理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
プロローグ
「はあー」
私、相川優香はもう何通目かの不採用通知――お祈りメールを受信して深いため息をついた。
早染大学 有機化学研究室に所属して早五年。この研究室から学士で一度卒業し、そのまま同大学院の修士課程に進み、二年で卒業して次は博士課程に進むというようなことをしている間に、それだけの年月が流れてしまった。もはや重鎮扱いとなる長年の所属歴にいいかげん終止符を打ちたいが、如何せん就職活動が全くうまくいかない。修士課程でも一度失敗しているから今度こそと思っているのに、念願の研究職は狭き門で、大した成果もあげていない私にはその門戸をくぐり抜けることは針の穴に糸を通すように難しかった。
――せめて論文の一つや二つ書いていればいいんだけど。
私は今一つ勘が悪いのか、これだと思った仮説を立てて一生懸命取り組んでも、望み通りの結果が得られず、今のところ自分が筆頭著者になった論文を一つも書けないでいる。
「はあー……」
私は大きなため息をつきながら、研究室のドアを開けた。真向かいの窓際の席に量産型の黒髪、眼鏡の男の子が座っている。――あ、今日は来てるんだ、ラッキー。
「おはようございます。相川先輩」
男の子がパソコンから目を離さず、隣に座った私にぼそりと呟く。うう、相変わらず塩い。でもそこがいい、早染大学大学院、修士二年の笠井信昭君。
「おはよう、今日は早いね」
私はパソコンを立ち上げながらぼそぼそと話す。今朝は私たち二人だけか。もう一人、この六畳ほどの狭い研究室を使用している住良木皐月という特別研究員がいるが、彼の行動は謎だらけで、いたり、いなかったりが普通である。
「元気ないですね、就活またダメでしたか?」
笠井君が私の気配を感じ取って、ぼそりと話しかけてくれる。優しい。その通りです。
「うん、オロチ試薬もダメだった。やっぱりメーカー系は難しいのかな」
「そんなことないと思いますけど。僕でも入れたわけだから。インターン行ったとこに絞ったらどうですか?」
うう、正論すぎる。確かに笠井君は去年のインターンを経て、今年早々に大手研究試薬メーカーに就職が内定していた。所属先が研究部門になるかどうかは微妙なところだが、後は実験を終わらせて論文を仕上げれば楽勝で大学院卒業ということで、彼の将来は安泰である。そんなさくっと手堅いところも好きなんだけど、笠井君。
「インターンのとこねぇ。それは最終手段にとっておこうかなって。今はとりあえず自分の希望の職種のとこ攻めまくってるんだけど如何せん狭き門で」
後輩相手に愚痴ってみる。就活が上手くいかない理由は研究成果のなさや高望み嗜好など、いくつかまともなものも考えられるが、単純に私が女であることと今年二十六歳になる年であるということもネックになっているではないかということに今更ながら気づき始めていた。まだまだ研究職は男社会だし、新卒カードで年齢がいっているのはそれだけで落とされやすい。
「まあ、まだ春だしね。焦らず頑張るよ」
ただの後輩相手にこれ以上真に迫って愚痴っても仕方ないので適当に会話を切り上げる。今日は一限から、学部生の実習の補助業務であるティーチングアシスタント(TA)の仕事があるから準備しないと。
「笠井君、今日は何時まで?」
「午前中だけ実験して帰ります。午後は研修と同期会で」
同期会。香しい響き。私もそれが言えるように日々精進しなければ。
笠井君、相変わらず塩対応だけどそんな飾らない佇まいが好き。笠井君と初めて会ったのは、純喫茶をただ巡るだけの学内グループ「純喫茶同好会」の集まりで、そこから知り合って早三年になる。彼は同好会仲間、研究室の後輩でもあるが、私の思い人でもある。学年も違うし、彼はあれで結構もてるので全くの片思いだけど。同好会仲間で仲良しの後輩のミチルちゃんが笠井君の動向を私に逐一報告してくれる。今は「彼女なし」のターンだったかな。笠井君は半年ぐらいの周期で「彼女あり」「なし」を繰り返している。
「ああ、ねみぃ。一限だりぃ」
研究室のドアがガチャリと開いて、そこから不良みたいな身なりをした大男が入ってくる。特別研究員の住良木皐月だ。到底社会人とは思えないような茶髪に長髪、ピアス、バンドTシャツにジムにでも着ていくようなパーカーを羽織ってどかどかと席に着く。
