安倍家の養子になりまして
「桃花、助手がほしい」
お茶を飲みながら話していると、晴明がそんなことを言った。
私はお煎餅を齧る手を止め、まじまじと彼の顔を見つめた。
「助手? この前『家に他人が入ってくるなんて絶対に嫌だ』って、床にへばりついて駄々こねてたじゃん」
「家用じゃないよ。仕事の」
「仕事?」
「ほら、僕って天才だから都の結界の維持とか、怪異の退治とか、ほとんど全部の仕事が舞い込んでくるんだよねぇ。しかも、護符はほとんど僕が作ったやつをみんな使ってるし」
そう言って晴明は、お気に入りの湯呑みを傾けながら、わざとらしく深いため息をついた。
「僕がいる間だったら全然いいよ。でも、いない時とかどうするの?自分の身は自分で守らなきゃ」
「……仕事の愚痴?」
私はお煎餅を飲み込み、呆れ半分、感心半分で問い返す。
「これまでは陰陽寮のみんなに護符を配って、急場を凌いでもらってたんだけどさ。最近はその護符の注文の処理やら、対怪異やらで僕の貴重な睡眠時間が削られてるんだ。ほら、僕が内裏の陰陽寮に出向いてる間とか、地方の出張で不在の時、都の結界の微調整や書類の整理を任せられる人が一人いれば、みんな平和だと思わない?」
「まぁ、確かに晴明が倒れたら都の終わりだしね」
私は部屋の隅に積まれた、おどろおどろしい文字の書かれた書類を見つめながら頷く。
「そう! だからこそ、僕の代わりに『安倍晴明の留守』を完璧に守ってくれる存在が必要なんだ。僕の術の癖を理解していて、僕がいない時でも冷静に護符の管理ができて、ついでに陰陽寮からの嫌がらせのような報告書を笑顔ではじき返してくれるような、そんな有能な助手がほしいんだ」
晴明はそう言うと、いたずらっぽく笑って私の方を盗み見てきた。その目は明らかに「ねえ、桃花やってよ」と言っている。
「ねぇ、お願い」
「いやー」
「お願い」
「嫌」
晴明はにじにじと這い寄ってきて、私の着物の袖をきゅっと掴んだ。外では鬼をも震え上がらせる陰陽師が、完全に捨てられた仔犬のような目で見上げてくる。
「絶対に嫌。だいたい、私にその有能な助手としての呪術の知識があると思うわけ? 陰陽寮からの嫌がらせの報告書なんて、読んだだけで私の頭が爆発するよ」
「知識なんて後から僕が叩き込むから大丈夫。桃花は頭が良いし、何より僕の術を一番近くで見てきたんだから、適任以外の何者でもないよ……それに」
最後の言葉を、晴明は少しトーンを落として、ずるいくらい真っ直ぐな、熱を帯びた瞳で言った。
「……僕が、一番素を出せる相手だからね」
最後の言葉を、晴明は少しトーンを落として、ずるいくらい真っ直ぐな目で言った。
完璧な『天才陰陽師』という虚像の仮面を被っている彼が唯一、肩の力を抜いて情けない姿を見せられる場所。その信頼の重さが伝わってきて、私は掴まれた袖を見つめたまま、一瞬言葉に詰まってしまう。
すると、それを都合よく肯定と受け取ったのか、晴明の顔にみるみるうちにニコニコとした笑みが広がった。
「まだ引き受けるって言ってないよ!?」
私は慌てて我に返り、掴まれた袖を軽く引っ張って晴明の手を振り払った。
けれど、彼のあの真っ直ぐな言葉のあとでは、さっきまでのように全力で突き放すこともできなくなっている自分がいて、少し悔しい。
「えぇー、今の間は『いいよ』の合図じゃないの?桃花、僕を見捨てるの?僕が過労で死んでも良いの?」
晴明はわざとらしくまた床に突っ伏して、下から上目遣いで私を見てくる。本当に、自分の見せ方をよく分かっている男だ。
「陰陽寮は女人厳禁じゃなかったの?」
私の放った『女人厳禁』という言葉に、床に突っ伏していた晴明の動きがピタリと止まった。
上目遣いのまま、バチバチと瞬きを繰り返している。どうやらこの天才陰陽師、あまりにも必死すぎて、その最も基本的な規則を完全に失念していたらしい。
