ただいまの先に〜帰る場所〜
第五話 愛人の子
「こんにちは」
「美月先生!いらっしゃい!」
週末のMaple。
昼下がりの優しい日差しが、ガラス張りの店内を暖かく包む。
「お客さんも引けたから、空いてるところに座ってて!今柊ちゃん、買い出しに行ってるの!」
美月はあれから、Mapleによく顔を出すようになった。
今では柊とも元通りで、すっかりラブラブだ。
「柊ちゃんがパパで、美月先生がママで、ヤブ医者がお兄ちゃん!」
ある日の週末、閉店後の店内。
いつものように集まるメンバー。
「俺は?」
「琥太郎さんは……おじいちゃん?」
「いや、俺まだ27だし」
「いいじゃねぇか、おじいちゃん」
「祐介まで……」
たわいもない冗談で、弾む会話。
「お兄ちゃん、ねぇ」
祐介は、ふ、と視線を下げた。
——「血は争えないのね」
頭に響くのは、母親の言葉。
父親は医者だった。
母親は、その愛人。
本妻には息子がいて、そいつが今、父親の病院を継いでいる。
自分が医者になると言った時、母親は冷たい目で吐き捨てた。
「血は争えない」
その言葉が刺さる。
家族がいるのに他所の女に子供を産ませるようなやつと同じ血。
吐き気がする。
——
「祐介、あんたの顔見てるとあの男を思い出して腹が立つの」
そう、小さい頃から母親に言われて育った。
母親は水商売で、昼夜逆転の生活。
夜働いて、朝帰ってくる。
帰ってきた母親は、化粧も落とさずそのまま布団に倒れ込む。
寝ている俺の布団を自分の方に引っ張って、寒くて震えている俺を足で蹴った。
「お腹すいた」
「カップラーメンあるから食べな」
まだ幼い子供。
必死にお湯を沸かしてカップラーメンに湯を入れる。
暑いお湯。
「っ!」
ガタン!
失敗して、中身をひっくり返してしまう。
「何やってんの!」
母親の怒鳴り声。
「もう早く学校行きな!」
朝ごはんも食べずに家を出る。
古い木造のアパートの階段を泣きながら降りる。
「いってらっしゃい!」
隣の家から聞こえる、優しい声。
母親が、子供を見送りに外に出てくる。
ランドセルを整えてやり、荷物を持たせる。
「気をつけてね」
その笑顔が、祐介に向けられることはない。
「祐介くんのお母さんて、愛人なんだろ?」
「すっげぇ若くて綺麗だよな。本当の子供なの?」
学校では、そう言ってからかわれる。
テレビで、どこかの大きな病院が紹介されていた。
その病院の、教授、という人物が映ったとき、母親がテレビを消した。
「くだらないもの見てんじゃねーよ!」
その教授を、祐介は知っていた。
たまに、家に来るから。
「やぁ、祐介くん。大きくなったね。息子の小さい頃にそっくりだ」
頭を撫でる大きな手。
その手に甘える母親。
——吐き気がする。
——
「……い。矢吹先生!」
看護師の呼ぶ声に、意識を取り戻す。
「お疲れですか?ここのところ風邪が流行ってますもんね。内科の患者も小児科に回されて来るそうですよ」
「ん、あー。昨日遅くまで飲んでたからな」
白衣のまま伸びをして、立ち上がる。
「また例の幼馴染のカフェですか?今度連れて行ってくださいよ」
「カップルとガキとじじぃしかいねぇけどいいか?」
「は?なんですか、それ」
現実は、かなりシビアで。
毎日は、慌ただしく過ぎる。
あのカフェにいる時が、一番落ち着く——
「先生ー!」
廊下を歩いていると、無邪気な声。
走って来る足音。
「こら、病院で走っちゃだめだろ」
そう優しく言い、走って来た男の子の頭を撫でた。
入院着はよれていて、長く入院生活を送っていることを物語っている。
「先生!今日ね!ママが来るんだ!お土産持って来てくれるって!」
「そうか、よかったな」
その時、病室で、寂しそうにぬいぐるみを抱きしめる別の子供が目についた。
「かっちゃんのママ、昨日も来なかったって。かわいそう。今日は来るかなぁ」
無邪気な子供たち。
みんな、なにかしらの怪我や病気でここにいる。
ふ、とあの頃の光景が目に浮かぶ。
まだ施設に入ったばかりの頃だった。
——
「ゆーすけ、そんなとこ登ったら危ないぞ!」
「ゆーすけくん、早く降りてきて!危ないよ!」
先に施設にいた、まだ幼い柊と美月が、楓の木の下で声を上げる。
「大丈夫だって!」
祐介は得意げに笑いながら、太い枝に足を掛けた。
その時だった。
ボキッ
嫌な音が響く。
「うわっ——!」
掴んでいた枝が折れ、祐介の身体が落ちる。
ドスン!
