鏡花水月
夢見が悪いのは、今に始まったことじゃない。
最近は思考の整理が追いつかないせいか、一晩の間に目まぐるしく色んな夢を見る。木漏れ日のような平和な夢、血生臭い戦争の夢、他愛のない楽しい夢、そして息が詰まるような悪夢。
――そして今日はどうやら、酷く残酷で、平和な夢らしい。
作戦会議の時、机の上に敵に見立てた小石を並べながら、重治は淡々と説明してくれた。
戦う際は全員で一気に切り込み、敵の虚を突く。彼の張り巡らせた奇襲作戦は、結果から見れば見事に大成功を収めた。
その作戦が成功したばかりの、よく晴れた日の夕方。
前線基地に組まれた簡易的な山屋根の上で、呑気に寝転がっている平八の隣に腰掛ける。膝を抱え、ずっと思っていた疑問をふと口にしてみる。
「今までの私達の勝因って、重治を敵に回さなかったことじゃない?」
あんな恐ろしい頭脳を持った男がもし敵陣営の軍師だったらと想像するだけで、ゾッとする。
しかし、平八は目元に腕を乗せたまま鼻で笑った。
「何言ってんだ紫乃。俺達の快進撃のおかげだろうが」
「いや、そうなんだけど……」
私は膝を抱える腕に少し力を込め、沈みかける太陽を見つめた。作戦は成功した。けれど、喉の奥に小骨が引っかかっているような、割り切れない重苦しさが肌にまとわりついている。
「平八、戦況はどう思う?」
平八は腕を乗せたまま、しばらく沈黙した。
屋根の下から聞こえる、仲間達の話し声や、金属が擦れ合う乾いた音が風に乗って流れてくる。
「……最悪だな。ひっきりなしの攻めの上、食糧も底をつきかけている」
「みんなお腹空かせているもんね」
「まぁ、風呂の問題は川で水浴びでもすりゃ良いんだが……さすがに腹が減っては戦はできねぇ。まともな食糧が欲しいよな」
相変わらず、現実逃避のようにそのまま昼寝を決め込もうとする平八。その時、屋根の下から野太い声が響いた。補給部隊の、いつもお調子者の松広だった。
「お前ら暇かー?」
「どうしたのー?」
屋根の上から顔を覗かせると、松広が手招きをしている。
「川辺に集合!!」
「川辺?」と私が首を傾げるより早く、平八がそれまで重そうだった体をバネのように跳ね起き上がらせた。
平八と松広の後に続いて川辺に足を運んでみると、そこには同じように声を掛けられたらしい、五十人ほどの仲間が集まっていた。
茜色の光を反射してきらきらと輝く水面。そのほとりに、ずらりと並んだ泥だらけの仲間達。みんな一様に「何事だ?」と眉をひそめたり、そわそわと辺りを見回したりしている。
そんなざわめきの中、上官が大きな岩の上に飛び乗った。
「よし、全員揃ったな!急に集まってもらったのは他でもない。明日の総力戦を前に、少しでも腹に力を蓄えるためだ!」
上官がバッと指さした先には、浅瀬のあちこちでバシャバシャと跳ねる無数の魚の影があった。
夕日に照らされて銀色に光る魚群を見た瞬間、それまで静まり返っていた川辺が一気に沸き立った。
「おい、まさか……!」
「そうだ!今からここで魚掴み大会を行う! 道具はない、己の手だけで捕まえろ!捕った分だけ今夜の飯が豪華になるぞ!」
「よっしゃあ!! 祭りだぁぁ!!」
一番に獣のような雄叫びを上げたのは、私の隣にいた桃李だった。履いていた草履をその場に脱ぎ捨てるなり、ものすごい勢いでバシャーンと川へと飛び込んでいく。
「おい桃李、抜け駆けすんな!」
「うるせぇ、俺の晩飯を増やすんだよ!」
周りの仲間達も堰を切ったように次々と水の中へ飛び込んでいった。
冷たい水しぶきが、オレンジ色の光を浴びてキラキラと宙に舞う。泥にまみれ、連日の行軍で疲れ果てていたはずの大人達が、まるで子供のように大声を上げて魚を追いかけている。
「何も全員で入ることか……?」
松広は木陰の岩に腰掛け、我先にと川へ飛び込み、水しぶきを上げながら魚を追いかける仲間たちをぼんやりと眺めながら呟いた。
「良い機会だからみんなで発散しようってことじゃない? 水浴びも兼ねて一石二鳥」