「そうだよ、陰陽寮は女人禁制。私が手伝いたくても、そもそも入れてもらえないでしょ。はい、この話は本当におしまい」
私が勝利を確信して、ふふんと鼻を鳴らしながら残りの煎餅を口に放り込むと、晴明はゆっくりと体を起こした。その顔から情けない仔犬の表情が消え、何か悪巧みを思いついた時の、あの不敵で綺麗な笑みが戻ってくる。
「そこは大丈夫。帝からは許可を貰ったんだ。いや、帝が直々に助手を取ることを提案したんだよ?」
「どこまで酷使したいの!?」
まさかの『帝のお墨付き』という究極の切り札を出され、私の声は自然と裏返った。女人禁制という絶対のルールを、まさか国の最高権力で強引にねじ伏せてくるとは。
怪異より人間、というか権力者が一番怖いとは、昔の人はよく言ったものだ。
恐ろしや、晴明の交渉力。
「いつその話をつけてきたの?全然知らなかったんだけど」
私が心底呆れ果てた目を向けると、晴明は悪びれもせずに、手元のお茶をずずっと啜った。
「一昨日、内裏に結界の定期報告に行った時だよ。僕が『最近、護符の注文が多すぎて寝る時間がない。このままだと結界がうっかり失敗しちゃうかもなぁ』ってわざとらしく大きなため息をついたら、顔を真っ青にされちゃってさ」
「脅迫じゃん!」
「人聞きが悪いなぁ。ただの相談だってば」
晴明は何事もなかったかのように微笑んだ。
「ねぇ、桃花。他の言い訳はある?」
あ、ダメだ。この目は完全に、獲物を追い詰めて楽しんでいる時の目だ……!
それから数刻、両者一歩も引かない押し問答を繰り広げていたら、門前から「ごめんくださーい」と声が聞こえてきた。
お客さんかな?
私はこれ幸いとばかりに立ち上がり、晴明の熱い視線から逃れるようにして門へと急いだ。あの一歩も引かない押し問答から抜け出すには、まさに絶好の救世主の到来である。
「はい、ただいま!」
パタパタと足音を立てて玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは、二十代くらいの一人の若い男性だった。
着ている着物は全て仕立てが良さそうで、所作の美しさからもすぐに身分の高い人だと思われる。
「晴明はいるかな?」
その柔らかな声と作り物のような優美な顔に、私は一瞬で硬直した。
おっとりとした中にも隠しきれない高貴な雰囲気は、どう見てもその辺の役人や一般のお客さんではない。それこそ、内裏の奥深くにいらっしゃるような、雲の上の殿上人に違いない。
「えっと、晴明なら奥にいますが……」
私が完全に圧倒されてドギマギしていると、背後からパタパタと軽い足音が響き、晴明がひょっこりと顔を出した。普段の気だるげな様子はどこへやら、彼はその人物の顔を見るなり、驚いたように目を丸くした。
「……泰仁様!?どうしてここにいらっしゃるんですか?」
晴明がかしこまっている……。公家の方だろうか?それとも、陰陽寮の上司とか?
晴明は目を見開いたまま、慌ててその場に平伏した。いつもは縁側で畳にへばりついているだらしない男が、見たこともないほど俊敏な動きで最敬礼の姿勢をとっている。
「そこまでかしこまらなくても良いよ。晴明にそうされるのは、なんだか友を失ったみたいで嫌なんだ」
その人は困ったように眉を下げて、ふわりと穏やかに微笑んだ。その一言で、緊迫していた玄関の空気が一気に和らぐ。
「あの……お名前を伺ってもよろしいでしょうか?私は桃花と申します」
「俺は泰仁。ただの旅人だよ」
「旅人だったんですか!?」
「うん」
「ただの旅人ねぇ……」
背後から、ものすごく低くてジトっとした晴明の声が聞こえた。恐る恐る振り返ると、平伏したまま顔だけを上げた晴明が、「嘘をおっしゃい」と言わんばかりの目を泰仁さんに向け、それから私を呆れたように見つめている。
「桃花。この御方は――」
「晴明、やめようね」
「ハイ」
泰仁さんがふわりと微笑みながら人差し指を口元に当てると、あの天才陰陽師が、まるで借りてきた猫のように一瞬で姿勢を正し、直立不動になった。
