と出会った船の上から始まった。あのときも、こんな夜だった——。
皐月の手が動き始める。言葉が次々と溢れてくる。それは彼女が今まで書いてきたどんな詩とも違っていた。技巧を凝らす余裕も、言葉を選ぶ余裕もない。ただ、心の底から絞り出すような、祈りのような言葉——。
朝が近づく頃、一篇の詩が完成した。
題は「黄浦江の夜明け——馨に」。
清書した詩を封筒に入れ、皐月は立ち上がった。夜明けの光が、窓の外に射し始めている。
「これを、必ず届ける」
二
しかし、皐月はすぐには動かなかった。
馨に詩を届ける前に、なすべきことがあった。馨の「絶筆」の詩と、それに対する自分の応えを、より多くの人に届けること——。馨が詩の力をまだ信じているのなら、自分もまた詩の力を信じて行動すべきだ。
皐月はまず、翠蘭に手紙を書いた。
『翠蘭様
緊急のお願いがございます。御厨馨さんが、詩を捨てると宣言されました。しかし私は、彼の最後の詩に、かすかな希望が込められていると信じています。
そのことを、多くの人に伝えたいのです。馨さんの詩が、どれほど多くの人の心を動かしてきたか。彼の詩を必要としている人が、どれほどいるか——。
お力をお貸しいただけないでしょうか。』
それから、森田をはじめとする文学サロンの仲間たちにも手紙を出した。陳老師にも相談に行こう。そして——。
皐月は決意した。アーサー・ウィリアムズの記事に対抗するだけでなく、馨の「絶筆」に対する返答として、自分たちの言葉を発表するのだ。日本語と中国語の両方で。馨の詩が決して無駄ではなかったこと、彼の言葉が確かに誰かの心に届いていること——それを、目に見える形で示したかった。
翌日、皐月は聚珍書店を訪れた。
カランカラン、と鈴の音が鳴り、陳老師が書棚の陰から姿を現す。皐月の顔を見るなり、老師は深い溜息をついた。
「馨から手紙が来たよ。詩を捨てると。まったく、馬鹿な奴だ」
「老師もご存知だったのですか」
「ああ。だが、私は馨には返事を出していない。なぜだかわかるかね」
皐月は少し考えてから答えた。
「老師は、馨さんが本当に詩を捨てられるとは思っていらっしゃらないから——」
「そうだ」陳老師は破顔した。「馨の最後の詩を読んだかね。あれを読めば、誰だってわかる。あれは詩を捨てる人間の詩ではない。詩にすがる人間の詩だ。あれだけの詩を書いておきながら、筆を折るなどできるものか」
「私もそう思います。そして——」
皐月は自分の詩を取り出した。
「これを馨さんに届けたいのです。でもその前に、もっと多くの人に、馨さんの詩の真価を伝えたい。彼がこれまで書いてきた詩が、どれほど多くの人の心を動かし、救ってきたかを——」
「それで、何か考えがあるのかね」
「はい。馨さんの最後の詩と、私の応えの詩を、日本語と中国語の両方で発表したいのです。『亜細東時報』の林さんにも、もう一度お願いできないかと——」
陳老師はしばらく考え込んでいたが、やがて深く頷いた。
「いいだろう。私も協力しよう。馨の最後の詩を中国語に訳し、それに対する君の応えも訳そう。そして、それに私の解説を付ける。黄瀛という詩人が、東洋の近代詩にとってどれほどの存在であったか——私が最後にできることだ」
「ありがとうございます、老師」
「礼はまだ早い。問題は、これが本当に馨の心を動かすかどうかだ。彼は今、自分が築いた壁の中に閉じこもっている。その壁を破るには、理性の言葉ではなく、心の言葉が必要だ」
陳老師は皐月の目をじっと見つめた。
「君の詩だ、皐月。君の詩が、馨の心の壁を破る。私はそう信じている」
皐月は深く頷いた。
三
翠蘭からの返事は、驚くほど早かった。
手紙を受け取ったその日の夕方には、彼女が田村家を訪ねてきたのである。相変わらず美しい旗袍姿だが、その表情は真剣そのものだった。
「話はわかったわ。私にできることは何でもする」
翠蘭は皐月の部屋に上がるなり、そう言い切った。
「私の父は、光亜商会との取引を続けることをすでに宣言している。でも、それだけでは足りない。もっと多くの人に、黄瀛の詩の価値を伝えなければ」
「ありがとうございます。実は——」
皐月は自分が書いた詩と、これからやろうとしている計画を翠蘭に打ち明けた。
翠蘭は黙って聞いていたが、話が終わると、テーブルを叩いて立ち上がった。
「素晴らしいわ。なら、私も動く。うちの商館には、租界中の中国人商人や文化人が集まる。そのネットワークを使って、黄瀛の詩を広める。それから——」
