理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
「相川さん、『寝取られ』って分かります?」
「へ? ねとられ? ネットスラングか、なんか?」

 不意に聞き慣れない用語を尋ねられて、頭に疑問符が浮かぶ。

「わかんないですよね。相川さん、純情そうだし。あのね、『寝取られ』っていうのは自分の恋人が他の男の人と寝るシチュエーションのことですよ」

 へえ、そういうのを指す言葉があるのか。というか、それって浮気じゃないの? お茶うけに頼んだビスコッティを齧りつつ、説明されてもなお疑問符が消えない。

「僕、その『寝取られ』がツボなんです。ていうかそのシチュでしか本当の快感を得られないっていうか、何ていうか……」

 笠井君がブランデー入りの紅茶をぐいっと飲み干して顔を真っ赤にする。お酒で赤くなっているってわけではなさそう。その性癖を恥ずかしいと感じているみたい。

「元々、高校時代、最初に出来た彼女がクソビッチな子でして……。僕と付き合っているのに他の人としちゃうなんてこと、しょっちゅうで……。最初はもちろん、嫌だなって思っていたんですけど、そのうち他の人との行為を報告しながら僕と寝る彼女に段々興奮するようになってきちゃって……。それで気が付いたら『寝取られ』が僕の性的嗜好になっていて……」

 おおう、それはなかなか年季の入った熟成された倒錯具合だな。笠井君は深いため息をつきながら両手で顔を覆う。

「その子とはほかにも色々問題があってとっくに別れましたけど、その性癖だけが残っちゃって……。僕ってほら、意外とモテるじゃないですか。だから相手には不足しなかったんですけど、いかんせん『寝取られ』となると達成するのは難しくて……」

 な、なるほど。笠井君、完全に性的にねじ曲がっていらっしゃる。私もまた話の方向性に耐えきれず、笠井君と同じ、ブランデー入りの紅茶を注文する。

「それがですよ。今回、目の前で理想通りの形で達成されようとしていたんです。それで思わず興奮して相川さんに手を出してしまいました。ごめんなさい」

 ただ謝るにしてはオーバーアクション気味に笠井君が首をがくんと下げる。あ、ちょっと酔ってきているのかな。まあそりゃ酔いたくもなるか。て、あれ? ということは?

「――ていうことはもしかして、笠井君、私の気持ち、知ってる?」

 タイミングよく紅茶が運ばれてきて、そこで話が一旦途切れる。今度は私がブランデー入りの紅茶を一気に飲み干す。洋酒の香しさが鼻に抜け、耳の下辺りがかっと熱くなる。

「ええ、もう、随分前から僕のことが好きなんだって知っていました。相川さんも住良木さん並みにわかりやすいですよ」

 嘘?! 知っていて素知らぬ顔で隣の席に座っていたの?! あり得ないんだけど、笠井君!

 笠井君が一息ついてビスコッティを半分に砕いて口の中に放り込む。ぼりぼりと元気な咀嚼音が響く。

 恥ずかしすぎる。私の同室の先輩としての威厳はもうゼロだ。気付いていたんならその時に言ってよ、笠井君。

「じゃあなんでもっと前に言ってくれないわけ? 住良木さんと関係をもつ前だったらどうとでもなったのに」

 渡り廊下で目を赤くして私を見つめていた住良木さんの姿が頭を過ぎる。そうだ、もっと前に円満に笠井君と成就していれば、住良木さんと寝ることもなかった。だったらあんなふうに彼を傷付けずに済んだのに。