「ごめんね、桃花さん。驚かせてしまったね。『晴明の様子を見ておいで』って命をとある公家が受けたらしいんだけど、その公家が途中で怪我しちゃって、たまたま近くにいた俺が伝言を預かってきたんだ」
「そうなんですか?いつもと変わらず晴明は元気ですよ」
「元気そうで本当に良かった。君が傍で見てくれているなら、なおさら安心だね」
泰仁さんはほっとしたように胸をなでおろし、その場にすっと馴染むような自然な動作で、私へと温和な視線を向けた。
「それにしても、帝ってどんな人なんでしょうね?」
「帝に興味が?」
「あ、いえ、そういう意味じゃないんです。ただ、とても晴明のことを気にしている様子なので……民のことを考えられる優しい方なんだろうなぁって」
「そうかな?帝も実際はドロドロしたものを心の中で渦巻いているかもしれないよ」
その声色は、どこか乾いているように聞こえた。
「え?」
「いや、なんも」
泰仁さんはすぐにいつもの柔らかな微笑みに戻ったが、その瞳の奥にほんの一瞬だけ、深い影のようなものが過ったのを私は見逃さなかった。
旅人は各地をまわるから、左遷された公家の方から内裏の生々しい噂や、権力の裏にあるドロドロした話を耳にすることもあるのだろうか。
そんな私の気の迷いを見透かしたように、泰仁さんはふっと表情を和らげ、どこか楽しげに首を傾げた。
「桃花さんはお誘いを受けるの?」
「いやぁ、受けないでおこうかなーと」
私のその返事を聞いた瞬間、泰仁さんは少し意外そうに目を丸くし、それからどこか引き込まれるような、含みのある笑みを浮かべた。
「そうなんだ。晴明の助手になれば、色々と面白いものが見られると思うけれど……。やっぱり、気苦労が多そうだなって思ってしまうのかな?」
「それもありますし、何より私にそんな大役が務まるとは思えなくて。陰陽寮の書類整理なんて、考えただけで目が回りそうです」
私が苦笑交じりに肩をすくめると、泰仁さんは「なるほどね」と深く頷いた。その物腰はどこまでも柔らかく、こちらの緊張を自然と解きほぐしてくれるような不思議な温かさがある。
「なんか、二人だけで話が進んでないですかー?」
蚊帳の外に置かれていた晴明が、ついに耐えかねたようにジト目で割り込んできた。
「泰仁様、聞いてください。桃花はこうしてはぐらかしていますが、僕の術の癖を一番近くで見てきた、これ以上ない適任者なのです。彼女が手伝ってくれないと、僕は本当に寝る時間がなくなって、都の結界にうっかりヒビが入ってしまうかもしれません」
「ちょっと、晴明!初対面の人に妙な脅迫を波及させないで!」
私が慌てて突っ込むと、泰仁さんはくすくすと上品に袖で口元を隠して笑った。その様子は、内裏の暗部を憂う旅人というよりは、まるで親しい身内の掛け合いを心から楽しんでいるかのようだ。
「ふふ、本当に仲が良いんだね。でも、桃花さん」
泰仁さんは笑うのをやめると、すっと背筋を伸ばし、旅人とは思えないほどの強い眼差しで私を見つめた。
「晴明の言う通り、彼が過労で倒れてしまうのは民にとっても、そして彼を心配しているという『帝』にとっても、非常に困る事態なのだと思う。古い決まりに縛られず、君のような柔軟で温かい心を持った人が傍にいてくれたら、きっと誰もが救われるんじゃないかな。……と、伝言を頼んできた公家の方も言いたかったのかもしれないね」
ただの旅人の言葉のはずなのに、なぜか逆らえないような、不思議な威厳がそこにはあった。優しく諭されているのに、外堀を完璧に埋められ、退路を断たれたような感覚が私を包み込む。
隣の晴明は、私に背を向けて小さくガッツポーズをしていた。
「それに、君なら帝も多少の我儘は聞き入れてくれると思うよ」
「え?」
「なにせ、あの『呪われた帝』を優しいと言ったんだから」
泰仁さんの口から出た「呪われた帝」という不穏な言葉に、私は思わず息を呑んだ。
