鏡花水月
夕暮れ時の鬱蒼とした森の中を、私と桃李と重治が疾走していた。
生い茂る木々の間を、重治が駆け抜ける。行く手を阻む大きな倒木を軽やかな跳躍で飛び越え、太い幹を蹴ってさらには二段超え。着地の瞬間に滑らかな前転を挟んで衝撃を和らげながら、まるで風そのもののように移動していく。
その後方から、私と桃李が追う。剣術は桃李の方が上だが、純粋な体力なら間違いなく重治の方が上だ。
疾走する重治の背中は、まるで獲物を追う獣のようだった。
重治によって突然開催された、この『実戦勘を取り戻すための特訓』。
そのクリア条件は、制限時間一時間以内に、逃げる重治の体にどちらか一人がタッチすること。
私は頭上の太い枝を掴むと、振り子の要領で全身を前方へと加速させ、重治の背後に向かって飛び込んだ。しかし、私の指先が届くより早く、彼はすでに別の木の上へと予測のつかない軌道で飛び移っていた。
「はぁ、はぁ、っ……くそ、すばしっこ……!」
ふと隣を見ると、桃李が顔をしかめて横腹をきつく押さえていた。
平地での剣術の訓練なら何時間でも涼しい顔でこなす彼だが、この足場の悪い、先も見通せない森での泥臭い長距離走は、確実にその体力を根こそぎ削り取っている。
走るペースが目に見えて落ち始めていた。
だが、前方を走る重治は相変わらず楽しげに木々の間をすり抜けていく。
「どうした桃李、もうバテたか!紫乃も足元がおろそかになって遅れてるぞ!」
「待てっ!」
後方から、息も絶え絶えな桃李の叫びが響く。
「待たない」
重治は振り返りもせず、息ひとつ切らさない平坦な声で言い放った。
「だったら……!」
ニヤリと不敵に笑った桃李は、上着のポケットから何かを取り出し、思いっきり重治の背中に向けてぶん投げた。
それは手のひらサイズの木剣だったが、空気を切り裂くような鋭い弾道で飛んでいく。
しかし、重治はそのすべての軌道を、わずかに首を振るだけで完全に回避した。まるで見えない壁でもあるかのように攻撃が重治まで届かない。
「そこまで。時間切れだ」
重治がピタリと足を止め、木漏れ日の中で振り返った。その呼吸は驚くほど乱れておらず、額に薄っすらと汗を浮かべているだけで、相変わらず涼しい顔をしている。
「はぁーっ、クソ……! あとちょっとだったのに……!」
桃李はその場にガクリと膝をつき、肩を大きく上下させながら地面の落ち葉を悔しそうに叩いた。私も近くの細い幹に背中を預け、燃えるように熱い肺を落ち着かせようと必死に酸素を吸い込む。
「桃李、最後の一撃は悪くなかったが、軌道が直線的すぎたな。それに紫乃、途中で足音が大きくなっていた。平八が相手なら、落ち葉を踏むその微かな音だけで位置を特定され、先手を打たれているぞ」
重治は手際よく木刀をまとめ、小脇に抱えながら冷淡に言い放った。相変わらずの正論に、私は言い返す言葉を失って「うぐっ」と喉を鳴らす。
「重治ぃ……ちょっとは俺達の言い訳に優しさってやつを見せろよな……体力オバケめ」
桃李が恨めしそうな顔で、地面に座り込んだままジャージの膝についた泥や枯れ葉をパッパと払った。
「優しさで平八の刃が鈍るなら、いくらでも甘やかそう。だが現実は違う。あいつは躊躇なく俺達の隙を突いてくるぞ」
重治はそう言うと、私達が走ってきた森の奥へと鋭い視線を向けた。
夕暮れ時の赤黒い光が木々の隙間から差し込み、不気味な長い影を地面に落としている。風が吹くたびにザワザワと騒ぐ葉の音が、まるで誰かの囁き声のようにも聞こえて、私は思わず自分の腕をさすった。
「……でも、さすが重治。こんな森、勝手に使ったら怒られそうなのに、よく場所なんて見つけてこれたよね」
張り詰めた空気を変えたくて私が尋ねると、重治はふっと視線をこちらに戻し、いつもの至極真面目な顔になった。
「勝手に使うわけがないだろう。ここは民有地と公有地が入り組んだ私有林の一部だが、現在は管理団体の許可や手続きがあれば、オリエンテーリングや特定の調査目的で立ち入りが認められる区画だ。『夜間の自主的な山岳防災フィールドワークおよび、不審者遭遇時の暗所避難シミュレーション』として、事前にきっちり使用許可の手続きを通しておいた」
