安倍家の養子になりまして
第一章、安倍晴明という人
それから月日が流れ、童子丸は、いまや『稀代の天才』と称えられる青年へと成長していた。

現在の名は安倍晴明(あべのせいめい)。

京の都でその名を知らぬ者はいない、日の出勢いのごとき陰陽師である。

​都に怪異が現れれば晴明の名が真っ先に呼ばれ、不吉な流星が出たと騒がれれば、陰陽寮から大急ぎで使いが走る。

『安倍晴明殿ならば鬼すら退ける』
『式神を自在に操るらしい』
『 狐の血を引いているのだとか……』

​京の町では、彼の神秘性を称えるそんな噂が、日夜途切れることなく囁かれていた。

けれど、噂の張本人である晴明の、家での姿といえば――。

「桃花、お腹空いた」

「さっき、あれほど椿餅食べてたじゃん……」

普段着の狩衣は半分ほど着崩れ、乱れた髪を結び直す気配すら微塵もない。そこには、都の人間が憧れ、畏怖する『完璧な陰陽師』の欠片も残っていなかった。

「町のみんなが見たら倒れるね」

「どうして?僕が格好良すぎて?」

「噂と違いすぎて」

​私が即答すると、晴明は「ひどいなぁ」と子供のように笑いながら、ごろんと寝返りを打った。

「僕はそんな完璧じゃないよ。そりゃあ、術で右に出る者はいないけど、普通の宮仕えなんだから」

「ははは、蜜柑(みかん)の皮すらろくに剥けないのに……?」

​私は呆れながら、手元の蜜柑の皮を丁寧に剥いてやる。

そもそも、何が悲しくて公家の姫君達から恋文と一緒に晴明宛てに送られてきた蜜柑を、私が剥いてやらなければならないのだろうか。

晴明の横には、それこそ山のように恋文が積まれている。しかも、どれも薄紅や若草色といった色合いの紙で、几帳面に高価な香が焚き染められていた。

開かずとも、上質な紙が使われていることが一目で分かる。いくつもの高価な香の匂いが混ざり合った甘い香りに、私は少し鼻をムズムズさせた。

「すごいねぇ」

「何が?」

「恋文の量」

​ひっきりなしに送られてくる熱烈な文だが、晴明本人は全く読む気がないらしい。開封すらされていない綺麗な文が、まるで床の間の掛け軸のように高く積み上げられている。

「返事しなくていいの? 待ってると思うよ」

「じゃあ、桃花が僕の代わりに書いてくれる?代筆は大歓迎だよ」

「嫌だよ」

「じゃあいいや」

「良くないと思う」

​すると晴明は、寝そべったままこちらをちらりと盗み見て、少しだけ真面目な声音になった。

​「みんなが憧れているのは、僕じゃなくて『天才陰陽師・安倍晴明』っていう虚像だからさ。そんなキラキラした手紙を読んでも、窮屈(きゅうくつ)なだけだよ」

​そう言って、彼は縁側から起き上がり、山積みの恋文のにある一つを持ち上げ、また退屈そうに戻した。

​「それよりさ、父上と母上が旅先から送ってくれたあの珍しいお茶、まだ残ってたっけ?美味しかったよねぇ」
「あ、話変えた」

私の呟きに聞こえないふりを決め込み、晴明は「お茶淹れてねー」と言い残して、そそくさと自室へ行ってしまった。

私はその背中に向かって、声を大にして釘を刺す。

「返事はちゃんと書きなよー」

「……分かったー」

​奥の部屋から、気の抜けた返事が返ってきた。

どうやら、ようやく返事を書き出す気になってくれたみたいだ。あの面倒くさがりが珍しいこともあるものだ、と私は心の中で感心した。

​私は、父上と母上が旅行先から定期的に送りつけてくる、地元の珍しいお茶とお菓子をお盆に乗せ、晴明の自室の前へと立った。

あの二人は今、『夫婦水入らずの第二の人生』と称して、あちこちの霊山や名所を呑気に満喫中なのだ。

「晴明、お茶持ってきたよ」

​声をかけて襖を開けると、そこには文机に向かって筆を走らせる晴明の姿があった。

いつもなら面倒そうにため息をつくはずの彼が、今は珍しく真剣な表情をしている。その姿に少し驚きながら、お茶とお菓子の乗ったお盆を机の傍らに置いた。

​「はい、お茶。……で、本当に返事書いてるんだ?」