あの晴明を心配し、民を想う優しい人なのだろうと私が勝手に抱いていたイメージが、その一言で音を立てて崩れていく。
「あ、いや……今のは各地の噂話だよ」
泰仁さんは、しまったというように少しだけ視線を泳がせ、すぐにいつもの穏やかな微笑みを取り繕った。
「泰仁様、そのあたりで」
晴明が、いつもより低く、どこか切羽詰まった声で告げた。その表情には、悪巧みが成功した時の余裕など微塵もなく、目の前の旅人さんをこれ以上なく気遣うような、そんな真剣な眼差しが向けられている。
泰仁さんは晴明の様子を見て、ふっと小さく息を吐くと、どこか肩の力を抜いたように微笑んだ。
「そうだね。少しおしゃべりが過ぎた。ありがとう、俺も話せて楽しかったよ。次会う時はお茶菓子でも用意しようかな」
そう言って、泰仁さんはすっと綺麗な所作で身を翻した。
「あ、はい……お気をつけて!」
私が慌ててお辞儀をする傍らで、晴明は再び最敬礼の姿勢をとり、その姿を静かに見送っていた。
「……はぁぁぁぁぁぁ!!」
泰仁さんの優美な後ろ姿が完全に京の街並みに溶け込んで見えなくなった瞬間、晴明が肺にあるすべての空気を吐き出すかのような、ものすごい深いため息をついてその場にへたり込んだ。額にはうっすらと冷や汗まで浮かんでいる。
「ちょっと、 大丈夫? さっきから様子変だったけど……てか、知り合いだったんだね?」
「桃花……」
晴明は地面にしゃがみ込んだまま、恨めしそうな、それでいて心底疲れたような目で私を見上げてきた。
「お願いだから、もうそれ以上は何も考えないで。僕の寿命が縮む。というか、一瞬本気で縮んだ」
「え、何がそんなに怖かったのよ。ただの旅人さんでしょ? ……まぁ、ただの旅人にしては、あの晴明に様付けで呼ばれてるけど。弱みでも握られてるの?」
「……」
晴明は何かを言いかけ、それから諦めたように首を振って、のそりと起き上がった。その顔には、いつものだらしない、けれどどこかホッとしたような笑みが戻っている。
「何はともあれ、あの人のおかげで、君は僕の助手になるって約束したからね」
「うっ……」
そうだった。泰仁さんのあの不思議な説得力に押されて、つい返事をしてしまったのだ。
外堀を完璧に埋められ、最後は通りすがりの泰仁さんにまで説得されるなんて、我ながらチョロすぎる。
お茶を飲みながら話していると、晴明がそんなことを言った。
私はお煎餅を齧る手を止め、まじまじと彼の顔を見つめた。
「助手? この前『家に他人が入ってくるなんて絶対に嫌だ』って、床にへばりついて駄々こねてたじゃん」
「家用じゃないよ。仕事の」
「仕事?」
「ほら、僕って天才だから都の結界の維持とか、怪異の退治とか、ほとんど全部の仕事が舞い込んでくるんだよねぇ。しかも、護符はほとんど僕が作ったやつをみんな使ってるし」
そう言って晴明は、お気に入りの湯呑みを傾けながら、わざとらしく深いため息をついた。
「僕がいる間だったら全然いいよ。でも、いない時とかどうするの?自分の身は自分で守らなきゃ」
「……仕事の愚痴?」
私はお煎餅を飲み込み、呆れ半分、感心半分で問い返す。
「これまでは陰陽寮のみんなに護符を配って、急場を凌いでもらってたんだけどさ。最近はその護符の注文の処理やら、対怪異やらで僕の貴重な睡眠時間が削られてるんだ。ほら、僕が内裏の陰陽寮に出向いてる間とか、地方の出張で不在の時、都の結界の微調整や書類の整理を任せられる人が一人いれば、みんな平和だと思わない?」
「まぁ、確かに晴明が倒れたら都の終わりだしね」
私は部屋の隅に積まれた、おどろおどろしい文字の書かれた書類を見つめながら頷く。
「そう! だからこそ、僕の代わりに『安倍晴明の留守』を完璧に守ってくれる存在が必要なんだ。僕の術の癖を理解していて、僕がいない時でも冷静に護符の管理ができて、ついでに陰陽寮からの嫌がらせのような報告書を笑顔ではじき返してくれるような、そんな有能な助手がほしいんだ」