翠蘭はいたずらっぽく笑った。
「あのアーサー・ウィリアムズって記者に、一泡吹かせるのも面白いわね。彼は黄瀛の詩が『反西洋的』だと言った。でも実際には、黄瀛は西洋の詩も深く理解した上で、東洋の心を詠っている。そのことを、彼の新聞の読者にもわからせてやればいいのよ」
「でも、どうやって——」
「『ノースチャイナ・スター・ニュース』には、投書欄があるわ。あそこに、黄瀛を擁護する投書を送りつけるの。ただし、差出人は——イギリス人、フランス人、アメリカ人。租界に住む西洋人たちの名前でね」
皐月は目を見開いた。
「そんなこと、できるのですか」
「私の知り合いに、黄瀛の詩を愛読している西洋人が何人かいるの。とくに、フランス租界に住む文学愛好家たち——彼らはボードレールやヴェルレーヌを愛読しているから、黄瀛の詩の西洋的な要素をよく理解している。彼らに頼んで、投書を書いてもらうわ」
翠蘭の行動力には、いつもながら驚かされる。皐月は心から感謝した。
「翠蘭さん、本当にありがとうございます。あなたのような方がいてくれて——」
「いいのよ。私もまた、黄瀛の詩に救われたひとりだから」
翠蘭は少し目を伏せた。
「日本に留学していたとき、私はずっと孤独だった。言葉の壁、文化の壁、そして時には人種の壁——。黄瀛の詩は、そんな私の心を代弁してくれているようだった。『東洋の月は煤けて沈み 西洋の星は嘘をささやく』——あの詩を読んだとき、私は泣いたわ。自分だけじゃないんだって、初めて思えた」
翠蘭の告白に、皐月もまた胸が熱くなった。
「だから、彼には詩を続けてほしい。例えそれが匿名でも、黄瀛という名前ででも——彼が詩を書いているという事実だけで、救われる人がいる。そのことを、彼自身に知ってほしいの」
「必ず、知らせます」
皐月は固く誓った。
四
森田をはじめとする文学サロンの仲間たちも、すぐに動いてくれた。
皐月が手紙を出した翌々日には、森田の家で緊急の集会が開かれた。集まったのは二十人近い文学青年たち——日本人だけでなく、中国人、さらには日本語を解する朝鮮人留学生も混ざっていた。黄瀛の詩は、国境を越えて読者の心を掴んでいたのである。
「黄瀛先生が筆を折る——そんなこと、絶対に許せない」
森田が声を上げると、参加者たちが一斉に頷いた。
「僕たちは、黄瀛の詩にどれほど励まされてきたか」
「西洋かぶれの詩が多い中で、本当の意味で新しい詩を書いているのは黄瀛だけだ」
「匿名であろうと、彼の詩は確かに存在している。その事実だけで、僕は詩を書き続けられている」
皐月は、仲間たちの熱い想いを聞きながら、馨の顔を思い浮かべていた。馨は、自分の詩がこれほどまでに人々の心を動かしていることを、おそらく知らない。いや、知ろうとしてこなかった。自分の詩を「諦めの証」としか見なさず、その価値を過小評価し続けてきた。
「皆さん、お願いがあります」
皐月は立ち上がり、集まった仲間たちに向かって深く頭を下げた。
「黄瀛先生——御厨馨さんの詩を、これからも読み継いでほしいのです。そして、彼の詩に励まされた経験を、文章にしてほしい。それを一冊の本にまとめたいのです」
「本に?」
「はい。黄瀛の詩と、それに寄せる読者の声を集めた小さな本です。それが、彼の詩が無駄ではなかったことの、何よりの証拠になると思うのです」
森田が最初に手を挙げた。
「賛成だ。私も書こう。黄瀛の詩に初めて出会ったときの衝撃を」
「僕も書く」
「私も」
次々と手が挙がる。皐月の胸は、感謝と感動でいっぱいだった。
「ありがとうございます。それから、もうひとつ——」
皐月は息を吸い、一気に言った。
「黄瀛先生に、私たちの声を直接届けたいのです。彼は今、光亜商会にこもりきりで、誰にも会おうとしません。でも、私たちの声が彼に届けば——彼の詩を待っている人たちがいることを、彼自身に知ってもらえれば——」
「それなら、私に案がある」
声を上げたのは、中国人の文学青年、周文英だった。彼は上海の印刷所で働きながら、詩を書いている。
「私たちの文章をまとめた小冊子を作りましょう。そしてそれを、光亜商会に届けるのです。彼が私たちの声を無視できないように——」
「でも、どうやって届けるの? 直接行っても、会ってもらえないかもしれない」
「ならば、彼が必ず目にする形で届ければいい」
周文英はにやりと笑った。
「黄瀛先生は、毎朝、江西路を通って商会に出勤される。その道すがら、私たちが小冊子を手渡すのです。大勢で待ち伏せて、一人ひとりが手紙を渡す——それなら彼も、無視はできないでしょう」
