Fahrenheit -華氏- Ⅲ
逃げるように営業回りを詰め込みたかったが、俺の不在時を狙ってまた二村が瑠華にちょっかいをかけにきたら―――
そう思うとむやみに意味のない営業回りをするのも……
考えた末、結局営業回りをやめて内勤に徹することにした。
瑠華をこれ以上傷付けたくない。
幸いにも午後はこれと言って大きな出来事もなく、しかし平和とは言い難い空気の中無事に終えることになった。
定時を過ぎて30分後に瑠華の日報が俺のメールに届いた。
「お疲れ様です、お先に失礼いたします」と瑠華がバッグをデスクに置いていると
「あれ、柏木さん今日も早いですね」と佐々木が顔を上げる。
「今日は携帯を変えに行こうかと」と瑠華は律儀に佐々木に説明をしている。
「やるべきことはやりましたので」瑠華は淡々と言い「この案件、稟議を作成したのでお願いします」と機械的に言って瑠華は俺に書類を手渡してきて「では、お先に失礼します」と一応は俺の方を向いたが視線が絡まることはなかった。
「ありがと。お疲れさん」俺も言葉も少な目に返して、瑠華は帰って行った。
瑠華がフロアから消えるのをきっちり見届けてから、佐々木が声を潜め
「あの……部長と柏木さん何かあったのですか…」
と探る様に聞いてきた。
またもギクリとして俺は目だけを上げると
「何でそんなことを聞く」とそっけなく言った。
「いえ……何となく……ギクシャクして見えたので…」
佐々木にまでもこの不自然なまでのぎこちなさを感じ取られちまったか。
けれど佐々木は恋愛絡みでギクシャクしているとは結びつけなかったようだ。
「仕事上で意見がぶつかっちゃったのかと…」
「んなことねーよ」
仕事上……ではな…
瑠華が残して行った稟議書はセントラル紡績とMother’s gateの引き合いの件だった。
細かい数字はもちろんのこと、その他利益換算、引き合いの進め方、全部が全部隙がなく完璧なものだった。
これならすんなり会長の決裁も下るだろう。
俺はまだ仕事を続けていた佐々木に向かって、
「今日はもうあがれ」と短く言った。
「え?」佐々木が顔を上げる。
バサッ
俺はわざと大きな音を立てて、瑠華が作った稟議をデスクに落とした。
「これから一件“営業”が入った。今から出かける」
俺の発言に
「え?今からですか?」と佐々木が目を丸める。
「ああ、帰りは遅くなると思うから、お前ももう上がっていいよ」と簡単に言い
「じゃ、じゃぁお先に失礼します……」と素直に頭を下げる。
佐々木を見送り、俺は腰をあげた。
と、ほぼ同時だった。
「あの……お疲れ様です」
瑞野さんが遠慮がちにパーテーションから顔を出した。