晴明はそう言うと、いたずらっぽく笑って私の方を盗み見てきた。その目は明らかに「ねえ、桃花やってよ」と言っている。
「ねぇ、お願い」
「いやー」
「お願い」
「嫌」
晴明はにじにじと這い寄ってきて、私の着物の袖をきゅっと掴んだ。外では鬼をも震え上がらせる陰陽師が、完全に捨てられた仔犬のような目で見上げてくる。
「絶対に嫌。だいたい、私にその有能な助手としての呪術の知識があると思うわけ? 陰陽寮からの嫌がらせの報告書なんて、読んだだけで私の頭が爆発するよ」
「知識なんて後から僕が叩き込むから大丈夫。桃花は頭が良いし、何より僕の術を一番近くで見てきたんだから、適任以外の何者でもないよ……それに」
最後の言葉を、晴明は少しトーンを落として、ずるいくらい真っ直ぐな、熱を帯びた瞳で言った。
「……僕が、一番素を出せる相手だからね」
最後の言葉を、晴明は少しトーンを落として、ずるいくらい真っ直ぐな目で言った。
完璧な『天才陰陽師』という虚像の仮面を被っている彼が唯一、肩の力を抜いて情けない姿を見せられる場所。その信頼の重さが伝わってきて、私は掴まれた袖を見つめたまま、一瞬言葉に詰まってしまう。
すると、それを都合よく肯定と受け取ったのか、晴明の顔にみるみるうちにニコニコとした笑みが広がった。
「まだ引き受けるって言ってないよ!?」
私は慌てて我に返り、掴まれた袖を軽く引っ張って晴明の手を振り払った。
けれど、彼のあの真っ直ぐな言葉のあとでは、さっきまでのように全力で突き放すこともできなくなっている自分がいて、少し悔しい。
「えぇー、今の間は『いいよ』の合図じゃないの?桃花、僕を見捨てるの?僕が過労で死んでも良いの?」
晴明はわざとらしくまた床に突っ伏して、下から上目遣いで私を見てくる。本当に、自分の見せ方をよく分かっている男だ。
「陰陽寮は女人厳禁じゃなかったの?」
私の放った『女人厳禁』という言葉に、床に突っ伏していた晴明の動きがピタリと止まった。
上目遣いのまま、バチバチと瞬きを繰り返している。どうやらこの天才陰陽師、あまりにも必死すぎて、その最も基本的な規則を完全に失念していたらしい。
「そうだよ、陰陽寮は女人禁制。私が手伝いたくても、そもそも入れてもらえないでしょ。はい、この話は本当におしまい」
私が勝利を確信して、ふふんと鼻を鳴らしながら残りの煎餅を口に放り込むと、晴明はゆっくりと体を起こした。その顔から情けない仔犬の表情が消え、何か悪巧みを思いついた時の、あの不敵で綺麗な笑みが戻ってくる。
「そこは大丈夫。帝からは許可を貰ったんだ。いや、帝が直々に助手を取ることを提案したんだよ?」
「どこまで酷使したいの!?」
まさかの『帝のお墨付き』という究極の切り札を出され、私の声は自然と裏返った。女人禁制という絶対のルールを、まさか国の最高権力で強引にねじ伏せてくるとは。
怪異より人間、というか権力者が一番怖いとは、昔の人はよく言ったものだ。
恐ろしや、晴明の交渉力。
「いつその話をつけてきたの?全然知らなかったんだけど」
私が心底呆れ果てた目を向けると、晴明は悪びれもせずに、手元のお茶をずずっと啜った。
「一昨日、内裏に結界の定期報告に行った時だよ。僕が『最近、護符の注文が多すぎて寝る時間がない。このままだと結界がうっかり失敗しちゃうかもなぁ』ってわざとらしく大きなため息をついたら、顔を真っ青にされちゃってさ」
「脅迫じゃん!」
「人聞きが悪いなぁ。ただの相談だってば」
晴明は何事もなかったかのように微笑んだ。
「ねぇ、桃花。他の言い訳はある?」
あ、ダメだ。この目は完全に、獲物を追い詰めて楽しんでいる時の目だ……!
それから数刻、両者一歩も引かない押し問答を繰り広げていたら、門前から「ごめんくださーい」と声が聞こえてきた。
お客さんかな?