「それは——」
「押しつけがましいでしょうか」と別の青年が心配そうに言った。
皐月は首を振った。
「いいえ。むしろ、それくらいしなければ、馨さんの心には届かない。彼は自分を過小評価しすぎている。自分には詩を書く価値がないと思い込んでいる。だから、私たちがその思い込みを打ち破らなければ——」
「決まりだな」森田が立ち上がった。「では、さっそく準備を始めよう。小冊子の編集は私が引き受ける。原稿は三日以内に集めるぞ」
こうして、文学サロンの仲間たちによる「黄瀛を救え」作戦が始まった。
五
一方、翠蘭の動きも素早かった。
彼女はさっそく、フランス租界に住む文学愛好家たちに声をかけた。その中には、上海で最も権威ある文学サロンの主宰者であるポール・デュボワというフランス人もいた。デュボワは若い頃に象徴派の詩人たちと交流があり、ボードレールやマラルメの研究者としても知られている。
「黄瀛の詩ですか。もちろん読んでいます」
デュボワは流暢な中国語で答えた。彼は上海に二十年近く住み、東洋文化の深い理解者でもあった。
「彼の詩は、たしかにボードレールの影響を受けています。『瓦斯灯のにじむ霧の街』というのは、パリの霧を詠んだボードレールへのオマージュでしょう。しかし、それでいて彼の詩は完全に東洋的だ。霧の中に東洋の月を配し、自己喪失の感覚を漢詩の無常観と結びつける——これは西洋の詩人には決して書けないものです」
「それならば」翠蘭が身を乗り出した。「『ノースチャイナ・スター・ニュース』の記事に反論を書いてくださいませんか。黄瀛の詩は『反西洋的』でも『趣味の産物』でもない、真の文学であると——」
デュボワは少し考えてから、にこりと笑った。
「いいでしょう。あの記事を書いたウィリアムズという男は、詩の何たるかをまるでわかっていない。ゴシップと批評の区別もつかない人間に、文学を語る資格はありません」
デュボワの反論文は、三日後に『ノースチャイナ・スター・ニュース』の投書欄に掲載された。題は「黄瀛の詩——東洋と西洋の真の融合」。
その中でデュボワは、黄瀛の詩を一篇ずつ具体的に分析し、それが西洋詩の単なる模倣ではなく、東西の詩の伝統を深く理解した上での創造的な融合であることを論証した。とくに、ボードレールの都市詠と漢詩の自然詠を組み合わせた手法は、世界文学史的に見ても画期的な試みであると絶賛した。
この投書は、租界の知識人社会に大きな衝撃を与えた。ポール・デュボワと言えば、上海で最も尊敬されている西洋人文学者のひとりである。その彼が、黄瀛を擁護した——それだけで、アーサー・ウィリアムズの記事の信憑性は大きく揺らいだ。
続いて、イギリス人の詩人、アメリカ人のジャーナリストからも投書が寄せられた。いずれも黄瀛の詩を高く評価し、ウィリアムズの記事を「文学への冒涜」と断じる内容だった。
アーサー・ウィリアムズは、これに反論することができなかった。彼の記事が拠って立っていたのは「匿名で詩を書くことは欺瞞である」という道徳論と、「東洋人が西洋の形式で詩を書くのは模倣に過ぎない」という偏見だけだったからだ。デュボワたちの本格的な文学批評の前に、彼の主張はもろくも崩れ去ったのである。
六
五月の最終週、馨の「絶筆」の詩と、皐月の応えの詩が、『亜細東時報』に掲載された。
陳老師の翻訳と解説が付されたそれは、大きな反響を呼んだ。とくに、馨の最後の詩の悲しみと、皐月の応えの詩の優しさは、読む者の心を深く打った。新聞社には、黄瀛の詩を惜しむ声、復活を願う声が、日本人・中国人を問わず多数寄せられた。
皐月の詩は、こうだった。
黄浦江の夜明け——馨に
あなたが流した涙の一滴が
黄浦江の濁りの中で
確かに光っているのを
私は見た
瓦斯灯の霧が晴れる朝
東洋の月は沈まず
静かに空のどこかに
息をひそめているだけ
あなたは書く
「誰も知らず 誰も悼まず」と
けれど私は知っている
悼む者はここにいると
黄浦江の流れは
いつか海へとたどり着く
海は隔てるものではなく
繋ぐものだと教えたのは
ほかならぬあなただった
だから流れよ 流れよ
その流れの先で
もう一度 筆を執るあなたに
私は必ず会いに行く
——あなたの詩を待つ者のひとりより
この詩は、馨の絶望を否定せず、受け止めた上で、その奥にあるかすかな希望を掬い上げようとするものだった。陳老師は解説の中で、この詩を「一人の読者から詩人への、最も美しい返礼」と評した。
