ただいまの先に〜帰る場所〜
第七話 家族
三人が病室を出ていった後。
部屋には、妙な静けさだけが残った。
絵茉は気まずそうに視線を逸らし、琥太郎も、何を話せばいいのかわからないまま黙り込む。
遠くで、ナースステーションの話し声が聞こえた。
「……その怪我、大丈夫なの」
先に口を開いたのは、絵茉だった。
「ん? ああ、こんなの慣れてる」
「慣れてるって何よ」
呆れたように笑う。
「さっき病室にいた、目つき悪い方。あいつ昔から喧嘩っぱやくてな」
「……は?」
「施設の頃も、俺らが絡まれるとすぐ前出るから、職員にめちゃくちゃ怒られてた」
絵茉が思わず吹き出す。
「なにそれ」
「今は医者やってんのに、中身ほとんど変わってねぇ」
小さく笑う琥太郎を見て、絵茉の表情も少しだけ和らぐ。
沈黙。
時計の秒針だけが、静かな病室に響く。
絵茉は、しばらく迷うように視線を落として——
「……私ね」
ぽつり、と口を開いた。
「ずっと夢だと思ってたんだけど、うっすらと、誰かのことをお兄ちゃんって呼んでたの、覚えてるの」
「優しい男の子がまだ小さな私の手を引いて、優しい声で、大丈夫だよって、言ってくれて」
「でも、顔は思い出せなくて……誰だったのかも」
琥太郎の、握りしめた拳に力が入る。
「……それとね」
絵茉が、間を置いて続ける。
「……小さい頃、一回だけ見たことあるの」
「母さんのパスケースの中に、男の子の写真が入ってて」
少しだけ笑う。
「誰?って聞いたら——」
視線を落とす。
「“あなたのお兄ちゃん”って」
静かな声。
「それ以上、聞けなかった」
「母さん、ちょっと泣きそうだったから」
沈黙。
「だから私、勝手に思ってたんだ」
「……もう、いない人なんだって」
「……」
琥太郎は、何も言えずに瞳を揺らす。
そして——
「……絵茉が中学生の頃、一度会ってるの、覚えてないだろ」
その言葉に、絵茉が驚いたように目を見開く。
「え?」
「立川蓮、て知ってるだろ?」
「蓮……。地元の先輩だけど」
「蓮は高校の後輩でさ。昔、一回だけ、地元の友達紹介したいって言われて、そっちに遊び行ったことがあったんだ。その時、まだ中学生だった絵茉に会った」
「なんでその時妹だって言ってくれなかったの?」
「確証がなかったんだ。母さんが絵茉を連れて出て行ったのは俺が小2でお前がまだ4歳だったから、母親の旧姓も、妹の顔も、よく覚えていなかった。ただ、絵茉っていう名前だけ覚えてた。」
「ならどうして私が妹だってわかったの?」
「お前小学生の時、なんかの賞取って新聞に載ったことあるだろ?大人になって、ばあちゃんの遺品整理してるとき、その記事の切り抜きを見つけた。」
——“吉岡絵茉”って名前。
それに、蓮と同じ地元の小学校。
「繋がった時、どうしてもっと早くって後悔した。
ばあちゃんが死んでから全然実家に帰ってなかったから。もっと早くあの記事見つけてたら、あの時名乗れたのにって」
「それから何年か立って、蓮のSNSでお前のアカウント見つけて……。気持ち悪いかもしれないけど、時々見てた。」
絵茉の瞳が揺れる。
そして、誤魔化すみたいに小さく笑った。
「……本当に、気持ち悪い」
その声は、言葉とは裏腹に優しい響きをしていて、琥太郎は、ふ、と笑う。
「母さんは?」
「——生きてるよ。でも今、入院してる」
「どこか悪いのか?」
「ちょっと、体壊してて。あの人、ずっと仕事掛け持ちして私のこと育ててくれたから」
「……」
「もう年だし、色々体にガタ来てんのよ」
「……すまなかった」
「なんであなたが謝るの?……」
泣きそうな顔で、絵茉が笑う。
「……謝るなら、会ってあげて」
——病室で、窓の外を眺める白髪混じりの女性
外で、元気に駆け回る子供を見ている。
あのくらいの年だった。
あの子を置いて来たのは——
その時、病室の扉が開く。
「絵茉?」
返事はない。
カーテン越しに、ゆらり、と映る影は絵茉じゃない。
男の人?
「どなた?」
その時。
「……琥太郎?」
その言葉に、カーテンに手をかける琥太郎の手が止まる。
覚えている。
優しい声。
込み上げてくるものを必死に押し込めて、笑顔を作る。
琥太郎の姿を見たその人の顔が、一瞬で崩れる。
声を上げて泣くその姿を見て、琥太郎の目にも涙が溢れた——
——
「父さんの再婚相手が最悪な人でさ」
琥太郎は、顔を顰めながら、母親の傍の椅子に腰を下ろす。
「ばあちゃんの入院中に父さんが連れて来たんだけど」
「ばあちゃんは自分が面倒を見るって言ったけど、病気もあって難しくて」
母さんは、琥太郎の話を黙って聞いている。
「ごめんね、あなたには辛い思いをたくさんさせたわね」
「そんなことないよ、ばあちゃん、怖かったけど、ちゃんと優しかったよ」
「ポチが死んだ時、一緒にお墓を作ったんだ。あの時、ばあちゃん泣いてて。俺が、鬼の目にも涙って言ったら、めちゃくちゃ怒られたけど」
それを聞いた母親は、ふふ、と笑う。
「……父さんの浮気を知った時、おばあちゃんがね、浮気くらいなんだ、男は浮気をするもんだって言ったのよ」
「でも、お母さんは弱かったから、受け入れられなかった……」
——あの家に嫁いでから、名家の嫁として、いろいろ叩き込まれた。
でも、上手くできなかった。
おばあちゃんは厳しかったけど、それも若い時の自分の苦労があったからで、決してただ意地悪なだけじゃない。
それがわかっていても、自分は我慢することができなかった——
母親は、そう、ぽつり、ぽつり、と言葉を落とす。
「……お母さん、琥太郎が施設に保護されたって聞いて一度家に行ったのよ。でも、会わせてもらえなくて」
視線を落とし、もう一度、ごめんね、と呟く。
琥太郎の、知らない事実だった。
でも、その事実を知った時、亡くなる前の祖母の悲しそうな顔が浮かぶ。
——「すまなかったねぇ」
その言葉が何に対しての謝罪だったのか、琥太郎には分からなかった。
ばあちゃんは毎日のように施設に来てくれた。
体力もないのに、毎日おはぎやプレゼントを持って。
柊は、甘いものが大好きだった。
「……食う?」
琥太郎がそう言うと、柊の目がぱっと輝く。
「いいの!?」
祖母はその様子を見て、ふっと目を細めた。
重箱からもう一つおはぎを取り出す。
「ほら。ゆっくり食べなさい」
「うまい!」
柊は口いっぱいに頬張り、
「おかわり!」と空の皿を差し出す。
祖母は思わず笑った。
その声につられるように、周囲の子供たちも集まってくる。
祐介。
美月。
他にもたくさん。
親がいる子。
いない子。
帰る場所がある子。
ない子。
みんな、それぞれ理由を抱えてここにいた。
祖母は静かに、おはぎを配る。
「ありがとう!」
「おばあちゃん、また作って!」
その無邪気な声に。
救われていたのは——
きっと祖母の方だった。
——あの頃、俺たちはみんな、誰かの“家族”になりたかったのかもしれない。
琥太郎は、どこに向けたらいいのわからない気持ちに、ただ涙をこぼすしかなかった——