鏡花水月
都心から遠く離れた、廃れ果てた街中。
差し込まれた陽の光さえも灰色にくすんで見えるその場所は、かつて人が行き交っていた気配を完全に失っていた。
ひび割れたアスファルトの隙間からは、遠慮を知らない雑草が鋭く伸び、ねじ曲がった鉄骨に絡みついている。かつて誰かの生活を支えていたであろう建物の残骸は、今や崩れ落ちたコンクリートの塊となり、物言わぬ墓標のように不規則に転がっていた。
名目上、母星の警察と領事館警察の共同で治安維持を行う租界は、境界線が曖昧で、どちらの法も届かない不入の地だった。
法の隙間を縫うようにして、軍閥や財閥、権力者といった、有り余る富と暇を持て余した特権階級達の非合法的な夜会が行われていることも珍しくない。
表の社会から見捨てられ、混沌が支配するその街は『魔都』と呼ばれ、一般人の立ち入りを固く禁じる危険地帯となっていた。
そんな魔都の片隅に、軍閥が経営するカジノがあった。
決して華やかで豪華ではない。どちらかといえば、地味で、日陰でこそこそしているような雰囲気。しかし、電子ロックされた重厚な防音扉の向こう側に一歩足を踏みれば、そこは狂ったような別世界だった。
煙草の紫煙(しえん)がくすぶる空間に集う客は、すべて一流の財界人や政治家、軍将校といった権力者。
彼らは最高級のヴィンテージボトルを片手に、数百万、数千万のチップを平然と積み上げ、散財していく。
ディーラーがカードをめくる乾いた音と、ルーレットの玉が転がる微かな音。その喧騒に紛れ込ませるようにして、男達は表舞台では決して口にできない、国家を揺るがすような秘密の会話に興じていた。
欲望が渦巻く、完璧に隔離された密室。
異変は唐突に起こった。
カチリ、と奇妙な電子音が響いた直後、天井のスプリンクラーが一斉に作動。室内に勢いよく液体を散布し始めた。
しかし、撒かれたのは水ではなかった。それは白い液体で、絨毯(じゅうたん)や衣服、布に付着した瞬間に激しく揮発し、気体となって空中に漂い出す。
「な、なんだこれは……!? げほっ、ごほっ!」
一人、また一人と部屋の中に気絶していく。何が起きたのかを理解し、防衛のために動くことができたのはほんの一握りの警護兵だけだった。だが、それすらも無駄な抵抗に過ぎない。
ほとんどの人間は、激しく咳込みながら、自らの身体を丸めるようにして次々と床へ崩れ落ち、意識を失っていった。
撒かれたのは呼吸器系に急速に作用する特殊睡眠ガスだったため、死には至らなかった。
カジノの重厚な正面扉が、凄まじい衝撃音とともに内側へと大きく跳ね開いた。打ち付けられた扉の反動が床を揺らし、室内の贅沢なガラス細工のシャンデリアが不気味にジャラジャラと鳴り響く。
刀を持った平八が裾を夜風にたなびかせながら、ゆっくりと、まるで深夜の散歩でもしているかのような平然とした足取りで室内へと歩みを進めてくる。
懐からハンカチを取り出し、ガスを吸わないように無造作に己の口元を覆った。
現役時代、隠密作戦で幾度となく使用した、標的を『生かしたまま無力化する』ための確実な手段。 
「これは当たりみたいだな」
彼は手に持っていた電子端末にちらりと視線を落とすと、そこに表示されている出席者のリストと、目の前にいる権力者達の顔を冷徹に見比べた。
「……探す手間が省けたな。どいつもこいつも、よくこれだけ揃いも揃って呑気に集まってくれたもんだ」
その低く据わった声には、かつての戦場で仲間を裏切り、自分達だけ安全な場所へ逃げ延びた上層部や、この国を支配しながらも英雄として街中を胸を張って歩いている総督府への、底知れない怒りと軽蔑が冷たく宿っていた。
「安心しろ。まだ殺しはしないさ。そんな簡単に終わらせてたまるか」
平八は電子端末を懐に収めると、クククッ……と不敵な笑みを浮かべた。
その視線は、もはや完全に意識を失い、泥のように眠りこけている権力者達へと向けられている。
「ああ、もう聞こえちゃいねぇか」
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