Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「ああ、瑠華ちゃん、仕事中悪いね……」言いかけて、彼は目を開いてまばたいた。
「手、どうしたんだい?」と聞かれ、あたしは慌てて包帯が巻かれた手を庇うように左手でその場所を隠した。
「ちょっと…転んでしまって」
さっきと同じ言い訳をして、俯く。
「大丈夫かい?病院には…」
「行ってきました。消毒もしてもらいました」
極力この話題から逸らしたくてあたしは小さな嘘をついた。
「そうか、それならいいけど」
おじさまはいつもの“会長”と言う顔を仕舞ってきさくに挨拶してくれる。“瑠華ちゃん”と呼ばれるのも私用のときだけだ。
それでも一応
「お疲れ様です」あたしは頭を下げた。
「堅苦しいのは今日はなし、と言うことで掛けたまえ」と言いおじ様は優雅な動作で応接セットのソファを促す。
言われた通りソファに腰を下ろす。
タイミングを見計らってか、絶妙な間でノックがされ「失礼します」と綾子さんの声が聞こえ、おじ様とあたしの前に、ロイヤルコペンハーゲンのコーヒーカップに入ったコーヒーを置いて行き「失礼いたしました」と言ってまた会長室から出て行く。
「昨日、“そーさん”から電話が掛かってきてね」
そーさん……宗二郎…うちのパパ?
因みにあたしのパパと啓のおじさまは“そーさん”と“すーさん”と呼びあっている。宗二郎と昴で“そーさん”と“すーさん”
おじさまはシュガーポットからスプーン二杯分の砂糖をコーヒーに入れ、
「父が何か…」あたしが切り出した。
「いやぁ久しぶりにそーさんと話して盛り上がってね、それで話の中でそーさんが瑠華ちゃんのことを心配していたから」
「私の…?」
「全然連絡を寄越さないから心配だって」
「うちはまぁ…淡泊な方で」
「知っているよ。君がそう言う性格なのを。だから余計心配していたよ。君が何か不安を抱えてないか、幸せなのか、笑っているか」
不安
幸せ
笑って―――
父親って不思議ね。何も言ってないのに、そう言うところセンサー?って言うのかしら妙な勘が働くものね。マックスとの結婚を反対したのもパパだった。
「ご安心を。私からも父に言っておきます。私は何もない、と」
そう、
何もなかったのだ―――
啓と出逢って、啓に恋をして、彼を愛して―――
NYを出る時二度と恋をしないと誓った。
なのに
恋をした。
けれど父親に報告する前に、
終わった。
だから何もないのだ。