True Love─最初の恋、最後の愛─
0.夜の訪問者
今日が何月何日かは、ちゃんとわかっている。
世の中が浮き足立つ十二月二十四日。
それもあろうことか土曜日の夜に、オフィスの白い蛍光灯に照らされながら、残業をしているのは女子社員では私くらいだ。
「ん? 今日、残業なんかしてて良いのか?」
後方から聞こえた声に、思わず身体が震えた。
早瀬良祐。
彼が嫌味ったらしいことは、社内では有名だ。私とは部署が違うから席は離れているけれど、いつもなぜかいる。誰かに小言を言いに来ては、返事を聞く前に笑いながら去っていく。
──子供の頃から、それは変わらない。
彼とは実家が隣だったせいで、顔を合わせるのも嫌なくらいだった。彼は私を見かける度に、私が気にしていることをわざわざ口にしてきた。
「……おい、聞いてるのか?」
返事をしてはいけない。
返事をすると確実に、また嫌味を言われるだけだ。
クリスマスに一緒に過ごす相手がいなくて寂しい女だな、とか。
三十歳を過ぎて独身なんて男は相手にしてくれないだろ、とか。
そんなことは、言われなくても分かっている。
売れ残り、という言葉が頭の隅で解けない雪のように重く積もっていく年齢だ。
「おい。シーラカンス、返事しろよ」
声は頭上から低く聞こえた。
早瀬はとっくに空になった隣の席にどかりと腰を下ろし、黙って私を見た。片肘を机に預けた姿は、まるで暇潰しに獲物を眺める狐だ。
「……変な名前で呼ばないでください」
「いーじゃねーか、一字くらい。スもナも似たようなもんだろ」
「似てません。私はシーラカンスじゃありません」
椎平幹奈。
自分の名前は嫌いじゃないし、むしろ気に入っている。
けれど〝しいら〟という響きは子供の頃からみんなにからかわれ、早瀬は特に〝かんす〟と続けて古代魚のように面白がった。
早瀬は私の机の上の書類をちらりと見た。
「……まだ残ってるのか?」
「はい?」
「もうおまえだけだぞ、みんな帰ったぞ」
「え?」
言われて見渡すと、昼間は賑やかだったフロアは静まり返っていた。
恋人がいる若い人たち。
家族が待っている既婚者たち。
みんな帰るところへ帰ったようで、オフィスにいるのは私と早瀬だけだった。
「俺、今日、戸締り担当だけど帰りてえから、おまえもそろそろ帰ってくれね?」
時刻は午後八時。
仕事はまだまだ残っていたけれど、早瀬の冷たい視線の前では荷物を片づけて一刻も早く会社を出ることしか許されなかった。
「家まで送ってやろうか?」
珍しく優しい言葉を言ってくれたけれど、私はもう実家には住んでいない。
大学入学と同時に一人暮らしを始めて、それから何度か引越しをした。会社からは遠いところになってしまっているけど、交通の便も悪くないしコンビニや飲食店も近くにあるので不自由はしていない。
ただ──クリスマスイブの夜に一人で帰るのは、少しだけ心臓に悪い。
街路樹や店のイルミネーションは、綺麗に輝いていた。寂しい夜にご褒美をもらったようで、少し嬉しかった。
けれど、その下を歩く恋人たちは、みんなこの夜そのものに愛されているみたいだった。指を絡めて笑い合う姿を見るたび、心の奥がずきりと痛んだ。
私は去年のクリスマス、付き合っていた恋人に、結婚も考えていたのに、ふられたんだ──。
「ありがとうございましたー」
マンションの最寄り駅で電車を降りて、習慣でコンビニに寄った。
買ったのは新作のチョコレート菓子と、メイク落としの詰め替え。それから週末のお楽しみ、お酒とおつまみは外せない。
最近の私の定番は、五百ミリリットルのビール缶だ。
チューハイでもカクテルでもなく、苦味を喉に流し込むためだけの銀色の缶。
レジのアルバイトの男の子に「え?」という顔で見られたけれど、別に構わない。
飲まないと、仕事のストレスは無くならない。
もちろん、飲んだところで楽になるはずはない。
むしろ翌朝には鉛のような疲労だけが身体の底に沈む。それでもやめられないのは、他になにも拠り所がないからだ。
部屋に戻り、テレビをぼんやり眺めていると、インターホンが鳴った。
残念ながら、人が訪ねてくる予定はない。
出るのが面倒で無視をしたけれど、音は諦めなかった。
ドンドンドン!