「熱意が凄い!」
桃李の全力のツッコミに、重治はフンと鼻で笑う。
「おい、いつまでそうしている。日が暮れるぞ」
重治がそう言って、すでに薄暗くなり始めた森の出口へと歩き出す。私と桃李は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
家に帰る道中、自動販売機でジュースを奢ってもらった。
「一本ずつな」と重治に手渡された冷たい缶を、私と桃李はそれぞれの額に当てて、火照った身体を冷やした。
プシュッ、と小気味いい音が森の入り口に響き、渇ききった喉に炭酸が染み渡っていく。
「あー、もう一歩も動けないよー」
「俺、明日のバイト休むわ」
「サボるな。ただでさえ家賃や光熱費でギリギリなんだぞ」
重治が呆れたようにため息をつきながら、手元の緑茶のペットボトルに口をつけた。そのどこまでもブレない保護者のような態度に、桃李は「へーへー、分かりましたよーだ」と口を尖らせながらジュースを喉に流し込んでいる。
桃李は冷たい缶を首筋に当て直し、ようやく落ち着いてきた呼吸を整えた。
「じゃあ、明日は剣術ね。木刀を持って我が家に集合!」
「家でやるつもりか!?間違いなく苦情が来るぞ」
(確かに。二人はマンションだもんね)
家の中で木刀を振り回せば、翌日には管理会社から警告文が届くのが目に見えている。私の脳裏に、激怒するお隣さんの顔が浮かんで思わず苦笑いが出た。
「じゃあ、近くの河川敷にしよ!あそこなら夕方でも少しはスペースがあるし、多少の音なら響かないしー」
桃李がジュースの缶をゴミ箱に放り込みながら、手元の時計に目を落とす。すっかり日は落ち、街灯の光がぽつぽつと灯り始めていた。
私の提案に、重治は少し考えて込んで「河川敷か。視界が開けている分、周囲の安全確認は容易だな」と、もっともらしい理由をつけて同意してくれた。
生い茂る木々の間を、重治が駆け抜ける。行く手を阻む大きな倒木を軽やかな跳躍で飛び越え、太い幹を蹴ってさらには二段超え。着地の瞬間に滑らかな前転を挟んで衝撃を和らげながら、まるで風そのもののように移動していく。
その後方から、私と桃李が追う。剣術は桃李の方が上だが、純粋な体力なら間違いなく重治の方が上だ。
疾走する重治の背中は、まるで獲物を追う獣のようだった。
重治によって突然開催された、この『実戦勘を取り戻すための特訓』。
そのクリア条件は、制限時間一時間以内に、逃げる重治の体にどちらか一人がタッチすること。
私は頭上の太い枝を掴むと、振り子の要領で全身を前方へと加速させ、重治の背後に向かって飛び込んだ。しかし、私の指先が届くより早く、彼はすでに別の木の上へと予測のつかない軌道で飛び移っていた。
「はぁ、はぁ、っ……くそ、すばしっこ……!」
ふと隣を見ると、桃李が顔をしかめて横腹をきつく押さえていた。
平地での剣術の訓練なら何時間でも涼しい顔でこなす彼だが、この足場の悪い、先も見通せない森での泥臭い長距離走は、確実にその体力を根こそぎ削り取っている。
走るペースが目に見えて落ち始めていた。
だが、前方を走る重治は相変わらず楽しげに木々の間をすり抜けていく。
「どうした桃李、もうバテたか!紫乃も足元がおろそかになって遅れてるぞ!」
「待てっ!」
後方から、息も絶え絶えな桃李の叫びが響く。
「待たない」
重治は振り返りもせず、息ひとつ切らさない平坦な声で言い放った。
「だったら……!」
ニヤリと不敵に笑った桃李は、上着のポケットから何かを取り出し、思いっきり重治の背中に向けてぶん投げた。
それは手のひらサイズの木剣だったが、空気を切り裂くような鋭い弾道で飛んでいく。
しかし、重治はそのすべての軌道を、わずかに首を振るだけで完全に回避した。まるで見えない壁でもあるかのように攻撃が重治まで届かない。
「そこまで。時間切れだ」
