ただいまの先に〜帰る場所〜
第八話 置いてきたもの
閉店後のMaple。
柊、美月、祐介の三人が、難しい顔でテーブルを囲んでいた。
「……琥太郎に、なんて切り出す?」
柊が、小さく息を吐く。
「ガキの琥太郎が殴られてても、見てるだけだった男だからな」
祐介も、煙草を指に挟んだまま眉を寄せた。
「琥太郎の父親に間違いないの?」
美月が不安そうに尋ねる。
「夏目慎太郎。間違いない」
祐介が短く答える。
「アルコール依存症。会社が潰れてから昼間から酒飲むようになって、肝臓もかなり悪いらしい」
「……再婚相手は?」
「失踪。連絡つかねぇってさ」
「名家の社長様も、落ちたもんだな」
病院経由でその話を聞いたのは昨日だった。
琥太郎に伝えるべきか。
誰も答えを出せないまま、時間だけが過ぎていく。
以前、祐介は琥太郎に聞いたことがあった。
「父親に会いに行かないのか?」
その時、琥太郎は迷いなく言った。
『もう俺には関係ない』
あの声は、諦めじゃなかった。
硬く閉ざした、決意だった。
「……やっと絵茉ちゃんとお母さんに会えたのに」
美月がぽつりと呟く。
「こんな話で、また悩ませたくないな」
「このままだと、戸籍上の長男の琥太郎に連絡行くのは避けられねぇよ」
祐介の言葉に、三人とも黙り込む。
その時だった。
カランカラン
静かな店内に、ドアベルの音が響く。
「……なんだよ。揃って辛気くせぇ顔して」
入ってきた琥太郎は、いつも通り笑っていた。
「あれ? 三人だけ? 鈴ちゃんは?」
「鈴は今日、家帰ってる」
「え!? なんで!」
柊の言葉に、琥太郎が素で驚く。
「自分の家帰るのに驚くことか?」
祐介が煙草に火をつけながら呆れたように返す。
「いや、驚いたっていうか……心配だろ。だって鈴ちゃん」
「今日は親が旅行で家にいないらしいのよ。ベルちゃんが心配だからって」
「便秘のベル、な」
「ベルも連れてこいって言ったんだけど、環境変わると可哀想だからって」
「……そっか」
琥太郎は、どこか落ち着かない様子で席に座る。
「で? 三人で何話してたんだよ」
その言葉に、三人が視線を合わせた。
最初に口を開いたのは柊だった。
「……お母さん、様子どうだ?」
「ああ。退院はまだ先だけど、ゆっくり休めば大丈夫らしい。絵茉も毎日顔出してるみたいだし」
「そうか。ならよかった」
「……」
沈黙。
そして。
「……琥太郎」
祐介が煙草の煙を吐く。
「お前の親父、入院した」
空気が止まる。
琥太郎の表情から、笑みが消えた。
「……は?」
「アルコール依存症。肝臓もかなり悪いらしい」
「……」
「そのまま更生施設に移る話も出てる」
琥太郎は何も言わない。
ただ、拳だけが静かに握られる。
「……俺には関係ない」
やっと落ちた言葉は、前と変わらなかった。
「琥太郎」
「なんだ、そんな話か。なら終わりだろ。柊、腹減った」
聞かなかったみたいに、話を切る。
その態度に、三人はそれ以上何も言えなかった——。
琥太郎に病院から連絡が入ったのは、その次の日だった。
「……ケースワーカー?」
電話口の相手は、昨日祐介から聞いた内容を淡々と説明する。
「……俺、もう縁切ってるんで。そっちで適当にやってください」
それだけ言って電話を切った。
昼休み。
会社の喫煙所。
辞めたはずの煙草に火をつける。
「あれ? 夏目、煙草やめたんじゃなかったっけ?」
同期が間の抜けた声を出しながら入ってくる。
「ストレスか? でもお前、最近調子いいじゃん」
「……まぁな」
「半年前とか、下から数えた方が早かったのに」
悪気のない軽口。
琥太郎は適当に相槌を返す。
昼休み終了のチャイム。
灰皿に煙草を押し付け、深く息を吐いた。
「珍しいな。夏目がそんな顔してんの」
同期が缶コーヒーを片手に笑う。
「いつも余裕そうなのに」
「……別に」
スマホをポケットへ突っ込む。
でも。
着信履歴が、頭から離れなかった。
——○○総合病院 医療福祉相談室
ケースワーカー。
父親。
アルコール依存症。
更生施設。
言葉だけが、頭の中を回り続ける。
「夏目?」
「……午後の会議、資料できてる?」
無理やり仕事の話へ戻した。
考えたくなかった。
今さら、あの男のことで。
