夜の風景

アイロの暮らし

第5章・第4ページ:アイロの暮らし


あの冬から、数か月が過ぎていた。


東京――晩春


朝の光が差し込む中、会社のガラス張りのビルが淡く輝いていた。


アイロは、自分のデスクに座っていた。


濃い色のスーツを身にまとい、机の上にはいくつもの書類が広げられている。

ノートパソコンの画面には、数字や財務報告が並んでいた。


一人の社員が近づいてくる。


社員:

「副社長、こちらの書類にサインをお願いします。」


アイロは顔を上げた。


アイロ:

「はい。そこに置いて。」


社員は書類を机の上に置くと、その場を離れていった。


アイロは数秒、書類を見つめた。


そしてペンを手に取る。


一枚。


また一枚。


次々とサインをしていく。


会議。


報告書。


仕事の電話。


そんな毎日が、ただ過ぎていった。


けれど、会社の忙しさの中で、時々ほんの数秒だけ、彼の意識はすべてから離れてしまう。


あの冬の夜。


海辺。


雪。


そして、今も自分の部屋の引き出しにしまわれている青いマフラー。


アイロは、はっと瞬きをした。


窓の外から視線を戻し、再びノートパソコンの画面を見る。


アイロ:

「集中しろ。」


夜――アイロの母の家


玄関のドアが開いた。


アイロが帰宅し、靴を脱いで玄関の脇に置く。


母親がキッチンから出てきた。


母:

「おかえり。今日もお疲れさま。」


アイロは小さく微笑んだ。


アイロ:

「ただいま。」


母親は、しばらく息子の顔を見つめた。


母:

「ご飯、食べる?」


アイロはジャケットを脱ぎながら答えた。


アイロ:

「うん。あとで。」


母親は小さくうなずいた。


母:

「無理しないでね。」


アイロはただ一言、


アイロ:

「わかってる。」


そう答えると、階段を上っていった。


アイロの部屋――午後11時48分


部屋のドアを閉める。


静寂。


聞こえるのは、壁時計の秒針が刻む音だけだった。


アイロは机の前に座った。


隣の小さなライトをつける。


数秒間、何も映っていないスマートフォンの画面を、ただ見つめていた。


やがてスマートフォンを手に取る。


メッセージ画面を開く。


名前を検索することはなかった。


ただ、指を画面の上に置いたまま、しばらく動かさなかった。


そして、ゆっくりと文字を打ち始める。


書いて。


止まって。


もう一度、読み返す。


「何も知らない君へ……

僕はまだ、君から取り残されたまま。

どうすればいい?

君のいない世界で……」


アイロは、その言葉をじっと見つめた。


笑わなかった。


そのメッセージを誰かに送ることもしなかった。


ただ、画面を消した。


スマートフォンを机の上に置く。


そして、机の一番下の引き出しを開けた。


そこには、青いマフラーがまだ残っていた。


何か月も前、ミアが首から外し、彼に渡した、あのマフラー。


アイロは、その布にそっと手を触れた。


そして、ほんの一瞬だけ目を閉じる。


小さな声で呟いた。


アイロ:

「まだ……忘れられない。」


マフラーをもう一度、引き出しの中に戻す。


引き出しを閉める。


そしてアイロは、長い間、そのまま机の前に座っていた。


窓の外では、東京の街明かりが輝いている。


街は、いつもと変わらず生きていた。


けれど――


アイロの部屋の中だけは、


その夜、


いつもよりずっと静かだった。
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