ピーンポーン……
「うるさいなぁ。静かにしてよ」
独り言は部屋の空気になって消えた。
その直後、今度はスマホが震えた。
メッセージの差出人は──早瀬だった。
『いるんだろ? 開けてくれ。忘れ物を届けに来た』
「なんでここがわかったんですか?」
「俺が知らないわけないだろ?」
「……意味がわかりませんけど」
そのまま追い返すつもりだった。
けれど忘れ物はドアチェーンの隙間を通るサイズではないようで、彼を部屋に上げる羽目になった。
「私、なにを忘れてたんですか?」
「ああ……俺」
「……は?」
本当に、意味がわからなかった。
私が許可をする前に、彼は勝手に床に胡座をかく。
仕方なく近くに座って黙って眉を吊り上げると、早瀬は小さく息を吐いた。
「おまえさ。俺が──五百はやめろって言ったら、どうする? 仕事に逃げるなって言ったら、どうする?」
「五百……?」
早瀬はテーブルに並んだ銀色の缶を見ていた。
「ここ、おばさんに聞いたんだよ。言ってたぞ、いつもひとりでビール五百ミリも飲んでるから心配だって。せめて三百五十にしとけよ。それでも俺は心配だけどな……」
──なぜ?
早瀬の言葉の意味を考える。
悲しそうな表情をしている理由を探す。
「見てられねーよ」
ぽつりと落ちた言葉は、冷えた部屋の底に静かに沈んだ。
「クリスマスに男にふられて仕事と酒に逃げて身体壊してる女なんか、見たくねーよ」
「……じゃ、来ないでください」
「そんなことできるかっ」
吐き捨てるように言って、彼は袋から白い箱を出して、テーブルに置いた。
「ほら、食え。それから、これ飲め」
最後に缶ジュースを音を立てて置いてから、早瀬は私を見た。
「それしか残ってなかったんだ。文句言うなよ」
箱の中にはイチゴのショートケーキが一つ入っていた。
クリスマスなので小さい柊の飾り。
空いたスペースに、乗りきらなかったチョコレートのプレート。
『Happy Birthday かんな』
文字を見たとたん、胸の奥で何かがほどけた。
「……早瀬……なんで?」
「な、なんだよ。何も間違ってねーだろ」
十二月二十四日は、私の誕生日。
いつも街の輝きに消されてしまう日だ。
「泣くなよ、おい! 泣いてる奴も、見たくねーからな」
私は俯いてしまった。
泣いてなんかいない。けれど、涙はいまにも零れそうだった。
しばらく黙っていると、早瀬が低く言った。
「なあ、椎平、俺が──おまえのこと好きだって言ったら、信じるか?」
息が止まりそうだった。
見上げると、珍しく早瀬は照れた顔をしていた。
「前に言っただろ。おまえは俺の嫁にしてやるって」
「……いつ?」
そんなこと、聞いた覚えはない。
「ガキんとき。おまえ、大きくなったらお嫁さんになりたいって言うから、俺がもらってやるって言ったら、うんって言っただろうが」
小さい頃は、確かに彼と仲良くしていたけれど。
そんな話は、全く覚えていない。
「本当に、覚えてないんだな……」
「全く……。あの、それより、本当に、忘れ物って、なんですか」
ケーキは嬉しかったけれど、彼は忘れ物を届けに来たと言った。
本当の要件は、そっちのはずだ。
「だから、俺だって言っただろ」
「どういう意味ですか。同じこと──っ」
次の瞬間、身体が強く引き寄せられていた。
とても、温かかった。
乱暴なくせに、怖くなかった。
「ちょっ、早瀬、やめっ、離して」
「離すかよ。なんで、強がるんだよ。なんで……認めないんだよ……おまえは……」
私を抱きしめる力が強くなった。
「おまえは……俺がいないと、ダメな女だ。そうだろ、幹奈」
──否定はできなかった。
本当は、気づいていた。
嫌味を言われる度に腹が立っていたけれど、彼に会わない日は妙に静かで落ち着かなかった。
強ばっていた身体が、ようやく解けていく。
「良祐には、かなわないよ」
笑いながら言うと、彼はようやく腕の力を緩めた。
大きな手が、私の髪を撫でた。
「ほら。そうやっていつも笑ってろよ。酒も残業も、ほどほどにしとけ」
「うん……わかった」
「絶対だからな。俺に心配させるなよ。良い子にしてたら嫁にしてやる」
「もう、私、子供じゃないよ?」
「……ふうん。大人なんだな?」