私はこれ幸いとばかりに立ち上がり、晴明の熱い視線から逃れるようにして門へと急いだ。あの一歩も引かない押し問答から抜け出すには、まさに絶好の救世主の到来である。
「はい、ただいま!」
パタパタと足音を立てて玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは、二十代くらいの一人の若い男性だった。
着ている着物は全て仕立てが良さそうで、所作の美しさからもすぐに身分の高い人だと思われる。
「晴明はいるかな?」
その柔らかな声と作り物のような優美な顔に、私は一瞬で硬直した。
おっとりとした中にも隠しきれない高貴な雰囲気は、どう見てもその辺の役人や一般のお客さんではない。それこそ、内裏の奥深くにいらっしゃるような、雲の上の殿上人に違いない。
「えっと、晴明なら奥にいますが……」
私が完全に圧倒されてドギマギしていると、背後からパタパタと軽い足音が響き、晴明がひょっこりと顔を出した。普段の気だるげな様子はどこへやら、彼はその人物の顔を見るなり、驚いたように目を丸くした。
「……泰仁様!?どうしてここにいらっしゃるんですか?」
晴明がかしこまっている……。公家の方だろうか?それとも、陰陽寮の上司とか?
晴明は目を見開いたまま、慌ててその場に平伏した。いつもは縁側で畳にへばりついているだらしない男が、見たこともないほど俊敏な動きで最敬礼の姿勢をとっている。
「そこまでかしこまらなくても良いよ。晴明にそうされるのは、なんだか友を失ったみたいで嫌なんだ」
その人は困ったように眉を下げて、ふわりと穏やかに微笑んだ。その一言で、緊迫していた玄関の空気が一気に和らぐ。
「あの……お名前を伺ってもよろしいでしょうか?私は桃花と申します」
「俺は泰仁。ただの旅人だよ」
「旅人だったんですか!?」
「うん」
「ただの旅人ねぇ……」
背後から、ものすごく低くてジトっとした晴明の声が聞こえた。恐る恐る振り返ると、平伏したまま顔だけを上げた晴明が、「嘘をおっしゃい」と言わんばかりの目を泰仁さんに向け、それから私を呆れたように見つめている。
「桃花。この御方は――」
「晴明、やめようね」
「ハイ」
泰仁さんがふわりと微笑みながら人差し指を口元に当てると、あの天才陰陽師が、まるで借りてきた猫のように一瞬で姿勢を正し、直立不動になった。
「ごめんね、桃花さん。驚かせてしまったね。『晴明の様子を見ておいで』って命をとある公家が受けたらしいんだけど、その公家が途中で怪我しちゃって、たまたま近くにいた俺が伝言を預かってきたんだ」
「そうなんですか?いつもと変わらず晴明は元気ですよ」
「元気そうで本当に良かった。君が傍で見てくれているなら、なおさら安心だね」
泰仁さんはほっとしたように胸をなでおろし、その場にすっと馴染むような自然な動作で、私へと温和な視線を向けた。
「それにしても、帝ってどんな人なんでしょうね?」
「帝に興味が?」
「あ、いえ、そういう意味じゃないんです。ただ、とても晴明のことを気にしている様子なので……民のことを考えられる優しい方なんだろうなぁって」
「そうかな?帝も実際はドロドロしたものを心の中で渦巻いているかもしれないよ」
その声色は、どこか乾いているように聞こえた。
「え?」
「いや、なんも」
泰仁さんはすぐにいつもの柔らかな微笑みに戻ったが、その瞳の奥にほんの一瞬だけ、深い影のようなものが過ったのを私は見逃さなかった。
旅人は各地をまわるから、左遷された公家の方から内裏の生々しい噂や、権力の裏にあるドロドロした話を耳にすることもあるのだろうか。
そんな私の気の迷いを見透かしたように、泰仁さんはふっと表情を和らげ、どこか楽しげに首を傾げた。
「桃花さんはお誘いを受けるの?」
「いやぁ、受けないでおこうかなーと」
私のその返事を聞いた瞬間、泰仁さんは少し意外そうに目を丸くし、それからどこか引き込まれるような、含みのある笑みを浮かべた。
「そうなんだ。晴明の助手になれば、色々と面白いものが見られると思うけれど……。やっぱり、気苦労が多そうだなって思ってしまうのかな?」
「それもありますし、何より私にそんな大役が務まるとは思えなくて。陰陽寮の書類整理なんて、考えただけで目が回りそうです」