私が苦笑混じりに声をかけると、近くで衣服を脱ぎ散らかしていた他の仲間が、我が意を得たりと口々に賛同した。
「そうですよ!俺らもしばらく、まともに体も洗えてなかったですしね!」
「そーそー、これぞまさに『裸の付き合い』ってやつでしょ? 団結力も上がるってなもんだ!」
すると、その言葉を聞いた重治が濡れた髪を豪快にかき上げながらニンマリと口角を上げた。
「よぉぉし!今日は無礼講だ!」
「ギャァァァ!」
「こっち来んなぁぁ!」
「来るなぁぁ!」
容赦なく水を撥ね散らかしながら追いかけてくる重治から、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う面々。
その一方で、桃李と平八は何故かまた別の言い争いを始めていた。
やんややんやと再び始まった二人の喧嘩に、松広だけでなく、周囲で見守る仲間からもどっと温かい笑いが沸き起こる。
水しぶきの音、笑い声、臨戦態勢の男達のどこか抜けた声。
賑やかで、どこまでも他愛のない、自分達が苛烈な戦場に身を置いていることすら忘れてしまいそうな、あまりにも穏やかな時間がそこには流れていた。
「なぁ紫乃。ちょっとコイツら止めてくれね?僕じゃ無理」
突然話を振られ、私は「えっ?」と目を丸くした。
促されるままに視線を後ろへ向ければ、
「いいか!?目玉焼きには醤油だろ!醤油一択だ!」
「いや、素材の味を引き立てる塩コショウこそ至高だ!お前の舌はどうなってんだよ!」
と、これ以上ないほど不毛な言い争いをヒートアップさせている平八と桃李の姿がある。
「嫌だよ、面倒くさいもん」
「僕もー」
呆れたように肩をすくめる松広の隣へ、いつの間にか水浴びを終えた重治が、濡れた着物を絞りながら歩み寄ってきた。
「……これで食糧問題でも解決すりゃ良いんだがな」
「そーだなー。川魚はいるけど、さすがに全員分お腹いっぱいには、なかなか……」
「いっそ、裏の山にでも入って野兎でも数羽狩ってくるか?」
「……あ、そうだ」
桃李が何かを思い出したように、濡れた懐から小銭を引っ張り出し、手のひらの上でジャラリと転がした。
「ねぇ、誰かひとっ走りしてくんない?ここに三百円あるから、購買で焼きそばパン買ってきて」
あまりに場違いな単語の数々に、その場時間が一瞬だけ止まる。
戦場の張り詰めた空気を完全に置き去りにしたその台詞に、重治が心底呆れたような、これ以上ないほど冷ややかな視線を向けた。
「誰が行くか。ここ山の中だぞ、購買なんかあるわけないだろ」
「大丈夫、大丈夫だって!敵は昼間撤退したから当分安全だし、大丈夫だから!」
「そういう問題じゃない!敵が引いたなら追撃しろよ!」
「追撃?やだよ、疲れるし。それにほら、腹が減っては戦はできぬって言うじゃん」
目の前では、さっきまで醤油がどうのと言っていた平八が、「じゃあ、焼きそばパンが無理なら、せめておにぎり……ツナマヨ」などと、大真面目な顔でぶつぶつと呟き始めている。
「ねぇ、これ止めるの無理だよ」
「ですね。諦めて野兎狩りしましょ」
そう言って、ニシシと悪戯っぽく少年みたいに笑った松広は―――次の戦いで、仲間を助けようと散っていった。
ふわり、ボヤけた夢が暗くなっていく。水の中から地面を割るような感覚を肌で感じ、やっと目が覚めたのだと気づく。
目を開ければ、冷たい現実の天井が視界に広がる。頬を伝う涙が耳元に流れ落ちるのを感じながら、私は深く息を吐き出した。
涙で濡れた目元をパジャマの袖で覆いながら、私はゆっくりと上体を起こした。
どんなにくだらなくて、どんなに愛おしくても、あの場所にはもう戻れない。平八がいくら国をひっくり返そうと暴れたところで、失われた命が帰ってくるわけではない。
だけど、あの地獄を生き残ってしまった私達には、それぞれ落とし前をつけなければならない現実がある。
「泣いてる場合じゃないや……」