「住良木さん、もう一限始まりますから座らないで手伝ってください。私、プリントとって来ますんで試薬揃えといてください」
「はいはい」
デスクに荷物を置いた住良木さんが白衣に着替え、長い髪を結いながら私のそばによる。シャンプーの香りか柑橘系のいい匂いに混じって、ウイスキーの香りがほのかに漂う。
「住良木さん、昨日飲んでました? やめてくださいよ、学部生の前で二日酔いなんて」
「二日酔いにはなってない。ちゃんと仕事できるなら酒臭くてもいいだろ」
「学生は敏感ですよ。しっかりしてください」
「うるせえ。お祈りメールばっかりもらってるお前に言われたくない」
私はあからさまに顔を顰める。相変わらずむかつく、住良木皐月。なんで私がまたお祈りメールをもらったってわかったんだろう。顔に書いていたのか、はたまた、ここに来るまでに携帯片手に大きなため息をついていたところを彼に見られていたのか。
住良木皐月は意に介さず、面倒くさそうに私の準備を引き継ぐ。彼は憎たらしい上にこんな体たらくだが名門・帝海大学出身で、私の何倍も成果を上げていて、論文も何本も出している二年目の特別研究員だ。この態度のくせに、担当しているTA業務の学生からのフィードバック評価が私よりも高いところが気に入らない。それは住良木皐月の顔面偏差値が単純に高いからだということはよく分かっているのだけれど。
アメリカ人とのクオーターだか何だか知らないが、全体的に色素が薄く、彫が深く、すらりと背が高くDNAレベルで抜きん出た容姿をしていた。それでいて頭がいいのがまた鼻につく。女子学生は彼の容姿を見て、無条件に満点評価を付けるが、男子学生からの評価も高いところをみると教え方もまた上手なようだった。全くこの男は何から何まで私より数倍上で嫌になる。でも、ここまで出来がいいとまるっきり殿上人で目の上のたんこぶとも思わないから、言いたいことも好きに言えてやりやすいんだけど。
その間も笠井君は我々のやり取りを無視して、集中してパソコンに向かっている。私は四つも年上の住良木皐月にあれこれ小言を飛ばしながら忙しくTAの仕事に向かう。これが私の毎日だった。不満はないがいつまでも続くとは思えないような、不確かで未来のない、アンバランスな日常を私は送っていた。
私、相川優香はもう何通目かの不採用通知――お祈りメールを受信して深いため息をついた。
早染大学 有機化学研究室に所属して早五年。この研究室から学士で一度卒業し、そのまま同大学院の修士課程に進み、二年で卒業して次は博士課程に進むというようなことをしている間に、それだけの年月が流れてしまった。もはや重鎮扱いとなる長年の所属歴にいいかげん終止符を打ちたいが、如何せん就職活動が全くうまくいかない。修士課程でも一度失敗しているから今度こそと思っているのに、念願の研究職は狭き門で、大した成果もあげていない私にはその門戸をくぐり抜けることは針の穴に糸を通すように難しかった。
――せめて論文の一つや二つ書いていればいいんだけど。
私は今一つ勘が悪いのか、これだと思った仮説を立てて一生懸命取り組んでも、望み通りの結果が得られず、今のところ自分が筆頭著者になった論文を一つも書けないでいる。
「はあー……」
私は大きなため息をつきながら、研究室のドアを開けた。真向かいの窓際の席に量産型の黒髪、眼鏡の男の子が座っている。――あ、今日は来てるんだ、ラッキー。
「おはようございます。相川先輩」
男の子がパソコンから目を離さず、隣に座った私にぼそりと呟く。うう、相変わらず塩い。でもそこがいい、早染大学大学院、修士二年の笠井信昭君。
「おはよう、今日は早いね」
私はパソコンを立ち上げながらぼそぼそと話す。今朝は私たち二人だけか。もう一人、この六畳ほどの狭い研究室を使用している住良木皐月という特別研究員がいるが、彼の行動は謎だらけで、いたり、いなかったりが普通である。
「元気ないですね、就活またダメでしたか?」
笠井君が私の気配を感じ取って、ぼそりと話しかけてくれる。優しい。その通りです。
「うん、オロチ試薬もダメだった。やっぱりメーカー系は難しいのかな」
「そんなことないと思いますけど。僕でも入れたわけだから。インターン行ったとこに絞ったらどうですか?」
