理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
第五章
カランコロン、と重いアンティークのドアを開けるとコーヒーの香りにふわりと包まれる。薄明りの店内に高いすりガラスの仕切りで区切られたテーブル席が八セット程あって、それぞれの席からささやかに会話を交わす声とかちゃかちゃとしたフォークと皿の擦れる音が聞こえる。
私たちはその店の最も奥のこじんまりとした二人掛けの席に通された。周りが大きな観葉植物とすりガラスで取り囲まれており、人目は全く気にならない。
大人びたレトロな雰囲気の喫茶店。以前、二人とも「純喫茶同好会」で訪れたことのある場所だけど、この場所なら大学関係者はほとんどいないし、いたとしても目隠しが多いから人目に晒されることはなかった。それに、このところ忙しかったので自分へのご褒美としてこの店の海老ドリアが食べたくなったということも事実である。
私と笠井君はそれぞれの注文を終えて、しばし黙り込む。
今日の笠井君も普通オブ普通で、ものすごく私好み。麻素材の無地のダークグリーンの襟付きのシャツにダークグレーのストレートのコットンパンツを履いている。髪も肌も清潔でアクセサリーは量産品のカシオの腕時計ぐらいしか身に付けていない。
「ええと」
何、話すつもりだったのかな。目の前にいる笠井君の雰囲気に呑まれて口ごもる。
「ここに来るの、久しぶりですね」
緊張して急に挙動不審になった私に笠井君が優しく話しかける。く、気が利く。話しかけるタイミングといいパーフェクトだ、笠井君。
「そうだね、もうあんまり同好会にも参加してないからな。笠井君は行ってる?」
「いいえ、学部時代の友人が卒業しちゃってからあんまり行っていません。たまに無性にこういうとこのナポリタンが食べたくなるんですけどね」
わかるーと私も軽く相槌を打つ。おっとヤバい。笠井君のペースに飲まれつつある、と思っていたらもう注文したものが席に届いた。笠井君はナポリタンで私は海老ドリア。熱いうちにと、二人で「いただきます」をして食べ始める。
ああ、海老プリプリ。口の中の皮がめくれるぐらい熱いベシャメルソースが超クリーミー。あと、この容赦ないバターとチーズの香りが堪らない。今週頑張ってよかった。
しばらくここへ何をしに来たのかを忘れて二人で食事を楽しむ。笠井君、丁寧に粉チーズをかけて一口ずつフォークで巻いて食べている。その美しい所作も好き。美味しそうに食べるところも。
「――で、何の話をするんでしたっけ?」
結局、最後まで重要なことを話さずに食事を終え、二人で食後のコーヒーを楽しんでいたところでようやく笠井君から切り出した。ああ、そうだ。危うく核心に迫ることのないまま、いい気分で帰るところだった。私はロイヤルコペンハーゲンの青い小花の模様が入ったコーヒーカップをそっと受け皿に置く。
「こないだのことだよ。何であんなことしたの?」
笠井君だってその話しかないと分かっているはずなのに勿体ぶったりして狡い。コーヒーの真っ黒な湖面に視線を落とす。
「何でって……キスしたくなったからです」
「それだけ?」
笠井君もまたコーヒーカップを置いてテーブルの上で手を組む。数秒の沈黙の間に店のドアベルがカランコロンと鳴り響く。
「――それだけっていうか、あの、相川さん、住良木さんと付き合っていましたよね、少なくとも先週ぐらいまで」
う、バレている。その間、笠井君とあんまり接点がなかったからバレていないと思っていたんだけどな。正確には付き合っていないけど。セフレみたいな真似をしていたなんてことはビッチすぎて言えない。
「どうしてわかったの?」
「そりゃあの部屋に一緒にいたらわかりますよ。特に住良木さんなんて態度が全然違うからバレバレです」
確かに一番年上で見た目はクールなイケメンの住良木さんだが、私たちの中で圧倒的に素直で分かりやすい、ということもここ数日で明らかになっていた。時々、時と場所を選ばずに、ものすごく私にデレるんだよな、住良木さん。不意に明らかに質の違う、熱っぽい視線を送ってくることもある。やっぱり取扱注意だった、住良木皐月。
「特にあの日は、その、前日に、いたしてきたっていうのがもろバレで……肩にキスマークまでついているし。それで、つい、僕も興奮して……」
う、キスマークもやっぱりバレていた。ショック。笠井君が恥ずかしそうに手で口元を覆い隠す。ん? 興奮? なんで住良木さんと私がセックスすると笠井君が興奮するの?
