理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
第一章

「はあー」

 夕方の研究室で私はまた一人ため息をついた。

 これだと思っていた触媒の反応が今一つで、またしてもいい結果が得られなかった。似た感じの論文がいくつか出てるからいけると思ったんだけどな。またしても実にならなそうな結果を前に、私は一人パソコンの前で天を仰ぐ。

 ――どうしていつもこうなのかな。人一倍努力家だし、頭の出来だってそう悪くないと思う。何でもこつこつ地道に取り組める方だし、ズルとかいい加減なこととかは絶対にしない。なのに、いつも結果がついてこない。この圧倒的な運のなさは私の人生の最大の課題だった。でも運なんてどうやってよくすればいいんだろう。具体的な改善策が分からないものほど厄介なものはない。

 うだうだやっていると携帯にメッセージが届く。あ、教授からだ。出張から帰ってきていたんだ。うちの教授は副学長で学校運営にも携わっているので基本的にとても忙しく、あまり研究室にいない。皆、慣れているのでそんなもんだと思って各々支え合って研究に取り組んでいた。かつてばりばり成果を上げていた年配の男性の教授は、指導より、権威やらコネクションやらが絡んだ存在そのものが頼りだから会うのは月に一回程度で十分だ。

 なんだろう、と思ってメッセージを開く。研究課題のことについて今から話し合いたい、とな。やっぱり今のやつがダメそうだから課題を変えろってことなんだろうな。私は今日いくつめか分からない深いため息をついて、パソコンを手に教授室に向かうことにした。

 * * *

 教授室はブラインドがぴっちりと閉められていて埃っぽい匂いがする。

 春先の学生は皆、就活、授業、アルバイト、課外活動等、各々に忙しく、今日は週末でもあるので研究室に人はほとんど残っていなかった。こんな日に居残っているのは博士課程の私か得体の知れない研究員の住良木皐月ぐらいだ。あの男は今、どこかへ行っていて見かけないけど。

 教授が定位置のハイバックチェアに座ってにこにこと私を見つめている。白髪が増えた上にちょっと太ったんじゃないかな、教授。色白の丸い顔がてらてらと脂ぎっている。――いいな、偉い人は毎日いいもの食べてるんだろうな、と自らの貧弱な食生活を顧みて羨ましく思う。

「――と、今やっている修飾ベンゼン環の新規触媒反応のほうもうまくいかなそうなんですけど――」

 デスクを挟んで教授の向かいに立ったまま、私はパソコンを見せてこれまでの実験結果をかいつまんで説明する。――ああ、屈辱の時間。そして、またしても、このあとテーマ変更の議論になるのであろう。

「いいよ、別に。それよりこの前やってた合成たんぱくの論文出す気はない?」

 教授がにこにこしながら全く別の提案をする。あれ? こないだのラボミーティングでテーマ変更したよね? なんでそれより前の微妙だった合成たんぱくの話をするわけ?

「僕の知り合いがね、同じような研究テーマでやっていて君のやつと合わせるとちょうど良さそうなんだよ。どう? あと一つ二つ実験してその知り合いのデータと合わせれば一本書けると思うんだけどやってみない?」

 本当に!? やった! 絶対やりたい。あの合成たんぱくは作ってみた結果、随分昔に出来ていた物質と似た特性のものだったから無理だと思っていたのに。何とかなるんだったら是が非でもやりたい。

「やります。すぐにデータまとめますんでよろしくお願いします」

 私はまたとない好機だと踏んで二つ返事で承諾した。ああ、頑張ってきてよかった。何が実になるか分からないものだ。

「ああ、データとかは後でいいんだよね。それよりさ、その論文のことで君と詰めた話がしたいからこの後、食事行かない?」

 ――ん? 食事? なんで? ここで話すのじゃダメなの?

「食事って、ラボの皆とですか?」

 私は飲み会とかそういうのを意味しているのかな、と思ってとりあえず聞いてみる。

「いいや。二人で。どう? ハイア〇トの最上階のレストランでコース料理予約してるんだけど」

 は? 何を言ってるんだ、この人は。ハイア〇トって思いっきりホテルなんだけど。なんでそんなところで教授と二人でコース料理を食べなくちゃいけないわけ?