そして、馨の詩を愛する者たちの声を集めた小冊子『黄瀛詩集 読者の声』も完成した。森田の編集により、二十三名の読者からの手紙や短文が収められた手作りの一冊である。表紙には、馨の詩「租界の夜に」の一節が、毛筆で記されていた。
『中国でも日本でもなく ただひとりの人間の形』
皐月はこの小冊子を手に、光亜商会へと向かった。
七
六月一日。
早朝の江西路は、まだ人通りもまばらだった。皐月は光亜商会の前に立ち、深呼吸をした。手には『黄瀛詩集 読者の声』と、自分が書いた詩の清書、そして——これからの未来への願いを込めた手紙。
裏口に回ると、例の中国人の事務員が待っていた。皐月は彼に、自分の来訪をあらかじめ知らせてあったのである。
「御厨は、二階の自室です。今日は体調が優れず、商館には出られないと——」
「お願いします。通してください」
「しかし——」
「今日が、最後の機会なのです」
皐月の真剣な眼差しに、事務員は観念したように頷いた。
「わかりました。ですが、短時間でお願いします」
馨は、あの日と同じ寝台にいた。
顔色は以前よりさらに青白く、頬はこけ、手は痩せ細っていた。しかし、皐月が部屋に入ると、その目にかすかな光が戻った。驚きと、そしてかすかな喜び——。
「橘さん——なぜ——」
「手紙を読みました。詩も」
皐月は馨の枕元に歩み寄った。
「どうしても、お伝えしたいことがあって」
「私は、もう君に会わないと決めたはずだ」
「ええ。でも、私は諦めません。あなたが諦めない限り——いいえ、あなたが諦めても、私は諦めません」
皐月は、小冊子を馨の手に渡した。
「これを、読んでください。あなたの詩を愛する人たちの声です」
馨は震える手で頁を開いた。
最初に目に飛び込んだのは、森田の文章だった。
『黄瀛先生の詩は、私たちが言葉にできなかった想いを、代わりに言葉にしてくれた。西洋化の波の中で、東洋人としての誇りを思い出させてくれた。あなたが詩を書くことをやめない限り、私たちもまた書き続けられる——』
次は、周文英の手紙。
『私は中国人です。でも、黄瀛先生の詩は、私の心にも深く響きます。漢詩の心をこれほど深く理解している日本人がいる。その事実だけで、私は救われる思いがしました——』
さらに、次々と綴られた読者の声。
留学先のロンドンで黄瀛の詩を読んだ青年。病床で何度も読み返したという女性。詩を志すようになったきっかけだという学生——。
馨の目から、涙がこぼれ落ちた。
「こんなに——こんなに多くの人が——」
「そうです。あなたの詩は、確かに届いていたのです。匿名でも、名前がなくても、言葉は人の心に届いていた」
皐月は続けた。
「ポール・デュボワというフランスの文学者が、あなたの詩を絶賛する投書を新聞に寄せました。『ノースチャイナ・スター・ニュース』は今、あなたの詩を巡る論争で持ちきりです。そしてその論争は、あなたの詩の価値をますます明らかにしています」
「しかし——商会は——」
「劉明徳さんが、光亜商会との取引継続を明言されました。他の中国人商人たちも続いています。銀行も、融資の継続を検討しているそうです。失った信用は、確実に回復しつつあります」
馨は小冊子を胸に抱きしめ、声を詰まらせた。
「それでも——私は——」
「まだ、自分を許せませんか」
馨は黙って頷いた。
「私は、父の期待を裏切った。自分の我が儘で、商会を危うくした。詩を書くということが、これほどまでに人を傷つけ、苦しめるものだとは——」
「でも、それと同じだけ、人を救ってもいるのです」
皐月は、馨の手をそっと握った。
「私は、あなたの詩に救われました。森田さんも、周さんも、デュボワさんも、そしてここに手紙を寄せたすべての人たちが——あなたの詩に救われた。あなたの詩は、この世界に必要なものです」
馨は皐月の手を、今度はしっかりと握り返した。その手はまだ震えていたが、そこには確かな温もりがあった。
「皐月さん——」
馨が、初めて皐月の名前を呼んだ。橘さん、ではなく——皐月さん、と。
「私は——私は、どうすればいいのでしょうか」
「まずは、体を治してください。そして——」
皐月は、自分の詩を差し出した。
「もう一度、詩を書いてください。黄瀛としてではなく——御厨馨として」
馨は詩を読み始めた。
黄浦江の夜明け——馨に
読み終えたとき、馨は声を上げて泣いていた。
それは、悲しみの涙ではなかった。悔しさの涙でもなかった。長い間凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていくような——そんな、解放の涙だった。