鈍い音を立てて尻餅をついた祐介は、驚いて一瞬声が出なかった。
「ゆーすけくん!」
美月の目に、みるみる涙が浮かぶ。
「大丈夫か!?」
柊が駆け寄り、手を差し出した。
祐介は顔をしかめながら、その手を掴む。
その時。
「こらー!何やってるの!」
職員の先生の声が飛んだ。
「やべ!」
祐介が顔を上げる。
「逃げるぞ!」
「えっ」
「行くぞ、美月!」
柊が美月の手を掴み、走り出す。
「ゆーすけくん、大丈夫!?」
柊に手を引かれながらも、美月は何度も後ろを振り返っていた。
——
あの時折れた枝は、今どうなっているのだろうか——。
⸻
「ゆーすけ先生?」
黙り込んだ祐介を心配そうに見上げる子供。
「大丈夫だ。きっと、今日は来てくれる。ほら、お前はママが来るんだろ。病室に戻りな」
「はーい!」
「……一服するか」
屋上に出る。
煙草に火をつけ、その煙が流れて行く先をぼぉっと見つめた。
「あ、ここにいた!矢吹先生!」
その時太い声が響く。
「お疲れ様です」
隣に立ったのは、春に大学病院から転院して来たばかりの内科医だった。
「矢吹先生のお兄さん、見えてますよ」
その言葉に、チッと舌打ちを落とす。
「今日休みだって伝えておけ」
「もうここにいる」
「……兄貴」
「お前、たまにはうちに顔出せよ。父さんも気にしてたぞ」
屋上の入り口からこっちに向かって歩いてきたのは、母違いの兄。
「……用がない」
「またそんなこと言って」
その声は呆れているようで、根っこは心配しているのが伝わるから、厄介だった。
「あの母親からまた金の無心されてないか?」
「いや。最近は連絡来てねぇ」
「ならいいけど。父さんが釘刺したようだからな。金がいるなら自分に言えって。あれでも後悔してんだぞ。お前が施設に入るまでネグレクトに気付かなかったこと」
「いつの話だよ」
ふー、と煙草の煙を吐き出す。
「お前、煙草やめろって」
「俺から煙草を取ったらストレスで死ぬ」
「はいはい。ほどほどにしとけよ」
「……暇なのか?」
「この病院にうちの患者が転院したんだよ。引き継ぎだ。電話でもよかったんだが、お前の顔見ときたくてな」
兄が帰った後。
「……疲れた。飯作んのめんどくせーな。Mapleでいっか」
そう、ひとりごとのように呟いた——。
カランカラン
「あ!ヤブお帰り!」
明るい声。
「とうとう医者まで省略か」
「だってヤブ医者って長いんだもん!」
「なに食う?」
「メニュー聞く前にこのガキちゃんと教育しろ」
「パパー。お兄ちゃん怖い」
「誰がお兄ちゃんだ。そしてお前はパパを訂正しねーのかよ」
ふぅ、とカウンターに腰を降ろす。
その時、カランカラン
再び鳴り響く来店の知らせ。
「いらっしゃ……なんだ、おじいちゃんか」
「……鈴ちゃん?」
「柊ちゃん、今日は美月ちゃん来ないの?」
「先生だろ。今日は来ないよ。教師は忙しいんだ」
「美月のところだけ訂正すんのかよ。そして俺だって暇じゃねぇ」
わいわいと過ぎる時間。
ほっとする時間。
最近では、家に帰るんだかMapleに帰るんだかわからなくなってきた。
「何笑ってんだよ。なんかいいことあったのか?」
琥太郎の不審そうな目。
「別に。」
そう返した祐介は、珍しく、穏やかに笑っていた——。