「ちょっと待って。百歩譲って急にキスしたくなったっていうのは理解できなくもないよ。笠井君、若いし、男の子だし、そんな日だってあるのかもしれない。でもさ、なんでそこに住良木さんが絡んでくるわけ? 何ていうかそれだと私、住良木さんのものってことになって、そこに興奮する要素とかなくない?」
「……それに関しては話せば長くなるんですけど、折角ですし聞いてもらえますか? 僕、多分、相川さんが思っているよりずっと複雑で倒錯した人間ですよ」
そう言うと、笠井君は「お酒の力を借りないと」と言ってブランデー入りの紅茶を追加で注文した。本当の笠井君は私が思っているような普通のお手本みたいで、真面目で品行方正な男の子じゃないってこと? 私は困惑しながらもコーヒーを啜りながら笠井君が話し始めるのを静かに待った。
私たちはその店の最も奥のこじんまりとした二人掛けの席に通された。周りが大きな観葉植物とすりガラスで取り囲まれており、人目は全く気にならない。
大人びたレトロな雰囲気の喫茶店。以前、二人とも「純喫茶同好会」で訪れたことのある場所だけど、この場所なら大学関係者はほとんどいないし、いたとしても目隠しが多いから人目に晒されることはなかった。それに、このところ忙しかったので自分へのご褒美としてこの店の海老ドリアが食べたくなったということも事実である。
私と笠井君はそれぞれの注文を終えて、しばし黙り込む。
今日の笠井君も普通オブ普通で、ものすごく私好み。麻素材の無地のダークグリーンの襟付きのシャツにダークグレーのストレートのコットンパンツを履いている。髪も肌も清潔でアクセサリーは量産品のカシオの腕時計ぐらいしか身に付けていない。
「ええと」
何、話すつもりだったのかな。目の前にいる笠井君の雰囲気に呑まれて口ごもる。
「ここに来るの、久しぶりですね」
緊張して急に挙動不審になった私に笠井君が優しく話しかける。く、気が利く。話しかけるタイミングといいパーフェクトだ、笠井君。
「そうだね、もうあんまり同好会にも参加してないからな。笠井君は行ってる?」
「いいえ、学部時代の友人が卒業しちゃってからあんまり行っていません。たまに無性にこういうとこのナポリタンが食べたくなるんですけどね」
わかるーと私も軽く相槌を打つ。おっとヤバい。笠井君のペースに飲まれつつある、と思っていたらもう注文したものが席に届いた。笠井君はナポリタンで私は海老ドリア。熱いうちにと、二人で「いただきます」をして食べ始める。
ああ、海老プリプリ。口の中の皮がめくれるぐらい熱いベシャメルソースが超クリーミー。あと、この容赦ないバターとチーズの香りが堪らない。今週頑張ってよかった。
しばらくここへ何をしに来たのかを忘れて二人で食事を楽しむ。笠井君、丁寧に粉チーズをかけて一口ずつフォークで巻いて食べている。その美しい所作も好き。美味しそうに食べるところも。
「――で、何の話をするんでしたっけ?」
結局、最後まで重要なことを話さずに食事を終え、二人で食後のコーヒーを楽しんでいたところでようやく笠井君から切り出した。ああ、そうだ。危うく核心に迫ることのないまま、いい気分で帰るところだった。私はロイヤルコペンハーゲンの青い小花の模様が入ったコーヒーカップをそっと受け皿に置く。
「こないだのことだよ。何であんなことしたの?」
笠井君だってその話しかないと分かっているはずなのに勿体ぶったりして狡い。コーヒーの真っ黒な湖面に視線を落とす。
「何でって……キスしたくなったからです」
「それだけ?」
笠井君もまたコーヒーカップを置いてテーブルの上で手を組む。数秒の沈黙の間に店のドアベルがカランコロンと鳴り響く。
「――それだけっていうか、あの、相川さん、住良木さんと付き合っていましたよね、少なくとも先週ぐらいまで」
う、バレている。その間、笠井君とあんまり接点がなかったからバレていないと思っていたんだけどな。正確には付き合っていないけど。セフレみたいな真似をしていたなんてことはビッチすぎて言えない。
「どうしてわかったの?」
「そりゃあの部屋に一緒にいたらわかりますよ。特に住良木さんなんて態度が全然違うからバレバレです」
確かに一番年上で見た目はクールなイケメンの住良木さんだが、私たちの中で圧倒的に素直で分かりやすい、ということもここ数日で明らかになっていた。時々、時と場所を選ばずに、ものすごく私にデレるんだよな、住良木さん。不意に明らかに質の違う、熱っぽい視線を送ってくることもある。やっぱり取扱注意だった、住良木皐月。
「特にあの日は、その、前日に、いたしてきたっていうのがもろバレで……肩にキスマークまでついているし。それで、つい、僕も興奮して……」
う、キスマークもやっぱりバレていた。ショック。笠井君が恥ずかしそうに手で口元を覆い隠す。ん? 興奮? なんで住良木さんと私がセックスすると笠井君が興奮するの?
「ちょっと待って。百歩譲って急にキスしたくなったっていうのは理解できなくもないよ。笠井君、若いし、男の子だし、そんな日だってあるのかもしれない。でもさ、なんでそこに住良木さんが絡んでくるわけ? 何ていうかそれだと私、住良木さんのものってことになって、そこに興奮する要素とかなくない?」
「……それに関しては話せば長くなるんですけど、折角ですし聞いてもらえますか? 僕、多分、相川さんが思っているよりずっと複雑で倒錯した人間ですよ」
そう言うと、笠井君は「お酒の力を借りないと」と言ってブランデー入りの紅茶を追加で注文した。本当の笠井君は私が思っているような普通のお手本みたいで、真面目で品行方正な男の子じゃないってこと? 私は困惑しながらもコーヒーを啜りながら笠井君が話し始めるのを静かに待った。