重治がピタリと足を止め、木漏れ日の中で振り返った。その呼吸は驚くほど乱れておらず、額に薄っすらと汗を浮かべているだけで、相変わらず涼しい顔をしている。
「はぁーっ、クソ……! あとちょっとだったのに……!」
桃李はその場にガクリと膝をつき、肩を大きく上下させながら地面の落ち葉を悔しそうに叩いた。私も近くの細い幹に背中を預け、燃えるように熱い肺を落ち着かせようと必死に酸素を吸い込む。
「桃李、最後の一撃は悪くなかったが、軌道が直線的すぎたな。それに紫乃、途中で足音が大きくなっていた。平八が相手なら、落ち葉を踏むその微かな音だけで位置を特定され、先手を打たれているぞ」
重治は手際よく木刀をまとめ、小脇に抱えながら冷淡に言い放った。相変わらずの正論に、私は言い返す言葉を失って「うぐっ」と喉を鳴らす。
「重治ぃ……ちょっとは俺達の言い訳に優しさってやつを見せろよな……体力オバケめ」
桃李が恨めしそうな顔で、地面に座り込んだままジャージの膝についた泥や枯れ葉をパッパと払った。
「優しさで平八の刃が鈍るなら、いくらでも甘やかそう。だが現実は違う。あいつは躊躇なく俺達の隙を突いてくるぞ」
重治はそう言うと、私達が走ってきた森の奥へと鋭い視線を向けた。
夕暮れ時の赤黒い光が木々の隙間から差し込み、不気味な長い影を地面に落としている。風が吹くたびにザワザワと騒ぐ葉の音が、まるで誰かの囁き声のようにも聞こえて、私は思わず自分の腕をさすった。
「……でも、さすが重治。こんな森、勝手に使ったら怒られそうなのに、よく場所なんて見つけてこれたよね」
張り詰めた空気を変えたくて私が尋ねると、重治はふっと視線をこちらに戻し、いつもの至極真面目な顔になった。
「勝手に使うわけがないだろう。ここは民有地と公有地が入り組んだ私有林の一部だが、現在は管理団体の許可や手続きがあれば、オリエンテーリングや特定の調査目的で立ち入りが認められる区画だ。『夜間の自主的な山岳防災フィールドワークおよび、不審者遭遇時の暗所避難シミュレーション』として、事前にきっちり使用許可の手続きを通しておいた」
「熱意が凄い!」
桃李の全力のツッコミに、重治はフンと鼻で笑う。
「おい、いつまでそうしている。日が暮れるぞ」
重治がそう言って、すでに薄暗くなり始めた森の出口へと歩き出す。私と桃李は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
家に帰る道中、自動販売機でジュースを奢ってもらった。
「一本ずつな」と重治に手渡された冷たい缶を、私と桃李はそれぞれの額に当てて、火照った身体を冷やした。
プシュッ、と小気味いい音が森の入り口に響き、渇ききった喉に炭酸が染み渡っていく。
「あー、もう一歩も動けないよー」
「俺、明日のバイト休むわ」
「サボるな。ただでさえ家賃や光熱費でギリギリなんだぞ」
重治が呆れたようにため息をつきながら、手元の緑茶のペットボトルに口をつけた。そのどこまでもブレない保護者のような態度に、桃李は「へーへー、分かりましたよーだ」と口を尖らせながらジュースを喉に流し込んでいる。
桃李は冷たい缶を首筋に当て直し、ようやく落ち着いてきた呼吸を整えた。
「じゃあ、明日は剣術ね。木刀を持って我が家に集合!」
「家でやるつもりか!?間違いなく苦情が来るぞ」
(確かに。二人はマンションだもんね)
家の中で木刀を振り回せば、翌日には管理会社から警告文が届くのが目に見えている。私の脳裏に、激怒するお隣さんの顔が浮かんで思わず苦笑いが出た。
「じゃあ、近くの河川敷にしよ!あそこなら夕方でも少しはスペースがあるし、多少の音なら響かないしー」
桃李がジュースの缶をゴミ箱に放り込みながら、手元の時計に目を落とす。すっかり日は落ち、街灯の光がぽつぽつと灯り始めていた。
私の提案に、重治は少し考えて込んで「河川敷か。視界が開けている分、周囲の安全確認は容易だな」と、もっともらしい理由をつけて同意してくれた。