Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「お疲れ様です」とマナミさんに声を掛けると、マナミさんがはっとしたように顔を上げ「お、お疲れ様です」と弱弱しく挨拶を返してきた。
不思議なものだ。今の今まで社食でマナミさんと一緒になったことがないっていうのに、昨日の今日と言う凄い割合の偶然だ。
マナミさんは一人でぽつんと広いテーブルに座っていて、彼女の手元にあるカレーライスはあまり減っていなかった。顔色も悪い。
「ここ、いいですか?」と断りを入れあたしはマナミさんの向かい側に腰を下ろすと、ついてきた瑞野さんも慌ててあたしの隣に座った。
「あ……昨日は強引にあたしが誘ってしまいごめんなさい」とマナミさんが酷く恐縮したように身を縮ませる。
「昨日?」と事情を知らない瑞野さんがランチバッグからお弁当箱と水稲を取り出し首を捻る。
「私と”彼氏”が”デート”しているとき偶然マナミさんたちカップルに出会ったのです」とあたしが瑞野さんに軽く事情を説明すると
「ええ?何だか賑やかで楽しそうですね」と瑞野さんはいち早くマナミさんが暗い表情をしていたのを察知したろうに場を和ませようと声を和らげた。
「柏木補佐……昨日、実は……」
マナミさんはカレー用のスプーンにぐっと力を入れ、目を上げた。
あの自称伊藤から別れ話を切り出されたのか、案外早かったな。よっぽど指輪が大事と思える。それとも家庭か?
「何かありました?」それでも務めて平静に何事も知らなかったかのように焼きそばについてきたほうれん草のおひたしに箸を伸ばすと
「それが……涼介さん、あのとき様子が変で……」
まぁ?あたしが脅した後だから。
「あたし、悪いと思ったのですが涼介さんのあとを尾行したんですよ」
尾行?
それは予想外の行動だ。
あたしが顔を上げると、マナミさんは今にも泣き出しそうに瞳を揺らし俯いた。