「ええと、今話すんじゃだめなんですか」

 私は冷静を装ってさり気なく断ろうとする。なんか話が変な方向に向かっている気がする。

「それだと深い話ができないでしょう。論文一本書くんだから僕とじっくり二人きりで話し合わないと。あそこだったらご飯も美味しいし、その後眠くなったら泊まっていけばいいからね」

 教授がしじみのように小さな下卑た目で私を舐めるように眺めてくる。これは、そういうことか――。論文書かせてやる代わりにパパ活みたいな真似をしろってことね。生き馬の目を抜く理系女子社会、こういうやり方は他所のラボで聞かない話ではない。うちの教授は年寄だし副学長だしクリーンだと思っていたけど、五年目にしてこうきたか。私にしても普通の地味な女で別に美人なわけでも可愛いわけでもないし、まさか自分がそういう目で見られているとは思ってもいなかった。――ああ、幻滅、最悪。

「食事と論文は関係ないと思いますけど。ゆっくり話がしたいのであれば今ここで話しましょう、教授」

 私は「聞かなかったことにしてやる」と教授に目で訴えかける。――どうかこれで引き下がって。祈りにも似た熱意で教授を見つめる。

「いいの? 断れば論文の話なかったことになるけど? それだと君も困るんじゃない?」

 ――まじか、そうきたか、下衆すぎる教授。確かに私は成果物のなさに困っている。論文は喉から手が出るほど欲しい。どうしよう。今晩、色々なことを我慢すれば論文一本手に入る。デッドオアアライブ。どっちが正解? どうすればいい?

「失礼します」

 突如、教授室のドアが開く。驚いて二人ともドアの方を見る。

「ああ、相川さん、いたんだ。お邪魔しちゃってすいません。教授、久しぶりに帰ってきたみたいだから僕の研究経過、報告しようと思って」

 住良木皐月。普段の仏頂面ではなく猫を被って白衣姿でへらへらしている。びっくりした。さっきの話、聞かれてないよね?

「遷移金属の触媒の方は順調で発光物質の迅速大量合成に成功しそうです。あとで実験データ送りますね。今後、比重いくらか調節して終わったら論文執筆に持っていきたいんですけどいいですか?」

 住良木皐月がすらすらと報告する。そうなの? 住良木皐月。またしても出来ちゃったわけ? 私はあまりのスピード感についていけず住良木皐月を二度見する。いつの間にそんなに進めていたんだろう。要領がよすぎる。

「――ああ、そうなんだ。すごいね。お疲れさま。どうぞ書いちゃって」

 教授が私越しに冷や汗を流しながら住良木さんに答える。教授も話を聞かれていたかどうか気になっているのだろう。悪いと思ってるんだったら誘うなっつーの。最低、この人。

「――なんか聞いてないよね、住良木君」

 教授がたまらず住良木皐月に確認する。だから、そんなこと聞くぐらいだったらパパ活スカウトするなって。もう嫌だ、この教授、気持ち悪い。

「んー? 食事がどうとか言ってました? ラボの皆で? ハイア〇ト近くの『焼肉きみこ』ですよね! 最近頑張ってるから奢ってくれるんですか、教授! 太っ腹ですね。あとで皆に予定確認しておきますね!」

 住良木さん、絶対、聞いていたよね。所々アピールをしているところをみると、このまま教授を見逃す気はなさそうだ。焼肉を口止め料にしようとしているのかな。やはり特別研究員なだけあって頭の回転が速い。恐るべし、住良木皐月。

 私はもう一度教授を見つめ返した。かつらみたいにちょこんと頭に乗っかっている七三の白髪にパンパンの顔に食い込んだ小さな丸眼鏡。油にまみれた白い顔。ウインナーみたいな太い指。と、そこに食い込んでいる結婚指輪。うん、ダメだ。生理的に受け付けない。ていうかこの人、既婚者だった。パパ活どころか不倫とか絶対無理。

「そう、焼肉ですよね。教授。楽しみにしていますね」

 私が目で「そういうことにしておけ」と念押しすると教授が「そうそう、焼肉」と愛想笑いを浮かべながら独り言のように呟いた。もういいや、論文も研究も。この教授には今後期待できない。私は一切のことを諦めて、全てのことに蓋をして住良木皐月と共に教授室を出た。

 いつの間にか日は沈んで、辺りは暗くなっていた。
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