早瀬は少しだけ口元を歪めた。
「それなら今日は覚悟しろよ」
「え?」
「三十年分の想いを、甘くみんなよ」
世の中が浮き足立つ十二月二十四日。
それもあろうことか土曜日の夜に、オフィスの白い蛍光灯に照らされながら、残業をしているのは女子社員では私くらいだ。
「ん? 今日、残業なんかしてて良いのか?」
後方から聞こえた声に、思わず身体が震えた。
早瀬良祐。
彼が嫌味ったらしいことは、社内では有名だ。私とは部署が違うから席は離れているけれど、いつもなぜかいる。誰かに小言を言いに来ては、返事を聞く前に笑いながら去っていく。
──子供の頃から、それは変わらない。
彼とは実家が隣だったせいで、顔を合わせるのも嫌なくらいだった。彼は私を見かける度に、私が気にしていることをわざわざ口にしてきた。
「……おい、聞いてるのか?」
返事をしてはいけない。
返事をすると確実に、また嫌味を言われるだけだ。
クリスマスに一緒に過ごす相手がいなくて寂しい女だな、とか。
三十歳を過ぎて独身なんて男は相手にしてくれないだろ、とか。
そんなことは、言われなくても分かっている。
売れ残り、という言葉が頭の隅で解けない雪のように重く積もっていく年齢だ。
「おい。シーラカンス、返事しろよ」
声は頭上から低く聞こえた。
早瀬はとっくに空になった隣の席にどかりと腰を下ろし、黙って私を見た。片肘を机に預けた姿は、まるで暇潰しに獲物を眺める狐だ。
「……変な名前で呼ばないでください」
「いーじゃねーか、一字くらい。スもナも似たようなもんだろ」
「似てません。私はシーラカンスじゃありません」
椎平幹奈。
自分の名前は嫌いじゃないし、むしろ気に入っている。
けれど〝しいら〟という響きは子供の頃からみんなにからかわれ、早瀬は特に〝かんす〟と続けて古代魚のように面白がった。
早瀬は私の机の上の書類をちらりと見た。
「……まだ残ってるのか?」
「はい?」
「もうおまえだけだぞ、みんな帰ったぞ」
「え?」
言われて見渡すと、昼間は賑やかだったフロアは静まり返っていた。
恋人がいる若い人たち。
家族が待っている既婚者たち。
みんな帰るところへ帰ったようで、オフィスにいるのは私と早瀬だけだった。
「俺、今日、戸締り担当だけど帰りてえから、おまえもそろそろ帰ってくれね?」
時刻は午後八時。
仕事はまだまだ残っていたけれど、早瀬の冷たい視線の前では荷物を片づけて一刻も早く会社を出ることしか許されなかった。
「家まで送ってやろうか?」
珍しく優しい言葉を言ってくれたけれど、私はもう実家には住んでいない。
大学入学と同時に一人暮らしを始めて、それから何度か引越しをした。会社からは遠いところになってしまっているけど、交通の便も悪くないしコンビニや飲食店も近くにあるので不自由はしていない。
ただ──クリスマスイブの夜に一人で帰るのは、少しだけ心臓に悪い。
街路樹や店のイルミネーションは、綺麗に輝いていた。寂しい夜にご褒美をもらったようで、少し嬉しかった。
けれど、その下を歩く恋人たちは、みんなこの夜そのものに愛されているみたいだった。指を絡めて笑い合う姿を見るたび、心の奥がずきりと痛んだ。
私は去年のクリスマス、付き合っていた恋人に、結婚も考えていたのに、ふられたんだ──。
「ありがとうございましたー」
マンションの最寄り駅で電車を降りて、習慣でコンビニに寄った。
買ったのは新作のチョコレート菓子と、メイク落としの詰め替え。それから週末のお楽しみ、お酒とおつまみは外せない。
最近の私の定番は、五百ミリリットルのビール缶だ。
チューハイでもカクテルでもなく、苦味を喉に流し込むためだけの銀色の缶。
レジのアルバイトの男の子に「え?」という顔で見られたけれど、別に構わない。
飲まないと、仕事のストレスは無くならない。
もちろん、飲んだところで楽になるはずはない。
むしろ翌朝には鉛のような疲労だけが身体の底に沈む。それでもやめられないのは、他になにも拠り所がないからだ。
部屋に戻り、テレビをぼんやり眺めていると、インターホンが鳴った。
残念ながら、人が訪ねてくる予定はない。
出るのが面倒で無視をしたけれど、音は諦めなかった。
ドンドンドン!