「ありがとう——ありがとう、皐月さん」
馨は涙を拭いながら、何度も繰り返した。
「私の詩を、こんなにも深く理解してくれて——。私が自分でも気づかなかった希望を、君は見つけてくれた」
「それは、あなたが詩の中に込めていたものです。私はただ、それを見つけただけ」
皐月もまた、涙をこぼしていた。
「馨さん。もう一度、お会いできますか。正式に——手紙ではなく、直接お話しできる日を、待っています」
馨は深く頷いた。
「約束する。必ず——必ず、君の前に立つ。詩人としてでも、商人としてでもなく——ただ、御厨馨として」
二人は、しっかりと手を握り合った。
窓の外では、朝陽が黄浦江の水面を金色に染めていた。
八
それからの一週間、馨は少しずつ回復に向かった。
皐月は毎日、光亜商会を訪れ、馨の世話を焼いた。といっても、大したことはできない。ただ、そばに座って話を聞いたり、詩の話をしたり、時には黙って寄り添ったり——。
「君が来てくれるようになってから、食事が美味くなった」
馨がそう言って笑ったのは、皐月が通い始めて五日目のことだった。
「よかった。少し、顔色も戻られたようです」
「ああ。医者も、もう大丈夫だろうと言ってくれた。あとは、体力を戻すだけだ」
馨は寝台から起き上がり、窓辺の椅子に座った。久しぶりに陽の光を浴びた彼の顔は、以前よりずっと穏やかだった。
「皐月さん、君に話したいことがある」
「何でしょう」
「私は——日本に帰ろうと思う」
皐月は、一瞬息を呑んだ。
「日本に、ですか」
「ああ。上海で商会を続けることも考えた。しかし、今回のことで痛感した。私は、自分を隠して生きることに疲れてしまった。もう二度と、仮面をかぶりたくない」
馨は皐月の目をじっと見つめた。
「日本に帰って、一からやり直したい。商売も、詩も——すべてを、本当の自分の名で」
「でも、それでは——」
「商会は、番頭に任せることにした。彼は有能だし、信用もある。父もようやく、私の意思を尊重してくれるようになった。『お前はお前の道を行け』と——」
馨は窓の外を見つめた。外灘の方向から、汽笛の音が聞こえてくる。
「私は、境界の上で生きてきた。商人と詩人の境界。日本と中国の境界。東洋と西洋の境界。でも、もう境界に留まるのはやめにしたい。どちらか一方を選ぶのではなく、どちらも引き受けて生きていく——」
「それが、本当のあなたなのですね」
「ああ。御厨馨であり、黄瀛であること——その両方を、私は引き受ける。もう隠したりしない。たとえ世間から何と言われても、私は私として生きていく」
馨の声には、以前のような迷いはなかった。
「それで——」馨は少し躊躇ってから言った。「君は、これからどうする? 上海に残るのか?」
皐月は少し考えてから答えた。
「私も、日本に帰ります。上海で学んだことは、たくさんあります。でも、詩人として立つためには、もう一度、日本で修業しなければ——。私の言葉で、私の詩を書きたい。あなたに教わったことを胸に刻んで」
「そうか——」
馨の顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。
「それなら——」
「え?」
「いや、それは——また、あとで話す」
馨はそう言って、照れたように笑った。その笑顔は、皐月が今まで見た中で、一番自然で、一番温かかった。
九
六月十五日。
馨が日本へ発つ日が決まった。
皐月もまた、同じ船に乗ることにした。長崎に戻り、しばらく実家で過ごした後、東京で本格的に詩の勉強を始めるつもりだった。
出発の前夜、皐月は馨を誘って、黄浦江の畔を歩いた。
「ここが——」
「ええ、私たちが初めて出会った場所です」
波止場には、あの日と同じように大きな汽船が停泊していた。明日、二人が乗る船である。夜の闇の中で、船の灯りが水面に揺らめき、あたりには潮の香りが満ちていた。
馨はしばらく、その船をじっと見つめていた。
「あの船の中で君に出会ったとき、何かが始まる予感がした。でも、まさかこんなことになるとは——」
「こんなこと、とは?」
「君が、私の人生を変えてしまうなんて」
馨は皐月の方を向き、真剣な表情で言った。
「皐月さん。私は、君に出会わなければ、今頃どうなっていたかわからない。おそらく、一生、仮面をかぶり続けて、自分を偽り続けて、そして最後には——心を殺していただろう」
「馨さん——」
