Fahrenheit -華氏- Ⅲ
急いで帰っていった啓。
それは瑞野さんとの約束の為―――……
思わずプラダのバッグが手から抜け落ちそうになったけれど慌てて持ち直す。
「で?」と短く返すと
「で…?あ、だからさ~お互い暇じゃん?一緒に…」
「生憎ですが私は暇じゃありません。予定がありますので」そっけなく言って今度こそ彼の横を素通りする。
「えー残念」と二村さんは悔しそうに唇を尖らせた。
「たまにはいいんじゃないですか?ひとりの夜って言うのも。
あなたはお相手がたくさんいらっしゃって大変なご様子なので」
嫌味をたっぷり含ませて言ってやると二村さんは少し怯んだように顎を引き、今度こそあたしはその場を立ち去った。
二村さん―――今度は何を企んでるの。
会社を出てすぐに葵さんに電話をした。
『もっし~♪』相変わらずふざけた挨拶だ。
「お疲れ様です。今、どちらに?」と聞くと
『今?今は居酒屋?そうそ!空汰からミミちゃんを尾行しろとか言われてさ』
「なるほど、ではそのままそこで張っててください。結果を報告してください」
手短に言い、あたしはほぼ強引に通話を切った。
二村さん―――葵さんを利用して瑞野さんの動向を探っているのだ。
でも―――啓が一緒とは限らない。葵さんは啓の顔を知らない。
適当なことを言って、あたしを動揺させてるだけだ。
それよりも、あたしにとって今一番大切なこと。
それは葵さんに尾行されないこと。