​どれどれ、と横から覗き込んでみる。机の上に広げられていたのは、都の姫君達からの豪華な恋文……ではなく、少し手慣れた風合いの、見覚えのある古い紙だった。

晴明が手元の白紙にさらさらと文字を書き連ねていくのを見て、私は目を丸くする。

「式神に代筆を頼まないなんて……偉いよ晴明!」

「母上に怒られたからね」

​晴明は苦笑した。そういえば数年前、晴明が返事を書くのを面倒くさがって、式神の紙人形に筆を持たせて代筆させていると知った母上は、『和歌がヘッタクソでもね!自分でちゃんと書いたほうが、相手も何倍も喜ぶわよ!?』と、彼の両肩をガタガタと激しく揺さぶって説教していた。

​ちなみにその時、父上は横で「そうだそうだ!」と大笑いしていた。

「あはは!そうそう、父上ったら『さすが葛ノ葉、良いことを言う!』なんて調子よく乗っかってさ。そのあと母上に『あなたも昔、私の気を引こうとして他人の歌を丸写しして送ってきたでしょう』って暴露されて、一瞬で目を逸らしてたよねー」

「急に二人の馴れ初め話を聞かされるはめになるとは思わなかったけどね」

​晴明は懐かしそうに口元を緩めながら、滑らかな手つきで筆を動かす。

窓から差し込む光に照らされたその横顔は、さっきまで縁側で「蜜柑も剥けない」だの「恋文で圧死しかけただの」と言っていた男と同じとは思えないほど、絵画のように整っていた。

​「喋らなければそれなりに見栄えが良いよねー、晴明って」

​「それなり、はひどいなぁ。せめて『都一の美男子』くらい言ってくれても良いじゃない。……ほら、一応書き終わったよ」

​晴明は満足げに息を吐くと、書き上げたばかりの返書を乾かす。そこに並ぶのは、彼の性格には似合わない、驚くほど流麗で美しい文字。

どれどれ、と私は書かれた和歌を読み上げる。

​「『君がため 春の野に出でて 若菜摘む……』って、晴明。これ、光孝天皇の有名な歌じゃない。アレンジどころか、上の句そのままだよ」

​「あ、分かった? でも下はちょっと変えたから大丈夫。父上みたいに丸写しして母上に何十年もからかわれ続けるよりは、ずっとマシだと思うんだよね」

​​悪びれもせずに、さも名案を思いついたと言わんばかりの顔で言う晴明。彼はそのまま、お盆に載せてきたお菓子に手を伸ばし、ぱくりと口に放り込んだ。

ヤバい。この男、天才すぎて常識のネジが一本飛んでいる。本当にヤバい。

私は晴明の肩にガシッと両手を置き、引用された偉大な御方に対しての土下座を必死に説得し始めた。

「今すぐこの方に謝って!」

「方って言い方が妙に丁寧だね」

「相手は帝だよ!」

私は晴明の肩をがっしり掴んだ。

「ほら!今すぐ!土下座!」

「えぇー……」

「“光孝院様、大変申し訳ありませんでした”って!」

「本人もういないじゃない」

「生きてるか死んでるかの問題じゃないの!気持ちの問題!」

ぐらぐらと激しく肩を揺さぶると、晴明は目を回しそうになりながら、困ったように笑ってようやく筆を置いた。

​その後も、ああでもないこうでもないと、部屋の中でやいややいやと言い合いを続け、私が横で見張りながら、何とかまともな返事をすべて書き上げさせることができた。

「これで全部?」

「うん」

晴明は大げさに両手を天に突き上げて伸びをすると、糸が切れた人形のように、そのまま後ろにごろんとひっくり返った。「大仕事をやりきった」と言わんばかりの達成感に満ちた顔をしているが、実際に頭と手を動かさせ、監視していたのは私である。

​「はいはい、お疲れ様。でも、これで母上に『手紙はどうしたの?』って笑顔で詰め寄られずに済むんだから、私に感謝してよね」

​「……まぁ、僕一人だったら確実に式神に丸投げして、後で母上に怒られる羽目になってただろうからね。そこは素直に感謝しておくよ。ありがとう、桃花」

​晴明は寝転がったまま、顔だけをこちらに向けて、観念したようにふにゃりと笑った。

……明日って雨降るっけ?
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