「君は、私の詩を救ってくれた。私自身を救ってくれた。そして——」
馨は言葉を切り、深く息を吸った。
「君がいたから、私はもう一度、生きようと思えた」
馨の声は震えていた。しかし、それは悲しみではなく、溢れる想いを必死に抑えようとする震えだった。
「皐月さん——私は、君に伝えたいことがある」
皐月の心臓が、大きく跳ねた。
「私は——」
「待ってください」
皐月は、馨の言葉を遮った。
「その前に、私から言わせてください」
馨は驚いたように皐月を見つめた。
皐月は、何日も前から用意していた言葉を、ゆっくりと紡ぎ始めた。
「馨さん。私は、船の上であなたに出会ってから、ずっと考えてきました。あなたが黄瀛であることも、御厨馨であることも——私は、そのすべてを知った上で、あなたの本当の名前を呼びたい」
「本当の名前——」
「黄瀛は、あなたが匿名で詩を書くための名前でした。御厨馨は、あなたが商人として生きるための名前でした。でも——あなたは、そのどちらも本当のあなたです。詩人であり、商人であり、そしてひとりの——」
皐月は一歩、馨に近づいた。
「ただひとりの、人間です。私は、そのあなたを——どちらの仮面も必要としない、ありのままのあなたを、愛しています」
言葉が、夜の闇に溶けていった。
馨は、しばらく黙っていた。黄浦江の波音だけが、二人の間に響いている。
やがて——。
馨は、ゆっくりと皐月の両手を取った。
「皐月さん——いや、皐月」
初めて、名前を呼び捨てにされた。
「私は、君にふさわしい人間かどうか、まだ自信がない。詩人としても、商人としても、まだ道半ばだ。でも——」
馨は皐月の目をまっすぐに見つめた。その目には、涙が光っていた。
「君を愛している。この気持ちは、もう隠せない。隠したくない」
皐月の目から、涙がこぼれ落ちた。
「馨——」
二人は、黄浦江の畔で、固く抱きしめ合った。
船の汽笛が、別れを告げるように鳴り響く。しかしそれはもう、別れの汽笛ではなかった。新しい旅立ちを告げる、祝いの音だった。
十
翌朝。
長崎へ向かう汽船が、黄浦江の波止場に停泊していた。
空は晴れ渡り、初夏の陽光が水面にきらめいている。あの日、皐月が初めて上海に降り立ったときと、同じような天気だった。
波止場には、多くの見送りの人々が集まっていた。翠蘭、陳老師、森田、周文英——馨と皐月を支えてくれた人たちが、口々に別れの言葉をかけてくれる。
「馨さん、皐月さん、お元気で」
翠蘭が涙をこらえながら言った。
「必ず、また会いましょう。今度は、日本で」
「ありがとう、翠蘭さん。あなたがいてくれて、本当によかった」
皐月が手を握り返す。
陳老師は、馨の肩をぽんと叩いた。
「馨、お前はようやく、自分自身になれたようだな」
「老師のおかげです。あなたがいなければ、私はとうに詩を捨てていました」
「馬鹿を言え。お前は自分で道を見つけた。私は少し、手助けしただけだ」
陳老師は眼鏡の奥の目を細めた。
「日本に帰っても、詩を書き続けろ。お前の詩には、まだ書かれていない言葉がたくさんあるはずだ」
「はい。必ず」
「それから、皐月」陳老師は皐月に向き直った。「君は、馨の詩の一番の理解者だ。どうか、これからも彼を見守ってやってほしい」
「老師——」
皐月は深々と頭を下げた。
「老師から教わったことは、決して忘れません。私もまた、詩人として成長して、必ず老師に認めていただけるような詩を書きます」
「楽しみにしているよ」
森田や周文英をはじめ、文学サロンの仲間たちも、次々に馨の手を握った。
「黄瀛先生——いや、御厨先生。あなたの次の詩を、心待ちにしています」
「今度は、本名で発表してください。私たちは、黄瀛としてのあなたの詩も、御厨馨としてのあなたの詩も、どちらも愛していますから」
馨は一人ひとりの手を握り返し、深く礼をした。
「皆さん。本当に——本当にありがとうございました。私は、皆さんの期待に応えられる詩を書きます。これからは、匿名ではなく、御厨馨として」
汽笛が鳴った。
出航の時間だ。
馨と皐月は、タラップを上がった。振り返ると、波止場の人々が手を振っている。翠蘭はハンカチを振り、陳老師は静かに頷き、森田たちは歓声を上げている。
甲板に出ると、黄浦江の全景が広がった。左岸には租界の壮麗な建物群、右岸には古い中国の家並み——。あの日、皐月が初めて見た景色と、何も変わっていない。だが、皐月の心は、あの日とはまったく違っていた。
「皐月」
馨が隣に立った。