私が苦笑交じりに肩をすくめると、泰仁さんは「なるほどね」と深く頷いた。その物腰はどこまでも柔らかく、こちらの緊張を自然と解きほぐしてくれるような不思議な温かさがある。
「なんか、二人だけで話が進んでないですかー?」
蚊帳の外に置かれていた晴明が、ついに耐えかねたようにジト目で割り込んできた。
「泰仁様、聞いてください。桃花はこうしてはぐらかしていますが、僕の術の癖を一番近くで見てきた、これ以上ない適任者なのです。彼女が手伝ってくれないと、僕は本当に寝る時間がなくなって、都の結界にうっかりヒビが入ってしまうかもしれません」
「ちょっと、晴明!初対面の人に妙な脅迫を波及させないで!」
私が慌てて突っ込むと、泰仁さんはくすくすと上品に袖で口元を隠して笑った。その様子は、内裏の暗部を憂う旅人というよりは、まるで親しい身内の掛け合いを心から楽しんでいるかのようだ。
「ふふ、本当に仲が良いんだね。でも、桃花さん」
泰仁さんは笑うのをやめると、すっと背筋を伸ばし、旅人とは思えないほどの強い眼差しで私を見つめた。
「晴明の言う通り、彼が過労で倒れてしまうのは民にとっても、そして彼を心配しているという『帝』にとっても、非常に困る事態なのだと思う。古い決まりに縛られず、君のような柔軟で温かい心を持った人が傍にいてくれたら、きっと誰もが救われるんじゃないかな。……と、伝言を頼んできた公家の方も言いたかったのかもしれないね」
ただの旅人の言葉のはずなのに、なぜか逆らえないような、不思議な威厳がそこにはあった。優しく諭されているのに、外堀を完璧に埋められ、退路を断たれたような感覚が私を包み込む。
隣の晴明は、私に背を向けて小さくガッツポーズをしていた。
「それに、君なら帝も多少の我儘は聞き入れてくれると思うよ」
「え?」
「なにせ、あの『呪われた帝』を優しいと言ったんだから」
泰仁さんの口から出た「呪われた帝」という不穏な言葉に、私は思わず息を呑んだ。
あの晴明を心配し、民を想う優しい人なのだろうと私が勝手に抱いていたイメージが、その一言で音を立てて崩れていく。
「あ、いや……今のは各地の噂話だよ」
泰仁さんは、しまったというように少しだけ視線を泳がせ、すぐにいつもの穏やかな微笑みを取り繕った。
「泰仁様、そのあたりで」
晴明が、いつもより低く、どこか切羽詰まった声で告げた。その表情には、悪巧みが成功した時の余裕など微塵もなく、目の前の旅人さんをこれ以上なく気遣うような、そんな真剣な眼差しが向けられている。
泰仁さんは晴明の様子を見て、ふっと小さく息を吐くと、どこか肩の力を抜いたように微笑んだ。
「そうだね。少しおしゃべりが過ぎた。ありがとう、俺も話せて楽しかったよ。次会う時はお茶菓子でも用意しようかな」
そう言って、泰仁さんはすっと綺麗な所作で身を翻した。
「あ、はい……お気をつけて!」
私が慌ててお辞儀をする傍らで、晴明は再び最敬礼の姿勢をとり、その姿を静かに見送っていた。
「……はぁぁぁぁぁぁ!!」
泰仁さんの優美な後ろ姿が完全に京の街並みに溶け込んで見えなくなった瞬間、晴明が肺にあるすべての空気を吐き出すかのような、ものすごい深いため息をついてその場にへたり込んだ。額にはうっすらと冷や汗まで浮かんでいる。
「ちょっと、 大丈夫? さっきから様子変だったけど……てか、知り合いだったんだね?」
「桃花……」
晴明は地面にしゃがみ込んだまま、恨めしそうな、それでいて心底疲れたような目で私を見上げてきた。
「お願いだから、もうそれ以上は何も考えないで。僕の寿命が縮む。というか、一瞬本気で縮んだ」
「え、何がそんなに怖かったのよ。ただの旅人さんでしょ? ……まぁ、ただの旅人にしては、あの晴明に様付けで呼ばれてるけど。弱みでも握られてるの?」
「……」
晴明は何かを言いかけ、それから諦めたように首を振って、のそりと起き上がった。その顔には、いつものだらしない、けれどどこかホッとしたような笑みが戻っている。
「何はともあれ、あの人のおかげで、君は僕の助手になるって約束したからね」
「うっ……」
そうだった。泰仁さんのあの不思議な説得力に押されて、つい返事をしてしまったのだ。
外堀を完璧に埋められ、最後は通りすがりの泰仁さんにまで説得されるなんて、我ながらチョロすぎる。


