箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい
新那は諦めたように、薄紫に変わりゆく空を見上げた。それから、胸の奥のモヤモヤを吐き出すように、小さく息を吐く。
「もっと、普通でいいじゃん。普通の男の子みたいにさ」
「普通。……該当語句の定義、及びパラメータの指定をお願いします」
「だから、定義とかパラメータとか、そういう難しい言葉を使うのをやめてって言ってるの!」
新那はとうとう、声を立てて笑ってしまった。本当に面倒くさい男だ。
でも――朝のあのイライラに比べたら、この噛み合わない遣り取りすら、今はなんだか少しだけ、面白いと思えている自分がいた。
「例えばね」
新那は再び、歩き出しながら言葉を噛み砕く。
「『了解しました』じゃなくて、短く『分かった』とか」
「……分かった」
「そうそう、それ! あとは、『問題ありません』じゃなくて」
「『大丈夫』、とかでしょうか」
「大丈夫。うん、そんな感じ!」
アールはピタリと口を閉じ、沈黙した。
まるで、新那から提示された新しい言語プロトコルを、脳内の中央サーバーで必死に処理しているようだった。否、実際に莫大なログを書き換える処理を実行しているのだろう。
「――学習しました。新しい音声出力パターンをメモリに一時保存します」
「いや」
新那はクスッと笑いながら首を振る。
「それも、まだちょっと違う」
「違いますか。これ以上の簡略化は、敬意の欠如にあたると判断しますが」
「うん。敬意なんていらないの」
新那は少し歩みを止め、夕暮れの光の中で、真っ直ぐにアールの瞳を見つめて続けた。
「もっとさ……莉子ちゃんみたいに、友達同士で喋るみたいに、フランクに喋ればいいんじゃない?」
その瞬間だった。
アールの歩行駆動系が、完全にロックされたようにピタリと足を止めた。
新那も数歩先で、思わず振り返る。
「……アール?」
「――友達」
アールが、その二文字の単語を、電子の海から拾い上げるようにして繰り返した。
感情のないガラスの瞳が、夕闇の中で微かに明滅する。何処か不思議そうに。まるで、自分の膨大なデータベースの何処を探しても、正しい最適解が見つからない未知の言語に直面したかのように。
「そうだよ、友達」
新那は、優しく頷いてみせる。
「私達、クラスメイトなんだし。学校にいる間は、そういう設定の方が都合がいいでしょ?」
「……友達」
「まあ、アールにとってそういう複雑な言語処理が、スペック的に嫌なら無理しなくていいけど」
「――嫌では、ありません」
それは、電子の隙間を縫うような、迷いのない即答だった。
今度は、新那の方が少しだけ驚いて目を瞬かせる。
嫌ではない、らしい。アンドロイドに「嫌」も「好き」もないはずなのに、彼のAIは明確にその選択肢を肯定した。
「なら」
新那は少し照れくさくなって、小さく肩を竦めて。
「少し、頑張ってほしいな? 友達っぽい喋り方」
アールは、しばらくの間何も言わずに佇んでいた。
夕方の、少し冷たさを帯びた春風が路地を吹き抜ける。住宅街の街路樹がざわざわと音を立てて揺れ、遠くの家からは、散歩中の犬の鳴き声が小さく響いていた。
長い、システムアップデートのような沈黙の後。
「……分かった」
それは、ひどくぎこちない、硬い声だった。
ほんの少しだけ、本当に爪の先ほどだけれど、今までの完璧なシステム音声とは違う。機械的な音色のままなのに、何処か、初めて言葉を覚えた子供のような、不慣れな響きがそこには混ざっていた。
新那はパチパチと目を瞬かせ、それから――今日一番の、悪戯っぽくて優しい笑みを浮かべた。
「うん。そっちの方が、何倍もいい」
アールはもう、何も言わなかった。ただ、新那の歩調に合わせるように、再びゆっくりと歩き出す。
夕闇のグラデーションに溶けゆくその横顔は、相変わらず表情ひとつない鉄の仮面のようだったけれど。