「君とこうして、同じ船に乗る日が来るとは——あの船の中では、想像もできなかった」
「私もです。でも——」
皐月は馨の手を取った。
「こうなることを、どこかで信じていました。あなたの詩が、私にそう教えてくれたから」
「私の詩が?」
「ええ。あなたの詩には、いつもかすかな希望があった。どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、それでも言葉を紡ぐことをやめなかった。それが——あなたの本当の姿だったのです」
馨は何も言わず、ただ皐月の手を強く握り返した。
船が、ゆっくりと岸壁を離れた。
黄浦江の濁った流れが、船体を揺らす。瓦斯灯の街並みが、少しずつ遠ざかっていく。あの建物も、あの路地も、あの古書店も——すべてが、思い出の中に溶けていく。
「上海に、感謝しなければ」
馨が呟いた。
「この街があったから、私は詩を書けた。矛盾に満ち、混沌とし、すべてが混ざり合うこの街——境界の街があったから、私は私でいられた」
「ええ。私も、この街に感謝しています。上海があったから——あなたに出会えた」
皐月の言葉に、馨は微笑んだ。その笑顔には、かつての物憂げな翳りはもうなかった。あるのは、静かな決意と、未来への希望だけだった。
「ねえ、皐月」
「何ですか」
「長崎に着いたら——君の両親に、挨拶に行ってもいいだろうか」
皐月は目を丸くした。
「私の両親に?」
「ああ。私はこれから、君の隣で生きていきたい。詩人として、商人として、そして——君を愛する者として。だから、きちんと筋を通したいんだ」
皐月の頬が、ぽっと赤く染まった。
「馨——」
「まだ、自信はない。私はこれから、一からやり直さなければならない。君にふさわしい男になれるかどうか——」
皐月は首を振った。
「あなたはもう、十分に——」
「いや、聞いてほしい」
馨は皐月の両肩に手を置いた。
「私はこれまで、自分を偽って生きてきた。でも、これからは違う。本当の自分で生きる。そして必ず、君が誇れるような詩人になる。君が愛した黄瀛の詩を超える詩を、御厨馨の名前で書いてみせる」
「馨——」
「約束する。君の信じた私の詩が、間違いではなかったことを証明する。君が私の詩に救われたと言ってくれた——その言葉に、私はこれからずっと支えられるだろう。そして今度は、私の詩で、君を——」
馨は言葉を切り、それからはにかむように笑った。
「いや、これはやはり、詩に書くことだな。言葉が多すぎると、陳老師に叱られる」
皐月は笑った。馨も笑った。二人の笑い声が、黄浦江の風に乗って、遠くへと流れていく。
十一 エピローグ ——桜の国へ
長崎への船旅は、あの上海へ向かったときとは、まったく違うものだった。
皐月と馨は、できる限りの時間を甲板で過ごした。海を見つめ、詩を語り合い、これからの人生について話し合った。
「東京で、小さな出版社を始めようと思う」
馨が言った。
「貿易の仕事も続けるが、それと同じくらい、新しい詩の出版に力を入れたい。僕たちが上海で夢見たような、東洋と西洋の融合した新しい詩——それを世に出す手伝いがしたいんだ」
「素敵です。私も、そこで詩を発表できますか」
「もちろん。君の詩集が、その出版社の第一号だ」
「でも、私はまだまだ未熟で——」
「未熟でいい。詩人は一生未熟なものだと、老師も言っていただろう。大切なのは、書き続けることだ」
船は東シナ海を渡り、長崎へと近づいていく。皐月は、甲板から見える海の色が、少しずつ変わっていくのを感じていた。黄浦江の濁りから、大海原の碧へ——。それはまるで、馨の心の変化を映しているようでもあった。
「馨、ひとつ聞いてもいいですか」
「何だい」
「黄瀛という名前は、これからどうするのですか」
馨は少し考えてから答えた。
「黄瀛は、僕の一部として、これからもずっと生き続ける。僕が匿名で詩を書いていたときの名前——あの名前があったから、僕は詩を続けられた。でも、これからは——」
馨は皐月の目を見つめた。
「御厨馨として書く。黄瀛が書いてきたものを、今度は本名で引き継ぐ。それは、僕の過去を否定することではなく、すべてを受け入れて前に進むことだと思う」
「そうですね。黄瀛の詩があったから、今のあなたがいる——」
「そして、君がいる」
馨は皐月の手を取った。
「皐月。君は、僕の詩の一番の読者であり、僕自身の一番の理解者だ。これからもずっと——僕の詩を、そして僕自身を、見守っていてほしい」
