Fahrenheit -華氏- Ⅲ

店内に喫煙ルームは一カ所だけ。狭い個室の中、のっぽのステンレス製の灰皿が一個だけ配置されていた。その灰皿の口は多くの喫煙者が利用した後なのだろうか黒い煤で汚れていた。店内はこざっぱりときれいだったのに死角と言うのかしらね、見えない所が意外に杜撰だ。


あたしは持ってきたバッグからシガレットケースを取り出したが、葵さんはタバコの箱を取り出す様子がない。それどころかジーンズのポケットからスマホを取り出し


「タバコ、吸わないんですか?」と聞くと


「俺?もうずっと前に辞めたもん。タバコは口実」と言ってニっと白い歯を見せて笑う。


口実―――?嘘?


「さっきトイレで調べたんだ。伊藤 涼介って名前SNSで検索したらヒットしなかった」


なるほど、葵さんは彼なりに調べてくれてたってわけか。


「でも本名でやってる可能性は少ないんじゃ……私もミミちゃんだってアカウント名は別の名前ですし」


「だからね、この店のSNSを探ったんだよ。あいつ、妙に慣れてる感じだから常連かと思って」


なるほど。


「で、収穫は?」


「ビンゴ。ほら、これ見て」葵さんはたくさんある写真から一枚の写真をタップした。それは何でもないこの店の日常の風景に思えた。記事に”今日もお店は大繁盛してます。皆様に支えられ大変ありがたいことです”と書かれていた。画像を拡大してみる。その写真は客席の一部を映したものだろう。今、まさにあたしたちが座っている席にあの伊藤と名乗る男がマナミさん以外の女の人とワイングラスを傾けているものだった。


「これ」


思わず葵さんのスマホを奪うと、


「投稿は三日前、あいつやっぱ胡散臭いよ。それに左手薬指見た?」


左手薬指?


あたしはそこまで注視していない。ゆるゆると首を振ると


「たぶんあれは指輪の跡だね。あいつ結婚してるよ」


なるほど。


「Son of a bitch.(クソ野郎)」


あたしが顔を歪ませると、葵さんは「え?え?」と目をぱちくり。


< 778 / 836 >

この作品をシェア

pagetop