もうすぐ夜が明ける。
最近は思考の整理が追いつかないせいか、一晩の間に目まぐるしく色んな夢を見る。木漏れ日のような平和な夢、血生臭い戦争の夢、他愛のない楽しい夢、そして息が詰まるような悪夢。
――そして今日はどうやら、酷く残酷で、平和な夢らしい。
作戦会議の時、机の上に敵に見立てた小石を並べながら、重治は淡々と説明してくれた。
戦う際は全員で一気に切り込み、敵の虚を突く。彼の張り巡らせた奇襲作戦は、結果から見れば見事に大成功を収めた。
その作戦が成功したばかりの、よく晴れた日の夕方。
前線基地に組まれた簡易的な山屋根の上で、呑気に寝転がっている平八の隣に腰掛ける。膝を抱え、ずっと思っていた疑問をふと口にしてみる。
「今までの私達の勝因って、重治を敵に回さなかったことじゃない?」
あんな恐ろしい頭脳を持った男がもし敵陣営の軍師だったらと想像するだけで、ゾッとする。
しかし、平八は目元に腕を乗せたまま鼻で笑った。
「何言ってんだ紫乃。俺達の快進撃のおかげだろうが」
「いや、そうなんだけど……」
私は膝を抱える腕に少し力を込め、沈みかける太陽を見つめた。作戦は成功した。けれど、喉の奥に小骨が引っかかっているような、割り切れない重苦しさが肌にまとわりついている。
「平八、戦況はどう思う?」
平八は腕を乗せたまま、しばらく沈黙した。
屋根の下から聞こえる、仲間達の話し声や、金属が擦れ合う乾いた音が風に乗って流れてくる。
「……最悪だな。ひっきりなしの攻めの上、食糧も底をつきかけている」
「みんなお腹空かせているもんね」
「まぁ、風呂の問題は川で水浴びでもすりゃ良いんだが……さすがに腹が減っては戦はできねぇ。まともな食糧が欲しいよな」
相変わらず、現実逃避のようにそのまま昼寝を決め込もうとする平八。その時、屋根の下から野太い声が響いた。補給部隊の、いつもお調子者の松広だった。
「お前ら暇かー?」
「どうしたのー?」
屋根の上から顔を覗かせると、松広が手招きをしている。
「川辺に集合!!」
「川辺?」と私が首を傾げるより早く、平八がそれまで重そうだった体をバネのように跳ね起き上がらせた。
平八と松広の後に続いて川辺に足を運んでみると、そこには同じように声を掛けられたらしい、五十人ほどの仲間が集まっていた。
茜色の光を反射してきらきらと輝く水面。そのほとりに、ずらりと並んだ泥だらけの仲間達。みんな一様に「何事だ?」と眉をひそめたり、そわそわと辺りを見回したりしている。
そんなざわめきの中、上官が大きな岩の上に飛び乗った。
「よし、全員揃ったな!急に集まってもらったのは他でもない。明日の総力戦を前に、少しでも腹に力を蓄えるためだ!」
上官がバッと指さした先には、浅瀬のあちこちでバシャバシャと跳ねる無数の魚の影があった。
夕日に照らされて銀色に光る魚群を見た瞬間、それまで静まり返っていた川辺が一気に沸き立った。
「おい、まさか……!」
「そうだ!今からここで魚掴み大会を行う! 道具はない、己の手だけで捕まえろ!捕った分だけ今夜の飯が豪華になるぞ!」
「よっしゃあ!! 祭りだぁぁ!!」
一番に獣のような雄叫びを上げたのは、私の隣にいた桃李だった。履いていた草履をその場に脱ぎ捨てるなり、ものすごい勢いでバシャーンと川へと飛び込んでいく。
「おい桃李、抜け駆けすんな!」
「うるせぇ、俺の晩飯を増やすんだよ!」
周りの仲間達も堰を切ったように次々と水の中へ飛び込んでいった。
冷たい水しぶきが、オレンジ色の光を浴びてキラキラと宙に舞う。泥にまみれ、連日の行軍で疲れ果てていたはずの大人達が、まるで子供のように大声を上げて魚を追いかけている。
「何も全員で入ることか……?」
松広は木陰の岩に腰掛け、我先にと川へ飛び込み、水しぶきを上げながら魚を追いかける仲間たちをぼんやりと眺めながら呟いた。
「良い機会だからみんなで発散しようってことじゃない? 水浴びも兼ねて一石二鳥」