「もちろんです。私こそ——私の詩を、これからも見ていてください。あなたに教わったことを胸に、私は私の言葉を紡ぎ続ける。いつか、あなたの詩に並べるように——」
「並ぶ必要なんてない」馨は首を振った。「君の詩は、君だけのものだ。僕の模倣でも、誰かの模倣でもない。君自身の言葉を、君自身の声で——それが一番大切なことだ」
馨の言葉は、船の上で初めて詩の話をしたときと、何も変わっていなかった。でも今は、その言葉の重みが、皐月にもよくわかる。自分の言葉を信じること。書き続けること。そして、誰かの心に届く言葉を紡ぐこと——。
「あ、見えてきた」
皐月が指さす先に、長崎の港が近づいていた。段々畑のように斜面に張りついた家々。港に浮かぶ無数の帆船。そして、山の上に建つ白い洋館——皐月の生まれ育った街。
「君の故郷か」
馨が感慨深そうに呟いた。
「ええ。桜の季節はもう終わってしまいましたが——それでも、私の一番大切な場所です」
「桜か。来年は、一緒に見られるだろうか」
皐月は馨の顔を見上げた。
「ええ、きっと。東京にも、長崎にも、桜は咲きます。そして——」
「そして?」
「私たちの心にも、いつか桜が咲くといいですね」
馨は皐月の肩を抱き寄せた。
「君と出会ってから、僕の心にはずっと花が咲いている。黄浦江の霧の中で、君という光を見つけた——それだけで、僕の人生はもう、救われているんだ」
船が、ゆっくりと長崎の波止場に近づいていく。
かつて、馨が上海へ向かう皐月を見送った場所。今度は、二人でその場所に立つ——いや、これからは、二人でどこまでも歩いていくのだ。
「桜の国に、ようこそ」
皐月が微笑んだ。
馨もまた、心からの笑顔で応えた。
長崎の空は、高く澄み渡っていた。
船が岸壁に着き、タラップが降ろされる。
皐月は、馨の手を取って、第一歩を踏み出した。日本への第一歩。新しい人生への第一歩。そして——二人で歩む未来への第一歩。
波止場には、皐月の父が立っていた。娘の手紙で事情を知り、迎えに来たのだ。その隣には、驚いたことに——馨の父の姿もあった。光亜商会の先代、御厨宗一郎である。
「馨——」
宗一郎が、震える声で息子の名を呼んだ。
「父上——なぜ、ここに」
「皐月さんから手紙をもらった。すべてを——これまでのことを、包み隠さず書いてあった。お前がなぜ詩を書いていたのか。なぜ匿名だったのか。そして——この先、どう生きようとしているのか」
宗一郎は、息子の前に歩み寄った。
「私は——お前に、つらい思いをさせていたのだな」
「父上——」
「お前が詩を書いていることは、薄々知っていた。だが、見て見ぬふりをしていた。商家の跡取りが詩など——そう思っていたのは、私の方だったのだ」
宗一郎は深く頭を下げた。
「許してくれ、馨」
「父上、お顔を上げてください」
馨は、父の手を取った。
「私は——私は、父上の期待に応えようとしながら、自分の夢も諦めきれずにいました。その結果が、あのような二重生活です。私は、誰よりも自分自身を欺いていた。だから、父上が謝ることなど何も——」
「しかし——」
「これからは、胸を張って生きます。御厨馨として、商人として、そして詩人として。どちらも偽らざる私自身です。父上が築かれた商会を守りながら、私の詩も育てていく——そんな生き方を、私は選びます」
宗一郎は、息子の顔をじっと見つめた。そこには、かつての弱々しい少年の面影はなかった。上海で苦しみ、もがき、そして自分自身を見つけた男の顔があった。
「大きくなったな、馨」
宗一郎の目に、涙が光った。
「ああ。お前はもう、一人前の男だ」
父子は固く抱き合った。長い歳月を隔てて、ようやく心が通い合った瞬間だった。
皐月の父もまた、娘の成長を感じていた。
「皐月——上海で、お前は何を見てきたのだ」
「お父様。私——」
皐月は、父の前に立った。
「私は、詩人になります。これから東京で勉強し、自分の言葉を磨き、いつか必ず、世に認められる詩人に——」
「よかろう」
父は、皐月の言葉を遮って言った。
「お前が上海へ行きたいと言ったとき、私は内心、反対だった。女がひとりで異国へ行くなど——そう思っていた。だが、今のお前の顔を見ればわかる。お前は、行くべきところに行き、会うべき人に会い、学ぶべきことを学んできたのだな」
「はい」
「ならば、もう何も言うまい。東京へ行きなさい。詩人になりなさい。ただし——」
父はちらりと馨を見た。
「たまには、長崎にも帰ってくるのだぞ」
皐月は笑った。
「もちろんです、お父様」