理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
「あれ、相川さん、髪になんか付いてますよ?」
「え、どこ?」

 笠井君に言われてペンを置いて頭を触る。ん? ゴミかなんかかな。ホコリ?

「そこじゃないです。もっとこっち側」

 笠井君に指示を受けながら手を動かして髪を触る。んん? なんだ? 蜘蛛の巣かなんかか? 今朝やみくもに走ったからどっかの街路樹の下とかで引っかかったのかも。

「ええ、何? わかんないんだけど」

 手を頭にペタペタ当てながら笠井君の方へ椅子ごと向き直る。変な試薬とかだったら嫌だな。今朝のTAは来週の実習の説明のみだったから試薬は使わなかったけれど。プリントについていた消しゴムのカスとかかな。鏡もなく見えないのでよくわからない。

「ちょっとじっとして。取ってあげますよ」

 笠井君が椅子から立ち上がって私のそばに寄る。うわ、近いな。好きな人に急接近されて思わずフリーズする。

 ――え。

 髪に触れると思っていた笠井君の手が私の頬に触れ、そのまま両頬を挟まれて素早く口づけされる。

 え、何事。

 私は椅子に座ったまま動けずにいる。

 なんで? どうして? 今、笠井君とキスしてる? 疑問符で頭がいっぱいになるがキスは続く。

 驚いて目を開けたままだから全てがよく見える。眼前に笠井君のうっとりと閉じられた睫毛の長い目が、彼の眼鏡越しにある。顔を上に向けられた状態で唇を重ね続ける。

 柔らかい。笠井君の海水のような汗の匂いがする。頬を包む手が温かくて大きい。ふわっと優しく当てるようにキスしているがその奥でおずおずと舌が動いている。うわ、舌入れられそう。なんで、笠井君。

「がちゃん」

 研究室の扉が開く音がした。ヤバい! 人が来た! ノックなしでこの部屋のドアを開ける人物は基本的にあの人しかいない。

「――住良木さん」

 私は笠井君の手を振り払って、ドアの方に顔を向けた。そこには他所の実験室で使用したビーカーやフラスコを乗せたプラスチックの籠を両手で抱えている住良木さんの姿があった。

「――お」

 住良木さんが籠を落としそうになってはっとして両手でつかみ直す。私たち二人をじっと見つめて数秒フリーズし、何か思いついたように籠を研究室中央の作業台に置いてまた踵を返す。

「俺、忘れ物したわ。講義棟まで戻るからそれまでにお前ら色々終わらせとけよ」

 言い訳する暇もなくがちゃんとまたドアが閉まって住良木さんの姿が見えなくなる。ヤバい、どうしよう。完全に何かを誤解させてしまった。でも、笠井君、何で? 私にも訳が分からない。

「待って、住良木さん」

 私は弾かれるように研究室を出て住良木さんの後を追った。誰かが階段を足早に降りる音が響いている。きっと住良木さんだ。追いかけなきゃ。

「住良木さん!」
 
 研究棟と講義棟をつなぐ渡り廊下のところで住良木さんに追い付いて後ろから声を掛ける。

 住良木さんがぴたりと止まる。白衣の上で住良木さんの束ねた長い茶色い髪がふわりと揺れる。つい数時間前まで触れていたあの髪。もうあの髪に触れなくなっちゃうの?

「あの、さっきのは、違うんです。笠井君が勝手に……」

 階段を全力疾走で降りたせいで息が切れて上手く喋れない。それに私も事の次第をうまく整理できていない。

「――よかったじゃねえか。積年の片思いが実ったんだろ」

 住良木さんがこちらに振り返らずに背中を向けたまま話す。住良木さん、今どんな顔しているんだろう。意外と何ともないような普通の顔かも、と私は自分を励ますように想像する。

「そういうんじゃないです、多分。向こうがいきなり――」
「俺のことは気にすんな。そもそも遊びだったし。でも未来の同僚になるんだから邪魔者扱いはやめろよな」

 背中を向けたままの住良木さんが早口で話す。声、震えてる? 泣いてないよね。

「そんな、急に切り替えられないですって。さっきの、きっと何かの間違いですよ。何でもないです」

 私は住良木さんの背中に向かって思わず縋るようなことを言ってしまう。――私、住良木さんをどうしたいんだろう。私が追いすがるのはおかしいんじゃないか。

 急に住良木さんがこちらに振り向く。陽光に照らされた住良木さんは色素が抜けたみたいに白くて綺麗。泣いていないけど、白目が赤い。――私、この人を傷つけた。

 住良木さんの手がすっと私の方に伸びる。が、講義棟の方から男の子三人のグループが騒がしく歩いてきて、手がぴっと空中で止まる。そのままその手は私に触れることなくだらりと垂れ下がる。

「――あいつとは、キスしただけでそんな顔になるんだな――」

 住良木さんは呟くようにぽつりと漏らすと、急にきびすを返して早足で講義棟の方へ向かっていった。

 私はもう、彼に追いすがる理由もこれ以上の言い訳を重ねるための根拠も、何も持ち合わせていなかった。私はただ廊下を猛然と歩いていく白衣の住良木さんの後姿を黙って見つめていた。
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