新那の目には、その少しだけ縮まった背中が、何故だかほんの少しだけ、人間らしく見えたのだった。
「もっと、普通でいいじゃん。普通の男の子みたいにさ」
「普通。……該当語句の定義、及びパラメータの指定をお願いします」
「だから、定義とかパラメータとか、そういう難しい言葉を使うのをやめてって言ってるの!」
新那はとうとう、声を立てて笑ってしまった。本当に面倒くさい男だ。
でも――朝のあのイライラに比べたら、この噛み合わない遣り取りすら、今はなんだか少しだけ、面白いと思えている自分がいた。
「例えばね」
新那は再び、歩き出しながら言葉を噛み砕く。
「『了解しました』じゃなくて、短く『分かった』とか」
「……分かった」
「そうそう、それ! あとは、『問題ありません』じゃなくて」
「『大丈夫』、とかでしょうか」
「大丈夫。うん、そんな感じ!」
アールはピタリと口を閉じ、沈黙した。
まるで、新那から提示された新しい言語プロトコルを、脳内の中央サーバーで必死に処理しているようだった。否、実際に莫大なログを書き換える処理を実行しているのだろう。
「――学習しました。新しい音声出力パターンをメモリに一時保存します」
「いや」
新那はクスッと笑いながら首を振る。
「それも、まだちょっと違う」
「違いますか。これ以上の簡略化は、敬意の欠如にあたると判断しますが」
「うん。敬意なんていらないの」
新那は少し歩みを止め、夕暮れの光の中で、真っ直ぐにアールの瞳を見つめて続けた。
「もっとさ……莉子ちゃんみたいに、友達同士で喋るみたいに、フランクに喋ればいいんじゃない?」
その瞬間だった。
アールの歩行駆動系が、完全にロックされたようにピタリと足を止めた。
新那も数歩先で、思わず振り返る。
「……アール?」
「――友達」
アールが、その二文字の単語を、電子の海から拾い上げるようにして繰り返した。
感情のないガラスの瞳が、夕闇の中で微かに明滅する。何処か不思議そうに。まるで、自分の膨大なデータベースの何処を探しても、正しい最適解が見つからない未知の言語に直面したかのように。
「そうだよ、友達」
新那は、優しく頷いてみせる。
「私達、クラスメイトなんだし。学校にいる間は、そういう設定の方が都合がいいでしょ?」
「……友達」
「まあ、アールにとってそういう複雑な言語処理が、スペック的に嫌なら無理しなくていいけど」
「――嫌では、ありません」
それは、電子の隙間を縫うような、迷いのない即答だった。
今度は、新那の方が少しだけ驚いて目を瞬かせる。
嫌ではない、らしい。アンドロイドに「嫌」も「好き」もないはずなのに、彼のAIは明確にその選択肢を肯定した。
「なら」
新那は少し照れくさくなって、小さく肩を竦めて。
「少し、頑張ってほしいな? 友達っぽい喋り方」
アールは、しばらくの間何も言わずに佇んでいた。
夕方の、少し冷たさを帯びた春風が路地を吹き抜ける。住宅街の街路樹がざわざわと音を立てて揺れ、遠くの家からは、散歩中の犬の鳴き声が小さく響いていた。
長い、システムアップデートのような沈黙の後。
「……分かった」
それは、ひどくぎこちない、硬い声だった。
ほんの少しだけ、本当に爪の先ほどだけれど、今までの完璧なシステム音声とは違う。機械的な音色のままなのに、何処か、初めて言葉を覚えた子供のような、不慣れな響きがそこには混ざっていた。
新那はパチパチと目を瞬かせ、それから――今日一番の、悪戯っぽくて優しい笑みを浮かべた。
「うん。そっちの方が、何倍もいい」
アールはもう、何も言わなかった。ただ、新那の歩調に合わせるように、再びゆっくりと歩き出す。
夕闇のグラデーションに溶けゆくその横顔は、相変わらず表情ひとつない鉄の仮面のようだったけれど。
新那の目には、その少しだけ縮まった背中が、何故だかほんの少しだけ、人間らしく見えたのだった。