夜の風景
約束の夏、そして…
第3話 – 1ページ目:桜の中で
3月下旬 – 東京・隅田公園
桜の花びらが枝にそっと寄り添っていた。
やわらかな風が吹くたび、いくつかの花びらが静かに舞い落ち、まるで春の淡い雪のように地面へと降り積もる。
公園は静かだった。
がらんとしているわけではないが、騒がしくもない。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、川のせせらぎが背後のBGMのように流れていた。
ミヤは、高い木の下に立っていた。
バッグを両手で前に抱え、何度も何度も舗装された道の先を見つめている。
心臓は、理由もなく速く打っていた。
もちろん、その理由はわかっていたけれど。
声に出して考えるのは、少しだけ恥ずかしかった。
彼女は30分早く着いていた。
自分でもなぜそんなに急いでいたのかわからない。ただ、この待ち時間をもう少しだけ味わいたかったのかもしれない。
それか――遅れるのが怖かっただけかもしれない。
やわらかな風が吹き、花びらが彼女の肩に舞い降りた。
その瞬間、遠くにイロが見えた。
いつものゆったりとした足取りで。
明るいベージュのコートを着て、両手をポケットに入れている。
世界に急ぐものなんて何もない、と言わんばかりに。
ミヤは、無意識に背筋を伸ばした。
イロが近づくと、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「待った?」
ミヤはすぐに首を振る。
「いいえ…ちょうど今来たところ。」
小さな嘘。
そして、ふたりともそれを知っていた。
イロは何も言わなかった。
ただ、その淡い笑みを唇に残したまま。
「説明しなくていいよ」と言うように。
数秒の沈黙が、ふたりの間に流れた。
重くなく、気まずくもなく。ただ、静かに。
イロの視線が、ミヤの肩の上で止まった。
彼女のコートに、ひとひらの花びらが静かに乗っていた。
彼の手が少し上がる――それを払おうとしたのか。
しかし、ミヤの方が早かった。
「あのね…」
彼女は手を広げた。
その手のひらに、ひとひらの桜の花びら。
軽く、薄く、ほとんど重さを感じさせない。
そっと差し出した。
「はい。プレゼント。」
イロは数秒間、それを見つめた。
花びらをではなく――ミヤ自身を。
それから、静かに尋ねた。
「…どうして?」
ミヤは肩をすくめたけれど、頬は少し熱くなっていた。
「きれいだから。それに…」
間を置く。
風が再び吹き、花びらが彼女の髪に舞い込む。
彼女はそっと息を吸った。
「春が来たって、伝えたくて。」
イロの目の奥に、何か柔らかなものが広がった。
彼は花びらを受け取った。
とても優しく、まるで花びら以上の儚いものを手にしているかのように。
「…ありがとう。」
ミヤは微笑んだ。
小さな、しかし確かな笑顔で。
ふたりは、静かに並んで歩き出した。
靴の音が、しっとりと濡れた公園の舗道に響く。
ミヤは花びらでいっぱいの枝を見上げて、尋ねた。
「春、好き?」
イロは少し考えた。
視線を桜の向こう、枝の隙間から覗く、かすかな青空へと移す。
「…わかんない。でも…」
彼の視線が、ミヤへと戻る。
「あんたと見る春は、特別かも。」
ミヤの心臓が、一瞬止まった気がした。
彼女はすぐに視線をそらし、数歩前に歩き出した――ただ、イロに赤くなった頬を見られないように。
「歩こ。桜、もっと見たい。」
イロは無言で、その隣を歩いた。
イロのコートのポケットには、あのピンク色の花びらがまだしまわれている。
小さな、しかし大切な何かのように。
風が桜の枝を揺らす。
花びらが、ふたりの周りを優しく舞った。
イロは静かにミヤの背中を見つめた――
ゆっくりとした彼女の歩み。
たまに肩に乗せている、あの青いマフラー。
冬を乗り越えた、あの少女を。
そして、彼は心の中で、静かに呟いた。
「ミヤ…あんたも、春みたいだ。」
「来るまで時間はかかったけど…」
「待ってよかった。」