Fahrenheit -華氏- Ⅲ


ホテルを出ると思ったより雨は少なかった。天空をイメージしてあるだけある会場は、地上から離れた空に近い為か雨が激しく感じたのだけかもしれない。雷ももう止んだようで、音すらしない。


疲れすぎて地下鉄を乗り継いで帰る気になれなかった。俺は早々とタクシーを拾うことに決め、ホテルのロータリーに停まっている一番前のタクシーに乗り込んだ。


行先を告げタクシーが走り出した。


走り出して割とすぐに瑠華からメールが来た。


”先ほどはご迷惑をお掛けしました。ご心配ありがとうございます。病院で診てもらった所骨には異常がなく、ただの軽い捻挫でした”


ただの捻挫―――


ほぅっと息が漏れた。


”良かった。それでも安静にしてね”と打って




”さっきの(キス)は―――”



と打ったところで、その文字を消した。


俺は何を言いたかったんだ。


『忘れて?』とでも?


そんな都合のいい話あるか。それに俺自身無かったことにはしたくない。


久しぶりに触れた。瑠華の唇。ぬくもり、甘い吐息、全部全部―――忘れたくないし、忘れられないよ。



―――――

――


家に帰りつき、鞄を乱暴にソファに投げ出すとさっき瑞野さんに押し付けられた般若の風呂敷包みがちょっと飛び出ていたことに気づいた。それを取り出すと、意外にもさっき見た時より怖く感じなかった。


それはいかにも素人が作りましたと言う粗削りなもので、昔、能楽の舞台で見た時の能面とは全然違うように見えた。


でも流石に般若の面は気持ちの良いものではない。何となく裏面を見ると、能面の目……しかも黒目の部分だけが小さく四角く穴があるだけで、あとは真っ黒に塗りつぶされていた。漆塗りなのだろうか。


能楽者たちはこの暗い世界で―――舞台で演技をするのだ。


瑞野さんもまた、演技をしていたに違いない。


あんな風に豹変した瑞野さんをついさっき目撃したばかりなのに、俺はまだ彼女の素でないことを信じたいのかな。


小さくため息を吐いて能面の裏面を見ていると耳?のすぐ脇に白い文字が小さく彫られていた。


「何だ?」


目を凝らしてその文字を見ると



”みゆき、大好きだよ。いつか絶対結婚しような”



と一言彫ってあった。


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