私が苦笑混じりに声をかけると、近くで衣服を脱ぎ散らかしていた他の仲間が、我が意を得たりと口々に賛同した。
「そうですよ!俺らもしばらく、まともに体も洗えてなかったですしね!」
「そーそー、これぞまさに『裸の付き合い』ってやつでしょ? 団結力も上がるってなもんだ!」
すると、その言葉を聞いた重治が濡れた髪を豪快にかき上げながらニンマリと口角を上げた。
「よぉぉし!今日は無礼講だ!」
「ギャァァァ!」
「こっち来んなぁぁ!」
「来るなぁぁ!」
容赦なく水を撥ね散らかしながら追いかけてくる重治から、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う面々。
その一方で、桃李と平八は何故かまた別の言い争いを始めていた。
やんややんやと再び始まった二人の喧嘩に、松広だけでなく、周囲で見守る仲間からもどっと温かい笑いが沸き起こる。
水しぶきの音、笑い声、臨戦態勢の男達のどこか抜けた声。
賑やかで、どこまでも他愛のない、自分達が苛烈な戦場に身を置いていることすら忘れてしまいそうな、あまりにも穏やかな時間がそこには流れていた。
「なぁ紫乃。ちょっとコイツら止めてくれね?僕じゃ無理」
突然話を振られ、私は「えっ?」と目を丸くした。
促されるままに視線を後ろへ向ければ、
「いいか!?目玉焼きには醤油だろ!醤油一択だ!」
「いや、素材の味を引き立てる塩コショウこそ至高だ!お前の舌はどうなってんだよ!」
と、これ以上ないほど不毛な言い争いをヒートアップさせている平八と桃李の姿がある。
「嫌だよ、面倒くさいもん」
「僕もー」
呆れたように肩をすくめる松広の隣へ、いつの間にか水浴びを終えた重治が、濡れた着物を絞りながら歩み寄ってきた。
「……これで食糧問題でも解決すりゃ良いんだがな」
「そーだなー。川魚はいるけど、さすがに全員分お腹いっぱいには、なかなか……」
「いっそ、裏の山にでも入って野兎でも数羽狩ってくるか?」
「……あ、そうだ」
桃李が何かを思い出したように、濡れた懐から小銭を引っ張り出し、手のひらの上でジャラリと転がした。
「ねぇ、誰かひとっ走りしてくんない?ここに三百円あるから、購買で焼きそばパン買ってきて」
あまりに場違いな単語の数々に、その場時間が一瞬だけ止まる。
戦場の張り詰めた空気を完全に置き去りにしたその台詞に、重治が心底呆れたような、これ以上ないほど冷ややかな視線を向けた。
「誰が行くか。ここ山の中だぞ、購買なんかあるわけないだろ」
「大丈夫、大丈夫だって!敵は昼間撤退したから当分安全だし、大丈夫だから!」
「そういう問題じゃない!敵が引いたなら追撃しろよ!」
「追撃?やだよ、疲れるし。それにほら、腹が減っては戦はできぬって言うじゃん」
目の前では、さっきまで醤油がどうのと言っていた平八が、「じゃあ、焼きそばパンが無理なら、せめておにぎり……ツナマヨ」などと、大真面目な顔でぶつぶつと呟き始めている。
「ねぇ、これ止めるの無理だよ」
「ですね。諦めて野兎狩りしましょ」
そう言って、ニシシと悪戯っぽく少年みたいに笑った松広は―――次の戦いで、仲間を助けようと散っていった。
ふわり、ボヤけた夢が暗くなっていく。水の中から地面を割るような感覚を肌で感じ、やっと目が覚めたのだと気づく。
目を開ければ、冷たい現実の天井が視界に広がる。頬を伝う涙が耳元に流れ落ちるのを感じながら、私は深く息を吐き出した。
涙で濡れた目元をパジャマの袖で覆いながら、私はゆっくりと上体を起こした。
どんなにくだらなくて、どんなに愛おしくても、あの場所にはもう戻れない。平八がいくら国をひっくり返そうと暴れたところで、失われた命が帰ってくるわけではない。
だけど、あの地獄を生き残ってしまった私達には、それぞれ落とし前をつけなければならない現実がある。
「泣いてる場合じゃないや……」
もうすぐ夜が明ける。