「それは無理です。住良木さんと付き合う前の相川さんには何の魅力も感じませんでしたから」

 ええっ、そ、そんな――! 頭に「何の魅力も感じません」の矢が刺さる。く、ダメージでかい台詞。しかも好きな人から。言葉だけで出血しそう。

「そ、そうなんだ。そんなに魅力なかった? 私」

 よろよろと立ち上がり、まだなんとかファイティングポーズをとるような気持ちで発言する。笠井君、爽やかに笑顔で毒を吐くタイプだったんだ。

「はい、全く。服装も髪型もダサいし、何より性的な魅力を全く感じませんでした」

 ごふっとみぞおちに「ダサい」「性的な魅力を全く感じない」のダブルパンチが入る。ブランデーの香りがお腹の中から上がってきて咳払いをする。ちゃんと生きてるか、私。

「そ、それなら仕方ないねえ……」

 目が完全に死んだ状態で力なく受け答えする。辛辣すぎる、笠井君。確かに笠井君はただの優しい、品のいい、無垢な男の子ってわけではなさそうだ。

「――でも、今は違いますよ」

 笠井君が自身の上唇をぺろりと舐める。顔、まだ赤い。酔っているのかな。それとも――?

「住良木さんと付き合うようになってから、相川さん、どんどん綺麗になっていくし、今は色っぽいっていうか何ていうか……見ているとやりたくなります」

 笠井君がごくりと唾を飲み込む。大きな喉仏が上下に動く。

 やっぱり笠井君も「住良木さん効果」に当てられていたんだ。本当にすごい影響力、住良木さん。

「――この後、僕とホテル行きません?」
「それは無理」

 あれ? 自分でも意外なほどはっきりと笠井君を拒絶した。何でだろう。私の枕を占領してうつぶせに眠る住良木さんの安らかな寝顔が過ぎる。

「僕のこと、嫌いになりました?」
「そんなことない。好き」

 そう、それも事実。私はこんなに倒錯した笠井君がまだ好きだ。意志の強固さに自分でもびっくりする。

 しばし沈黙する。また喫茶店のドアの開閉のベルが鳴る。白い小皿の上に半分だけ残されたビスコッティがもうパサついて砕け散った遺物になっている。私たちの後方の座席で一人、何かの作業をしながら食事をとっていた若い女性がパソコンを片付けて帰り支度を始めている。ブランドのロゴが入った大きな白いのトートバッグが目の端に映る。

「――とりあえず、わかった。笠井君は住良木さんありきの私が好きってことでいいね?」

 話をまとめにかかると向かいの笠井君は笑顔でこくこくと頷く。完全に先輩として舐められてはいるが、ここは私が仕切りたい。

「つまり、住良木さんなしの私は無理で、住良木さんありの私が欲しいってことでいいね?」

 そうです! と理解を得られた笠井君の顔が見たこともないくらい嬉しそうに輝く。

「と、いうことは住良木さんとお別れしないで笠井君と付き合うのが理想ってことでいいね?」

 そうです、そうです! さすが相川さん! 理解が早い! と興奮気味に笠井君が捲し立てる。

「だとしたら、この話、住良木さんにも分かってもらう必要があるよね? 意味わかる?」

 私は挑発的に笠井君の真っ黒な曇りのない瞳を覗き込む。笠井君が何度か瞬きをする。

「つまり、僕が住良木さんを説得しろってことですか?」
「そう、さすが理解が早い。笠井君」

 私はそう言って微笑みながら笠井君を見つめた。

 どうせこんな話、あれほど私に執心していた住良木さんが飲むわけない。二人で話し合ったところで交渉決裂して終わるだけだ。でも別にそれでいい。誰も傷つかないで私のことを諦めてくれればそれで構わない。

 また研究室の雰囲気が悪くならなければいいけれど。私は今後の展開を想像して少し怯んだ。結局、また一人になるのか、私。でも、これでいいんだ、きっと。今は「住良木さん効果」で輝いているかもしれないけれど、元々、理系喪女の私がこんなにモテていいわけがないんだから。

 ほっとしたら何だか眠くなってきちゃった。今日は美味しいものも食べられたし、結論は持ち越してとりあえずしっかり眠ろう。私は大きなあくびを手で隠しながら「説得かあ……」などとぶつぶつ呟いている性癖が歪んでいるけど愛らしい男の子の顔を心ゆくまで眺めた。
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