うう、正論すぎる。確かに笠井君は去年のインターンを経て、今年早々に大手研究試薬メーカーに就職が内定していた。所属先が研究部門になるかどうかは微妙なところだが、後は実験を終わらせて論文を仕上げれば楽勝で大学院卒業ということで、彼の将来は安泰である。そんなさくっと手堅いところも好きなんだけど、笠井君。
「インターンのとこねぇ。それは最終手段にとっておこうかなって。今はとりあえず自分の希望の職種のとこ攻めまくってるんだけど如何せん狭き門で」
後輩相手に愚痴ってみる。就活が上手くいかない理由は研究成果のなさや高望み嗜好など、いくつかまともなものも考えられるが、単純に私が女であることと今年二十六歳になる年であるということもネックになっているではないかということに今更ながら気づき始めていた。まだまだ研究職は男社会だし、新卒カードで年齢がいっているのはそれだけで落とされやすい。
「まあ、まだ春だしね。焦らず頑張るよ」
ただの後輩相手にこれ以上真に迫って愚痴っても仕方ないので適当に会話を切り上げる。今日は一限から、学部生の実習の補助業務であるティーチングアシスタント(TA)の仕事があるから準備しないと。
「笠井君、今日は何時まで?」
「午前中だけ実験して帰ります。午後は研修と同期会で」
同期会。香しい響き。私もそれが言えるように日々精進しなければ。
笠井君、相変わらず塩対応だけどそんな飾らない佇まいが好き。笠井君と初めて会ったのは、純喫茶をただ巡るだけの学内グループ「純喫茶同好会」の集まりで、そこから知り合って早三年になる。彼は同好会仲間、研究室の後輩でもあるが、私の思い人でもある。学年も違うし、彼はあれで結構もてるので全くの片思いだけど。同好会仲間で仲良しの後輩のミチルちゃんが笠井君の動向を私に逐一報告してくれる。今は「彼女なし」のターンだったかな。笠井君は半年ぐらいの周期で「彼女あり」「なし」を繰り返している。
「ああ、ねみぃ。一限だりぃ」
研究室のドアがガチャリと開いて、そこから不良みたいな身なりをした大男が入ってくる。特別研究員の住良木皐月だ。到底社会人とは思えないような茶髪に長髪、ピアス、バンドTシャツにジムにでも着ていくようなパーカーを羽織ってどかどかと席に着く。
「住良木さん、もう一限始まりますから座らないで手伝ってください。私、プリントとって来ますんで試薬揃えといてください」
「はいはい」
デスクに荷物を置いた住良木さんが白衣に着替え、長い髪を結いながら私のそばによる。シャンプーの香りか柑橘系のいい匂いに混じって、ウイスキーの香りがほのかに漂う。
「住良木さん、昨日飲んでました? やめてくださいよ、学部生の前で二日酔いなんて」
「二日酔いにはなってない。ちゃんと仕事できるなら酒臭くてもいいだろ」
「学生は敏感ですよ。しっかりしてください」
「うるせえ。お祈りメールばっかりもらってるお前に言われたくない」
私はあからさまに顔を顰める。相変わらずむかつく、住良木皐月。なんで私がまたお祈りメールをもらったってわかったんだろう。顔に書いていたのか、はたまた、ここに来るまでに携帯片手に大きなため息をついていたところを彼に見られていたのか。
住良木皐月は意に介さず、面倒くさそうに私の準備を引き継ぐ。彼は憎たらしい上にこんな体たらくだが名門・帝海大学出身で、私の何倍も成果を上げていて、論文も何本も出している二年目の特別研究員だ。この態度のくせに、担当しているTA業務の学生からのフィードバック評価が私よりも高いところが気に入らない。それは住良木皐月の顔面偏差値が単純に高いからだということはよく分かっているのだけれど。
アメリカ人とのクオーターだか何だか知らないが、全体的に色素が薄く、彫が深く、すらりと背が高くDNAレベルで抜きん出た容姿をしていた。それでいて頭がいいのがまた鼻につく。女子学生は彼の容姿を見て、無条件に満点評価を付けるが、男子学生からの評価も高いところをみると教え方もまた上手なようだった。全くこの男は何から何まで私より数倍上で嫌になる。でも、ここまで出来がいいとまるっきり殿上人で目の上のたんこぶとも思わないから、言いたいことも好きに言えてやりやすいんだけど。
その間も笠井君は我々のやり取りを無視して、集中してパソコンに向かっている。私は四つも年上の住良木皐月にあれこれ小言を飛ばしながら忙しくTAの仕事に向かう。これが私の毎日だった。不満はないがいつまでも続くとは思えないような、不確かで未来のない、アンバランスな日常を私は送っていた。