ピーンポーン……
「うるさいなぁ。静かにしてよ」
独り言は部屋の空気になって消えた。
その直後、今度はスマホが震えた。
メッセージの差出人は──早瀬だった。
『いるんだろ? 開けてくれ。忘れ物を届けに来た』
「なんでここがわかったんですか?」
「俺が知らないわけないだろ?」
「……意味がわかりませんけど」
そのまま追い返すつもりだった。
けれど忘れ物はドアチェーンの隙間を通るサイズではないようで、彼を部屋に上げる羽目になった。
「私、なにを忘れてたんですか?」
「ああ……俺」
「……は?」
本当に、意味がわからなかった。
私が許可をする前に、彼は勝手に床に胡座をかく。
仕方なく近くに座って黙って眉を吊り上げると、早瀬は小さく息を吐いた。
「おまえさ。俺が──五百はやめろって言ったら、どうする? 仕事に逃げるなって言ったら、どうする?」
「五百……?」
早瀬はテーブルに並んだ銀色の缶を見ていた。
「ここ、おばさんに聞いたんだよ。言ってたぞ、いつもひとりでビール五百ミリも飲んでるから心配だって。せめて三百五十にしとけよ。それでも俺は心配だけどな……」
──なぜ?
早瀬の言葉の意味を考える。
悲しそうな表情をしている理由を探す。
「見てられねーよ」
ぽつりと落ちた言葉は、冷えた部屋の底に静かに沈んだ。
「クリスマスに男にふられて仕事と酒に逃げて身体壊してる女なんか、見たくねーよ」
「……じゃ、来ないでください」
「そんなことできるかっ」
吐き捨てるように言って、彼は袋から白い箱を出して、テーブルに置いた。
「ほら、食え。それから、これ飲め」
最後に缶ジュースを音を立てて置いてから、早瀬は私を見た。
「それしか残ってなかったんだ。文句言うなよ」
箱の中にはイチゴのショートケーキが一つ入っていた。
クリスマスなので小さい柊の飾り。
空いたスペースに、乗りきらなかったチョコレートのプレート。
『Happy Birthday かんな』
文字を見たとたん、胸の奥で何かがほどけた。
「……早瀬……なんで?」
「な、なんだよ。何も間違ってねーだろ」
十二月二十四日は、私の誕生日。
いつも街の輝きに消されてしまう日だ。
「泣くなよ、おい! 泣いてる奴も、見たくねーからな」
私は俯いてしまった。
泣いてなんかいない。けれど、涙はいまにも零れそうだった。
しばらく黙っていると、早瀬が低く言った。
「なあ、椎平、俺が──おまえのこと好きだって言ったら、信じるか?」
息が止まりそうだった。
見上げると、珍しく早瀬は照れた顔をしていた。
「前に言っただろ。おまえは俺の嫁にしてやるって」
「……いつ?」
そんなこと、聞いた覚えはない。
「ガキんとき。おまえ、大きくなったらお嫁さんになりたいって言うから、俺がもらってやるって言ったら、うんって言っただろうが」
小さい頃は、確かに彼と仲良くしていたけれど。
そんな話は、全く覚えていない。
「本当に、覚えてないんだな……」
「全く……。あの、それより、本当に、忘れ物って、なんですか」
ケーキは嬉しかったけれど、彼は忘れ物を届けに来たと言った。
本当の要件は、そっちのはずだ。
「だから、俺だって言っただろ」
「どういう意味ですか。同じこと──っ」
次の瞬間、身体が強く引き寄せられていた。
とても、温かかった。
乱暴なくせに、怖くなかった。
「ちょっ、早瀬、やめっ、離して」
「離すかよ。なんで、強がるんだよ。なんで……認めないんだよ……おまえは……」
私を抱きしめる力が強くなった。
「おまえは……俺がいないと、ダメな女だ。そうだろ、幹奈」
──否定はできなかった。
本当は、気づいていた。
嫌味を言われる度に腹が立っていたけれど、彼に会わない日は妙に静かで落ち着かなかった。
強ばっていた身体が、ようやく解けていく。
「良祐には、かなわないよ」
笑いながら言うと、彼はようやく腕の力を緩めた。
大きな手が、私の髪を撫でた。
「ほら。そうやっていつも笑ってろよ。酒も残業も、ほどほどにしとけ」
「うん……わかった」
「絶対だからな。俺に心配させるなよ。良い子にしてたら嫁にしてやる」
「もう、私、子供じゃないよ?」
「……ふうん。大人なんだな?」
早瀬は少しだけ口元を歪めた。
「それなら今日は覚悟しろよ」
「え?」
「三十年分の想いを、甘くみんなよ」
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