その日の夜。
カランカラン
Mapleの扉を開ける。
「いらっしゃ……って、琥太郎さん!」
鈴がぱっと顔を上げた。
「今日仕事だったんじゃないの?」
「終わった」
短く返して、カウンターへ座る。
「柊、酒」
「飯は?」
「あとで」
柊は少し眉を寄せたが、何も言わずグラスを置いた。
氷の鳴る音。
静かな店内。
今日は珍しく、美月も祐介もいない。
「琥太郎さん、何かありました?」
鈴が不安そうに尋ねる。
「……今日、病院から電話来た」
その瞬間。
柊の手が止まった。
「ケースワーカーだってさ」
グラスを揺らしながら、琥太郎は淡々と続ける。
「親父、施設入るかもしれねぇって」
「……」
「戸籍上の家族だから連絡したってさ」
「琥太郎」
「笑えるよな」
自嘲するみたいに笑う。
「ガキの頃、俺が殴られてても見て見ぬふりしてたくせに、今さら“家族”だってよ」
静かに、空気が沈む。
鈴は俯き、何も言えない。
柊が静かに聞く。
「……会うのか?」
琥太郎は答えない。
代わりに、酒を一気に飲み干した。
「会うわけねぇだろ」
低い声。
「俺、あの家で一回も守ってもらえなかったんだぞ」
拳が、わずかに震えている。
「母さんが出て行く時も。
継母に殴られてた時も。
施設に入れられた時も」
吐き出すように言う。
「あいつは、ずっと見てただけだ」
柊は何も言わなかった。
言えなかった。
あの頃の琥太郎を、知っているから。
その時だった。
カランカラン
店の扉が開く。
「あれ? なんか空気重くない?」
入ってきたのは絵茉だった。
最近、絵茉もたまにMapleへ顔を出すようになっていた。
「絵茉?」
「お母さん寝たから。帰るついでに寄ってみた」
笑いながら近付いてきた絵茉は、琥太郎の顔を見て表情を止める。
「……お兄ちゃん、なにかあった?」
沈黙。
琥太郎は視線を逸らす。
代わりに。
「……琥太郎さんのお父さんの話です」
鈴が小さく答えた。
その瞬間。
絵茉の顔色が変わる。
「お父さん?」
柊が、静かに経緯を説明する。
聞き終えた絵茉は、しばらく水の入ったグラスを握り締めていた。
そして。
「……会わなくて、後悔しない?」
ぽつりと、そう落とした。
琥太郎の肩が揺れる。
「……私も、一緒に行こうか?」
その言葉に。
琥太郎が勢いよく顔を上げる。
「絵茉は、そんなことしなくていい」
でも。
絵茉の表情を見た瞬間、言葉が止まった。
「……私、ほとんど覚えてないけど」
震える声。
「でも、私のお父さんでもあるんだよね?」
グラスを握る手が、小さく震えている。
「だったら……一人で悩まないでよ」
次の日。
再び表示された病院からの着信に、琥太郎はゆっくり通話ボタンを押した。
「……もしもし」
——
「——以上が、現在のお父様の容態です」
ケースワーカーが書類を確認する。
「息子さんがいらっしゃると伺っていましたが……」
「妹です」
琥太郎は、隣に座る絵茉を見て優しく笑った。
「——そうでしたか。それではこちらが入所手続きになります」
書類を書き終え、父の病室へ向かう。
足取りは重い。
「……大丈夫?」
隣で、絵茉がそっと腕を掴む。
「……うん」
小さく頷く。
病室の中。
父親は、最後に見た頃の威厳なんて欠片もなく、小さくなっていた。
土色の顔。
痩せた頬。
かつての面影は、もうどこにもない。
「……なんだよ、それ」
乾いた声が漏れる。
拳を握る。
母を裏切った男。
祖母を苦しめた男。
自分を地獄へ落とした男。
でも。
その姿を見た瞬間。
恨みすら、どこかへ消えてしまった。
「……帰ろう」
「もういいの?」
絵茉が静かに聞く。
病院を出た帰り道。
「母さんの病院、寄って行くか」
そう言うと、絵茉が嬉しそうに笑った。
「うん! お母さん喜ぶよ」
そして、少し考えるように空を見上げる。
「あとね」
「ん?」
「おばあちゃんのお墓参りも行きたい」
その言葉に。
琥太郎は、優しく笑った。
「……ああ。ばあちゃん、きっと喜ぶ」
そっと、絵茉の頭を撫でる。
「もう。子供じゃないんだから」
そう言いながらも、絵茉は少し嬉しそうで。
離れていた時間を、少しずつ埋めるみたいに。
優しい風が、二人の間を吹き抜けた——