夜盲
右手で、彼の襟元を掴んだ。
「ねえ、ちょっと待って」
ぐい、とタートルネックの襟首を引っ張って確認する。何度瞬きをしても、赤黒い内出血の痕は確かにそこにある。
「は? キスマークついてんじゃん」
声色を変えたあたしに対抗するかのように、佳乃くんは襟元を掴むあたしの手を振り払った。それから、さっきまでの甘い表情とは打って変わり、ばつの悪そうな顔をする。
あー、どうしよ。むしょうにいらいらする。
「やだ、なにそれ、なんで、だれの、なんで?」
いつもだったら、たぶん、もうすこし冷静になれた。だけど、度数の高いお酒のせいで熱くなった頭は抑制がきかず、頭の中で考えたことをそのまま言葉として垂れ流してしまう。理性による検閲はまったく機能しない。
誰かが言っていた。酒が人をダメにするのではなく、その人のダメなところを酒が暴くのだと。
ほんとうのあたしはすっごく独占欲が強くて、執着心も深い。だけど重い女だと思われたくないから、佳乃くんの前では自分の醜い気持ちを必死に抑えつけようとしてた。
たくさん摂取したアルコールが、本来のあたしを暴いてしまったのだ。
「ねえやだ、なんでキスマークなんかつけてんの?」
「……あのさあ、」
「なんなの!? エッチするときはいつもあたしだけだよって都合良いこと言っといてやっぱり他に女いるんじゃん!! しかもタートルネック着て隠そうとしてんのセコすぎてふつうにキモいんだけど!!!!」
両手で、佳乃くんの肩を押し除けた。別に強い力じゃなかったけど、佳乃くんはあたしにされるがまま、一歩だけ後ずさる。
あたしは身体中から力が抜けてしまい、その場にしゃがみ込んだ。
今まで佳乃くんに対して我慢してきたこと——たとえば、佳乃くんのスマホにはいつも色んな女から連絡が来ていることとか、佳乃くんの部屋にたまに茶色くて長い髪の毛が落ちていることなどが頭の中に浮かんでは消える。これまでずっと我慢してきた反動のように、それらの負の事情が黒い言葉を形作っていき、どぼどぼと全部溢れていく。
「どうせみんなババアのくせになんであたし以外の女抱くの!?!? あたしにキスマークはつけさせてくれないくせに何ほかの女にキスマークつけさせてんの? やっぱりあたしは遊びだったんじゃん!!!!」
「あのさー、声でけぇよ。落ち着けって。あんま叫ぶと警察呼ばれるし」
「はあ!?!? なんで謝るより先に警察呼ばれる心配するの? ほんっっと自己中だよね?? 佳乃くんなんか大っ嫌い!!!! もうそっち行って!!!!!!」
感情に任せて泣き叫ぶように言葉を放つ。服が汚れるのも、アイメイクが落ちるのも気にせずに、ただ泣いて、叫ぶ。
「あー、だる。もういいや」
佳乃くんは、斜め上を見ながら、ぼそりと悪態をついた。
「え、まって、佳乃くん、どこ行くの」
「おまえがそっち行けって言ったんじゃん」
「やだ、行かないで」
「着いてくんなって。向こうで煙草吸ってくるからおまえはそこで頭冷やしとけ」
ちがうよ、ちがう。そんなふうに言われたいわけじゃない。そんなことしてほしくない。全部ちがうよ、なんでわかってくれないの。
ただ謝って、宵だけだよって言ってほしかっただけなのに。確かに、あっち行ってって言ったけど、本心から言ったわけじゃない。
ただ。ただ、悲しかっただけなの。
立ち上がって、佳乃くんを追いかけたかったのに、アルコールのせいで腰が抜けてうまく立ち上がれない。当たり前だ。さっきまで、佳乃くんにしがみつきながら歩いていたのだから。